『日本書紀』創られた日本 83 聖徳太子についての話10です
四天王寺と法隆寺
聖徳太子に関係する寺として双璧ともいえる、四天王寺と法隆寺ですが、『日本書紀』における扱いは対照的ともいえるものになっています。
四天王寺に関しては、聖徳太子の発願によって建てられたと読める記述がされています。
もっともこれに関しては、『日本書紀』編纂時に四天王寺が推古天皇が建立した宮寺として存在しており、読み方によっては太子が建立したともとれる表現であることを、前回の記事で見ました。
それに対してこれまで何回か触れて来たように、『日本書紀』には聖徳太子が法隆寺を建立したという話はありません。
それ以前に、法隆寺が建てられたという記述すら、どこにも出て来ません
ただ、建てられたという話はありませんが、天智天皇9年(670年)に法隆寺が、火災により建物を残すことなく焼失したという旨が記述されています。
焼失したのですから、確かに建っていたという事なのでしょうか。
聖徳太子の建てたもの
聖徳太子が建てたものとしては、推古天皇9年に寺ではなく宮を斑鳩の地に建てたと『日本書紀』にはあります。
ところで、現在の法隆寺の東院伽藍は、この斑鳩宮の故地に建てられていると考えられています。
引用元:現在の法隆寺は2代目だった!?~現存する最古の木造建築~ - まっぷるウェブ
西院伽藍との位置関係から見て、斑鳩宮の一部として西の部分に寺を併設したのだと思われます。
一族の為の私的なものだったのでしょうか。
そのため『日本書紀』には、寺も含めて斑鳩宮の建設として書かれたとも考えられそうです。
法隆寺ではなかった
ここで、「法隆寺」という名称について考えてみます。
「隆」という字には、 「隆起」のように中央が高い、高くする、といった意味と共に、「隆盛」といった、栄える、さかんになるという意味もあります。
「法隆寺」は、「法」すなわち仏法=仏教が「隆」すなわち栄えるといった意味があると考えられます。
聖徳太子が建立したという事であれば、仏教を栄えさせていくという太子の決意を示した命名と言えるかもしれません。
しかし『日本書紀』によれば、同時期に蘇我馬子が「法興寺」を建立したとあります。
蘇我馬子といえば当時の権力のトップといって差支えがないでしょう。
その人物が、これから仏法=仏教を興していくという意味の寺を建立したのに、かぶせるようにして仏教を栄えさせていくという意味の寺を造るというのはどうなんでしょう。
つまり、聖徳太子が斑鳩宮の一部として建立した寺は、法隆寺という名前ではなかったのではないかと考えられるのです。
どんな名だったのか
皇極天皇2年(643年)蘇我入鹿が、斑鳩宮にあった聖徳太子の子山背大兄王を襲撃します。
山背大兄王と一族の者は、一旦胆駒(生駒)山に逃れますが、最終的には山を下り、斑鳩寺で一族そろって自害してしまいます。
これで、聖徳太子の血は途絶えてしまいます。
生駒山地の南の端には斑鳩の地が有ります。
山背大兄王と一族が自害した斑鳩寺は、上で出て来た斑鳩宮に創られた寺だったと考えてよさそうです。
聖徳太子が名付けたかどうかは分かりませんが、斑鳩宮に併設された寺は斑鳩寺と呼ばれていたのです。
とすると、天智天皇9年(670年)に焼失した法隆寺はなんなのでしょうか。
ではでは