卑弥呼の墓は宇佐神宮
前回の話では、その地形的な特徴から宇佐神宮が卑弥呼の墓だと考えても、『魏志倭人伝』の内容に対して大きな矛盾が無いことを確認しました。
今回は、その事を前提として、卑弥呼の墓と前方後円墳の関係について考えます。
地形的特徴
先ず前回も挙げた宇佐神宮の赤色地形図で、地形的特徴を確認します(後で上げる境内図に合わせるために、天地逆となっています)。
出典:「地理院タイル」(https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html)
緑色の円は筆者が追加
『魏志倭人伝』の記述から円墳と推定される卑弥呼の墓ですが、見てわかるように宇佐神宮はどちらかと言えば楕円よりです。
前回の記事では、緑色の円で示したように、一部を造成して径100余歩の円墳にしたと考えました。
その結果、「小高い山に登っていくと標高30mほどのところに平らになった部分があり、そこに立つと眼前に径100余歩の円墳の卑弥呼の墓が鎮座していた」という光景を想像できました。
これは、現在の宇佐神宮の境内図でも確認できます。
階段を上がった先の宇佐鳥居の前の広場のような部分が、標高30mほどの所の平らな部分で、その前の西大門から先が円墳だったと考えられます。
その円墳部分を使って宇佐神宮の社殿が建てられていますので、卑弥呼の墓は原型をとどめていない、という事になります。
前方後円墳ではないが
卑弥呼の墓が出来た当時には、現在見られるような鬱蒼とした森は無かったと思われ、赤色立体図で見る地形に近い状態だったと考えられます。
その宇佐神宮の赤色立体図を始めてみた時には、正直これは円墳ではなく、前方後円墳では無いかと思いました。
その後、上でも書いたように、地形を検討することに拠り、標高30m付近を造成することに拠り円墳を形成したと考えれば良いと思いつきました。
つまり、邪馬台国及びその連合国の人たちの、卑弥呼の墓を見上げていたその脳裏には、円墳とその前方の祈りなどに使われたであろう一段低い平らな部分の情景が有ったと思われます。
それ以降に亡くなった権力者の墓を造るのに際して、この情景を基に造ったと考えるのは、それほど突飛なことではないでしょう。
これこそが前方後円墳の始まりではないでしょうか。
そのまま造れば前円後円墳になりそうですが、あくまでも墓としての円墳とそれに付随する部分という事を明確にするために、前部が方形になったのではないかと思っています。
前方後円墳は、九州で造り始められたのです。
ではでは