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邪馬台国から大和へ 8 -『魏志倭人伝』の正式名称からー

改めて、『魏志倭人伝』の正式名称から考えた話です

 

 

魏志倭人伝』の正式名称

 以前にも一度出て来ましたが、『魏志倭人伝』については、そういった名称のものは存在せず、中国の正史『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条を指す通称、または略称だということになります。

魏、蜀、呉の三国の内の魏の歴史を纏めたものの第30巻目の、烏丸鮮卑東夷伝の中の倭人の条(項目といった意味です)を、「魏志倭人伝」と通称しているのです。

烏丸鮮卑東夷伝倭人条の内、烏丸、鮮卑は、北方の民族名です。

東夷伝は、東方の民族について記述したものという意味で、夫餘・高句麗・東沃沮・挹婁・濊・韓・倭が含まれます。

その中の倭に関する部分が、倭人条となります。

ところで、東夷伝の東夷は、単に東方を指しているわけではなく、古代中国において、東西南北4方位の異民族を蔑称して、東夷(とうい),西戎(せいじゅう),南蛮(なんばん),北狄(ほくてき)と呼んだことから、こういった名称となっています。

つまり、烏丸鮮卑東夷伝は、北狄と東夷に関して纏めた巻という事になります。

西戎,南蛮についての記述は

 では、西戎,南蛮の国に関しては、どのように纏められているのかというと。

なにも無いのです。

西戎伝,南蛮伝といったものは、「魏志」には存在すらしていません。

南蛮すなわち南方に関しては、蜀、呉の両国があったわけで、南蛮伝がないというのも、頷けないわけではありません。

一方、大月氏からの朝貢もあった、西方に関して無いというのは、明らかに作為的なものが感じられます。

北方と東方しか無いのは

 前回の記事で見たように『三国志』は、西晋王朝を開いた司馬氏に徳があることを示すために、編纂されたという事でした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

その司馬氏は、司馬懿が前王朝の魏時代に、中国東北部及び朝鮮半島北部での公孫淵の反乱を鎮圧したことで、それらの地域を治める立場にありました。

そのため、司馬氏と関係の深かった、北方と東方の国に関する記述のみで、西方と南方に関しては、纏めることすらしなかったと思われるのです。

加えて、邪馬台国を西方の大月氏に匹敵する存在だとするために、旅程を書き換えてその位置を南方に移動させたのです。


 かなり見え見えの纏め方だと思うのですが、正史というのはそういうものだという事なのかもしれません。


ではでは