『日本書紀』創られた日本 77 聖徳太子についての話4です。
大和政権は送っていない
前回の話で、中国の隋王朝の記録として残る倭国からの使者、いわゆる「遣隋使」の話に対するミスリード役として創り出されたのが、超人的な聖徳太子ではないかと考えました。
隋の記録に対して、大和政権にはこんなスーパーマン聖徳太子がいましたよ、というのです。
ただし、決して聖徳太子が隋に使者を送ったという、直接的な記述はされません。
あくまでも、ほのめかすだけです。
つまり、実際に遣隋使を送ったのは、大和政権ではないという事になります。
今回は、遣隋使がどこから来たのかについて、隋側の記録から考えて見ます。
『隋書』の記述
遣隋使に関係する記述は、「隋」の正史『隋書』にあるのですが、それによると遣隋使が、一回目の600年に続いて、607年にやって来たとあります。
この二回目の時の国書が、有名な「日出ずる所の云々」のものです。
これに対して、翌年に裴世清とい人物が使者として派遣されます。
その報告に、旅程が含まれているのですが。
明年 上遣文林郎裴淸使於俀国 度百濟行至竹島 南望聃羅國經都斯麻國逈在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏 以為夷洲疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀
「明年、上は文林郎の裴清を使して俀国へ遣はす。百済へ度り、行きて竹島に至る。南に耽羅国を望み、逈(はる)かな大海中に在る都斯麻国を経る。また東し、一支国に至る。また竹斯国に至る。また東し、秦王国に至る。その人は華夏に同じ。思へらくは夷洲。疑いは明らかにすること能はず。また十余国を経て海岸に達する。竹斯国より以東はみな俀に附庸す。」
細かいことは置いておいて、百済から色々経た後に、都斯麻国(対馬)、一支国(壱岐)を経て竹斯国に着いたとなっています。
竹斯国は、筑紫、今の福岡市付近と考えられています。
その東にある秦王国は中国人の国だと書いてありますが、亡命して来た人や商人などによって中華街のようなものが出来ていたのでしょうか。
畿内というには無理が
その次の、「十余国を経て海岸に達する」が問題です。
『日本書紀』にあるように畿内の大和政権まで行ったとすると、瀬戸内海沿いの十か国を経て畿内の海岸に着いたと考えざるを得ないのですが、いかにも苦しいです。
それまで国名を書いてきたのに、十余国とひと纏めにするのはいかにも不自然です。
九州での旅程より、この十余国の旅程の方がはるかに長いにも関わらずです。
それでは、使者の報告としては問題ありと言わざるを得ません。
九州から出ていない
ここは素直に、秦王国から東の海岸までの間に十余国あると解釈すべきではないでしょうか。
そして竹斯国から東の海岸までの秦王国と十余国はすべて倭国に属しているといっている訳です。
使者は、秦王国でその東に位置する十余国について聞いたのでしょう。
その十余国については、実際に行っていないので国名を記さなかったと考えれば、報告として一貫性が有ると言えそうです。
その後の記述で、倭王からの迎えの者が来て、都に着いたとあります。
つまり、使者の裴世清一行は、竹斯国と秦王国しか行っておらず、九州から出ていないのです。
都は九州にあったと考えざるを得ません。
つまり遣隋使を送ったのも大和政権ではなく、九州王朝だったということになります。
『日本書紀』の記述はでっち上げということになります。
ではでは