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『日本書紀』創られた日本 89 -小野妹子-

『日本書紀』創られた日本 89 小野妹子についての話です

日本書紀の遣隋使は

 ここまで、『日本書紀』に書かれた厩戸王(聖徳太子)の話は、中国の歴史書『隋書』の記述による倭からの使節、所謂遣隋使を、大和朝廷が派遣したものとミスリードするための創作であることを見てきました。

つまり、『日本書紀』の推古天皇の御代に遣隋使を送ったという話は、全くの作り話だったということになります。

この時に派遣されたとされているのが、あの男性なのに名前に子が付き、加えて字こそ違うが「イモ」の子という、子供が一度聞いたら忘れない小野妹子になります。(おそらく、卑弥呼、聖徳太子と共に、「三大日本古代史で名前の知られている人物」でないでしょか。)

もっとも『日本書紀』には、遣隋使すなわち「隋」に使者を送ったとは書いて無く、「大唐」に派遣したとなっています。

これは、『日本書紀』に一貫して見られる、中国の文献に現れる倭に関する記述そのままズバリではなく、あくまでもほのめかす内容でミスリードするという手法により、「大唐」とされているのだと思われます。

裴世清が来たので

 ところが、『隋書』に裴世清を勅使として派遣したとあるので、話は簡単に済まなくなったのでしょう。

勅使となれば、正式な返書があるはずです。

しかし、裴世清が実際にやって来たのは、九州だったわけで、大和政権に返書があるはずもないのです。

そこでひねり出されたのが、これまた有名な、返書を百済で奪われてしまいました、という話なのでしょう。

本当にこんなことがあれば国家間の大問題ですが、その後百済に対して何らかの対応が取られたということもなさそうです。

そもそも、『隋書』にはそのような話は全く出て来ません。

とにかく、正式な返書が大和政権側に無いことの言い訳としか考えられません。

小野妹子は

 さて、『日本書紀』における隋(大唐)への派遣に関する話全てが作り話とだとすると、その話の中で派遣されたことになっている小野妹子についてはどう考えたらいいでしょう。

私は、小野妹子もこのために作り出された人物ではないかと思っています。

そうではなく、当時実際に存在した人物だったとしたらどうでしょう。

小野妹子は後に「大徳」という冠位に就いたとされています。

あの「冠位十二階」の最高位です。

実在であるならば、子孫も含めた一族がいたはずです。

親書を奪われるという失態を犯すような作り話の当事者とすることは、いろいろと問題が生じたはずです。

わざわざ、作り話にそんな人物を持ってくる必然性は無いように思います。

やはり、小野妹子はいなかったのです。


 そもそも、冠位十二階はその実在が疑わしいわけですから、「大徳」になったという彼についても、そういう事なのではないでしょうか。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 88 -山背大兄王-

『日本書紀』創られた日本 88 山背大兄王についての話です

 

 

区分論

 前回は、区分論から聖徳太子について考えました。

『日本書紀』に対する、その使われている漢文の違いによる分類を基に考えると、巻21の途中から~巻23は天武天皇の681年の命により編纂されたものが、最終的な書記の完成までに書き換えられたと考えられるという話でした。

その巻21の途中から~巻23は、全て聖徳太子関連の話を含む部分であり、それをもって聖徳太子関連の話は創られた話という仮説の傍証ではないかと考えました。

巻24にも山背大兄王が

 確かに、巻21の途中からと巻22には聖徳太子の話がありますし、巻23にはその子山背大兄王の話がありますから、聖徳太子関連で間違いはないのですが、実は巻24にも関連の話が有ります。

それは、山背大兄王が蘇我入鹿により自殺に追い込まれるという話です。

前回の話で見たように、この巻24は書き換えはされていません。

つまり、超人聖徳太子の話を創り出す上では、山背大兄王の自殺という話は書き換える必要が無かったということになります。

逆に言うと、巻23の山背大兄王の話は、書き換える必要があったという事になります。

問題は皇位継承

 巻23の話は、推古天皇崩御後の皇位継承に関する話です。

具体的には、推古天皇が後継を指名しなかったために、敏達天皇の孫の田村皇子との間で後継問題が起きます。

蘇我蝦夷は、群臣に諮りますが意見が分かれます。

その上で、蝦夷が田村皇子を推し、舒明天皇として即位することになります。

母が蘇我氏出身で、蘇我の血を引くにも関わらず蘇我蝦夷に見捨てられる形となるのです。

そして、蘇我蝦夷の子蘇我入鹿によって自殺に追い込まれてしまいます。

何を書き換えたのか

 『日本書紀』での山背大兄王の描かれ方は、超人聖徳太子の子にも関わらず、蘇我一族により皇位を継げないだけでなく、自殺に追い込まれた悲劇の人物という感じでしょうか。

ただしここまで見てきたように、これは巻23で書き換えが行われた結果なのです。

何を書き換えたのでしょう。

本ブログとしては、山背大兄王が蘇我一族により悲劇の人とされたという点ではないかと考えます。

ひょっとしたら、推古天皇は正式に後継指名はしていないまでも、田村皇子を推していたのではないでしょうか。
そして群臣もそれに異論を唱える者は多くは無かったのではないか。

勿論、そうであるならば蘇我蝦夷も策を弄する必要は無かったでしょう。

書き換える前の話は、すんなり田村皇子が即位したというものだったのではないでしょうか。

そんなことになった理由は、山背大兄王が人望が無かったといったことではないでしょうか。
なので、山背大兄王が自殺に追い込まれても、さほどの混乱は記録されていないのではないでしょうか。

超人聖徳太子の息子が、人望が無くて皇位を継げなかったというのは困るわけです。
そのために書き換えが行われ、悲劇の人物が創り出されたのです。
そして悲劇の人という人物像には、自殺という結末は書き換える
必要が無かったのでしょう。


 推古天皇にも嫌われていたのかも。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 87 -区分論-

『日本書紀』創られた日本 87 区分論についての話です

 

 

区分論

 前回までで、中国の文献に出てくる遣隋使に対する、大和政権側のミスリード役としての聖徳太子が、『日本書紀』から始まってどう創られて来たのかを見て来ました。

今回は、その聖徳太子創作を、『日本書紀』区分論から考えます。

30巻から成る『日本書紀』に関しては、従来からその使用語句・仮名字種・音韻等から、各巻をいくつかのグループに分類する試みが行われてきました。

その中で、日本語学者の森 博達は、『日本書紀』を使用されている漢文から2つのグループに分けられるとしました。

すなわち、中国語ネイティブによる正格漢文により書かれたα群と、漢文を習った日本人による倭習漢文によるβ群です。

この漢文による区分が、聖徳太子の創作と関係がありそうなのです。

具体的な区分

 漢文による区分は、具体的には、
 持統天皇期に中国人の続守言と薩弘恪が記した、
  α群 巻14~巻21の途中まで、巻24~巻27
 文武天皇期に新羅に留学した山田史御方が記した、
  β群 巻 1~巻13、巻21の途中から~巻23、巻28~巻29
の2群に分けられるとしています(巻30は確証がなく未分類)。

持統天皇の前は天武天皇で、巻28は天武天皇です。
つまり、『日本書紀』にある、天武天皇が681年に「帝紀」と「上古の諸事」の編纂を命じた結果が、次代の持統天皇の時までかかって編纂されたα群で、当然その時点で纏めることの出来るのは、天武天皇の直前の巻27天智天皇までだったと考える事が出来そうです。

おかしな点

 という事だとすると、少しおかしな点があります。
なぜ巻21の途中から~巻23は、β群なのでしょう。

この事をそのままに考えると、天武天皇に「帝紀」と「上古の諸事」の編纂を命じられたにもかかわらず、途中の一部を飛ばして編纂したことになります。

それはいくらなんでもあり得ないと思われます。

従って、持統天皇期にα群が出来上がった時点では、『日本書紀』の巻14から巻27に相当する部分は、全てそろっていたと考えられるのです。

つまり、巻21の途中から~巻23は、文武天皇期にβ群が編纂される時に、α群の一部として存在していたものを書き直したと考えざるを得ないのです。

なぜβ群に

 ちなみに、巻22は推古天皇、巻23は舒明天皇です。

推古天皇の皇太子兼摂政が厩戸王(聖徳太子)ですし、舒明天皇の時には、厩戸王(聖徳太子)の子山背大兄王が後の舒明天皇と皇位を争っています。

さらに、巻21の途中からというのは、「丁未の乱」の部分になります。
この中に、あの有名な四天王の像をつくり、四天王寺の建立を発願する話が出て来ます。

という事で、書き直されたのは厩戸王(聖徳太子)に関する話が載っているパートという事になりそうです。

β群が編纂される際に、中国側の遣隋使の記録に対する大和政権側のミスリード役としての、超人厩戸王(聖徳太子)を創り出すことになり、その関係するパートが書き直されたのです。


 正格漢文と倭習漢文の違いが分かるって、ある意味天才ですよね。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 86 -聖徳太子13-

『日本書紀』創られた日本 86 聖徳太子についての話13です

 

 

法隆寺建立

 ここまでの記事で、法隆寺西院伽藍が和銅年間(708年 - 715年)に建立されたものであること。
さらにその建立は、既に他の寺院に建っていたものを移築したものと考えられることを見て来ました。

前回の記事で書き忘れましたが、この移築という手段を取った背景には、飛鳥様式の寺院を建てるという目的の他に、『日本書紀』の編纂の過程で建造の必要性が出て来たことによる、完成までの時間の無さという要因もあったと思われます。

そこまでして法隆寺を建てたのは、『日本書紀』で超人的な人物として描いた厩戸王すなわち聖徳太子所縁の寺としてミスリードするためと考えました。

それ以降の、聖徳太子に対する太子信仰の状況を見ると、この目論見は見事に功を奏したと言えるでしょう。

太子信仰

 完成した『日本書紀』の内容から、その超人的な能力、業績の、厩戸王という人物の存在を知り、その人が建立したという法隆寺も存在している。
そして、聖徳太子という名前が奉られると共に、その超人的な人物像が知られていき、その後の太子信仰となっていく。

しかし、改めて考えて見るとこれは、どちらかと言うとあり得ない話なのです。

現代のように、書籍や電子書籍などが手軽に入手出来る現代と違い、『日本書紀』を気軽に読むことは出来なかったはずです。

仮に入手できたとしても、漢文で書かれた『日本書紀』を読解出来る人は限られていたと思われます。

自然発生的に太子信仰が生まれてくるとは考え難いのです。

誰が命名を

 ではどのようにしてということになるのですが、先ず聖徳太子の命名について考えて見ます。

聖徳太子と呼んだ初出は『懐風藻』とされていますが、その『懐風藻』の編者として淡海三船とする説が有力のようです。

淡海三船といえば、あの神武から始まる歴代天皇の漢風諡号を撰進したとされる人物です。

こういったことを見ると、淡海三船が聖徳太子という諡号を付けたと考えてよさそうです。

ただし、天皇の漢風諡号と共に選進したわけではないでしょう。

なぜならば、『日本書紀』と共に公式に聖徳太子という名が使われてはいないようなので、もし選進したものならば政権側から採用されなかったという事になります。
そのような名を『懐風藻』に載せることは無いと考えられるからです。

ただし、政権側から内々に依頼されたということはありそうです。

誰が太子信仰を

 では、その聖徳太子の名前を利用したのは誰でしょう。

それは、法隆寺の僧達だったのではないでしょうか。

最初に書いたように、法隆寺は和銅年間に移築されたのでした。

そうなると、当然そこに僧侶も配する必要が有ります。
ひょっとしたら、位置された建物と共に、元建っていた寺院からついてきたのかもしれません。
いずれにしても、僧侶が任命されたはずです。

そして彼らは、法隆寺が作られた背景についても知っていたはずです。
むしろ、そのあたりを言い含められたうえで任命されたと考えるほうが自然でしょう。
法隆寺の存在意義が、奈辺にあるのか理解していたはずです。

さらに言えば、それを知らしめるのが、彼らの仕事だったのでしょう。

彼らこそが、淡海三船が作った聖徳太子という名を使って、彼と法隆寺の関係を広め、今日太子信仰と呼ばれるものの始まりとなったのです。


 「薬師如来像光背銘」辺りが、始まりではないかと思っているのですが。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 86 -聖徳太子13-

『日本書紀』創られた日本 86 聖徳太子についての話13です

 

 

法隆寺再建

  前回は、法隆寺の再建時期とその背景について考えました。

その建立時期は、『七大寺年表』などの記録から元明天皇の和銅年間(708年 - 715年)と考えられています。

これで、厩戸王による建立と考えられる若草伽藍址の斑鳩寺が670年に焼失した後、西院伽藍が708年 - 715年に再建されたという事になります。

加えて、聖徳太子所縁の寺としてミスリードするために、その建築様式は太子の時代の飛鳥様式で建てられのです。

新たな問題点が

 という事で、法隆寺の再建に関しては、一応の決着が付いたと言えるでしょう。

ところが、近年の研究で新たな問題点が浮上しました。

五重塔の心柱を調べたところ、その伐採されたのが594年だったということが判明したのです。

これが本当ならば(本当のようです)、708年 - 715年の建立時点で伐採から100年以上経っていたという事になります。

これに対して、その間貯木されていたとする説もあるようですが、さすがにそれはあり得無さそうです。

やはり、使うために伐採したのでしょうから、伐採後それほど置かずに使われたと考えるのが普通でしょう。

そうなると、670年の若草伽藍址の焼失以前から建っていたことになってしまいます。

ずっと建っていたとすると

 始めに書いたように、670年に焼失したのは若草伽藍址に建っていた斑鳩寺であり、その後708年 - 715年に西院伽藍が法隆寺として建てられたのは、ほぼ間違いがないでしょう。

しかしその西院伽藍に建つ五重塔の心柱は594年伐採のものであり、670年以前より建っていたと考えられるのです。

708年 - 715年に建立されたが、その建物はそれ以前から建っていたというのですから、それが示すのは法隆寺が新築では無く、移築だったという事なのではないでしょうか。

どこかに建っていた建物を、西院伽藍として移築して、法隆寺と名付けたのです。

そう考えると

 ここで前回の記事でも触れた、『七大寺年表』の法隆寺に関する記述をもう一度見てみましょう。

 和銅元年 (708年 )戊 申、依詔造太宰府観世音寺、又作法隆寺

という、708年に法隆寺が建立されたというものでした。

しかしよく見ると、大宰府観世音寺は「造」で、法隆寺は「作」となっています。

これは、新たに一から建てることに対して「造」を、移築で建てることを「作」と表現したという事ではないでしょうか。

どこから移築したのか

 そうなると気になるのは、どこから持ってきたのかということなのですが、これについては分からないというのが正直なところです。

ただ、斑鳩寺が可能性があるのではとも思っています。

斑鳩寺といっても、こちらは兵庫県太子町にある寺院です。

『日本書紀』推古天皇14年(606年)に、聖徳太子が推古天皇に法華経を講して、播磨国の水田を賜ったとあり、その後に建てられたと思われます。

その斑鳩寺に、飛鳥様式の五重塔、金堂などが建っていたのではないでしょうか。

それを移築したのです。

ひょっとしたら、斑鳩寺に建物があったことから移築を思いついたのかもしれません。


 兵庫の斑鳩寺から移築したのなら、聖徳太子(実際には厩戸王ですが)所縁と強弁出来ないことも無いですよね。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 85 -聖徳太子12-

『日本書紀』創られた日本 85 聖徳太子についての話12です

 

 

再建された法隆寺

 今回は、 670年の斑鳩寺の焼失を、『日本書紀』ではなぜ法隆寺と書き換えたのか考えます。

『日本書紀』によれば、法隆寺は670年に火災により、建物を残すことなく焼失したとなっています。

建物を残すことなくという事なので、現在われわれが見ている法隆寺は再建されたものという事になります。

法隆寺は、聖徳太子によって建てられた斑鳩寺を再建したものだとしたかったのです。

なぜそうしたかったのでしょう。

何時建てられたのか

 現在西院伽藍と呼ばれている部分が、670年以降に建てられた法隆寺という事になります。

引用元:https://articles.mapple.net/bk/10201/

その西院伽藍が建てられたのは、元明天皇の和銅年間(708年 - 715年)と考えられているようです。

『七大寺年表』という仏教関係の記事を纏めた資料に
 和銅元年 (708年 )戊 申、依詔造太宰府観世音寺、又作法隆寺
とあること。

『法隆寺資財帳』によれば、和銅4年(711年)には五重塔初層安置の塑像群や中門安置の金剛力士像が完成していること。

などから、和銅年間に建てられたと見られているという事のようです。

政権との関係

 ここで興味深いのは、『日本書紀』に続く正史である『続日本紀』の和銅年間の記事には、大宰府観世音寺に関するものは有りますが、法隆寺に関するものはないのです。

という事は、和銅年間の法隆寺の建立には政権側は関係していないように見えます。

しかし、政権以外の有力者や、僧による勧進などによる建立だとするならば、そのあたりのことが寺伝などで残っていてもおかしくはないはずです。

例えば、東伽藍にある有名な「夢殿」に関しては、僧行信が聖徳太子を供養するために739年に造立した記録が残っています。

しかし、西院伽藍ほどのものの建立に関する記録が無いのはおかしく、故意に隠されたとしか思えません。

そして、ここまで正式な記録から消せるのは、やはり政権側によるものと考えざるを得ません。

『七大寺年表』のような記録にまで、政権側による改ざんの手は伸びなかったということなのでしょう。

なぜ建てたのか

 そこまでして政権側が法隆寺西院伽藍を建てたのは、やはり聖徳太子所縁のものを必要としたからではないでしょうか。

『日本書紀』の中で、遣隋使を派遣した超人的な人物として厩戸王を創り上げることにしたのですが、その厩戸王が宮と寺を造営し住んだ斑鳩の地には、編纂時には宮も寺もいずれもない状態でした。

超人的な人物の所縁の地に何もないというのは、さすがにまずいと考えたのでしょう。

そこで考え出されたのが、所縁の寺としての法隆寺の建立だったのではないでしょうか。

『日本書紀』の編纂完成(720年)より前でなければならなかったために、和銅年間(708年 - 715年)だったのです。

再建非再建論争の論点の一つである、後の時代の再建にも関わらず、その建築様式が古い飛鳥時代の様式であるのはおかしいという点も、これで説明がつきます。

聖徳太子所縁の寺の再建なのですから、その時代である飛鳥様式である必要があったのです。

ミスリードのテクニック

 ここでも『日本書紀』を通じて見られる、ミスリードする際には決して断定せず、それらしいことをほのめかす、というテクニックが使われています。

聖徳太子と法隆寺の関係はもとより、法隆寺の建立についても、正史などでも極力触れないようにされます。

それでも、法隆寺の存在については、どこかでほのめかす必要がありました。

そのため670年に焼失したのは、「斑鳩寺」ではなく、「法隆寺」でなければならなかったのです。

そして、『日本書紀』が完成した時には、超人的な厩戸王の所縁の地に飛鳥様式の法隆寺が建っていたのです。


 あくまでも聖徳太子が法隆寺を建てたとは、断定しないのです。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 84 -聖徳太子11-

『日本書紀』創られた日本 84 聖徳太子についての話11です

焼失した寺

 先回も触れましたが、『日本書紀』天智天皇9年(670年)に法隆寺が、火災により建物を残すことなく焼失した旨が記述されています。

ところが、焼失したと書かれている法隆寺ですが、『日本書紀』のそれより前の部分には、どこにも法隆寺が建てられたという記述は有りません。

建物を残すことなくという事なので、現在西院伽藍と呼ばれている我々が良く知る法隆寺は、それ以降に再建されたことになります。

 

引用元:現在の法隆寺は2代目だった!?~現存する最古の木造建築~ - まっぷるウェブ

 

現在ある法隆寺は再建されたものとして、燃えた法隆寺は何なのでしょうか。

若草伽藍

 西院伽藍の南東部分の若草伽藍址と呼ばれている場所の発掘調査が行われ、
 ・寺院跡を確認。
 ・焼けた痕跡の確認。
 ・伽藍形式 は四天王寺式であった。
 ・その寺地が現法隆寺と重なることか ら、併存は考えられない
などが判明しました。

つまり、670年に焼失したのは、この若草伽藍址に在った寺という事だと思われるのです。

現在では、西院伽藍の法隆寺はその後に再建されたという事で、一応の決着がついていると言っていいでしょう。

670年の法隆寺

 現在の法隆寺西院伽藍が、若草伽藍の焼失後に建てられたというのは確からしいとしても、670年の法隆寺焼失という記述には疑問が残ります。

前回の記事で考えたように、聖徳太子によって斑鳩宮に併設する形で建てられた寺は、643年に太子一族が滅亡した時点まで斑鳩寺と呼ばれていたと考えられます。

その27年後の670年に法隆寺として焼失したことになります。

普通に考えれば、この27年の間に斑鳩寺から法隆寺に呼び名が変わったという事になります。

しかし、この時点で法隆寺となるようなことは、あり得ないと思うのです。

再び法隆寺という名前について

 ここで、改めて法隆寺という名前について考えてみます。

前回の記事で時の権力者蘇我氏との関係で、聖徳太子が法隆寺と名付けるのは難しいと考えました。

具体的には、権力者蘇我馬子が、これから仏法=仏教を興していくという意味の法興寺を建立したのに、かぶせるようにして仏教を栄えさせていくという意味の法隆寺を造るというのはどうなんだろうか、という話でした。

「法隆」を「仏教を栄えさせていく」という意味だと解釈したわけですが、そもそも漢字に、過去、未来といった時制は有りませんので、「仏教を栄えさせた」という意味だとも取れます。

そういった意味の「法隆寺」という名称をこの時点でつけるはずがないのです。

なぜならば、ここまでの記事で見てきたように、聖徳太子が様々なことを行った超人的な人物だというのは、『日本書紀』で創られた話であり、643年から670年の時点では、後に聖徳太子と呼ばれる厩戸王にはそのようなイメージは無かったはずだからです。

精々、蘇我氏と対立してその血統が途絶えてしまった悲劇の皇族という感じでしょうか。

その人が建て、子が自害して果てた寺に、「仏教を栄えさせた」という意味の名前で呼ぶはずがないのです。

『日本書紀』の記述の基となった記録は、「斑鳩寺が、火災により建物を残すことなく焼失した」という内容のものだったと考えられまます。

それを『日本書紀』を編纂する時に、「法隆寺」と書き換えたのだと思います。

つまり、670年に焼失したのは「斑鳩寺」であり、その後に建てられたのが「法隆寺」なのです。


 では、なぜ670年に焼失した「斑鳩寺」を「法隆寺」と書き換えたのでしょう。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 83 -聖徳太子10-

『日本書紀』創られた日本 83 聖徳太子についての話10です

 

 

四天王寺と法隆寺

 聖徳太子に関係する寺として双璧ともいえる、四天王寺と法隆寺ですが、『日本書紀』における扱いは対照的ともいえるものになっています。

四天王寺に関しては、聖徳太子の発願によって建てられたと読める記述がされています。

もっともこれに関しては、『日本書紀』編纂時に四天王寺が推古天皇が建立した宮寺として存在しており、読み方によっては太子が建立したともとれる表現であることを、前回の記事で見ました。

それに対してこれまで何回か触れて来たように、『日本書紀』には聖徳太子が法隆寺を建立したという話はありません。

それ以前に、法隆寺が建てられたという記述すら、どこにも出て来ません

ただ、建てられたという話はありませんが、天智天皇9年(670年)に法隆寺が、火災により建物を残すことなく焼失したという旨が記述されています。

焼失したのですから、確かに建っていたという事なのでしょうか。

聖徳太子の建てたもの

聖徳太子が建てたものとしては、推古天皇9年に寺ではなく宮を斑鳩の地に建てたと『日本書紀』にはあります。

ところで、現在の法隆寺の東院伽藍は、この斑鳩宮の故地に建てられていると考えられています。

 
引用元:現在の法隆寺は2代目だった!?~現存する最古の木造建築~ - まっぷるウェブ

西院伽藍との位置関係から見て、斑鳩宮の一部として西の部分に寺を併設したのだと思われます。

一族の為の私的なものだったのでしょうか。

そのため『日本書紀』には、寺も含めて斑鳩宮の建設として書かれたとも考えられそうです。

法隆寺ではなかった

 ここで、「法隆寺」という名称について考えてみます。

「隆」という字には、 「隆起」のように中央が高い、高くする、といった意味と共に、「隆盛」といった、栄える、さかんになるという意味もあります。

「法隆寺」は、「法」すなわち仏法=仏教が「隆」すなわち栄えるといった意味があると考えられます。

聖徳太子が建立したという事であれば、仏教を栄えさせていくという太子の決意を示した命名と言えるかもしれません。

しかし『日本書紀』によれば、同時期に蘇我馬子が「法興寺」を建立したとあります。

蘇我馬子といえば当時の権力のトップといって差支えがないでしょう。

その人物が、これから仏法=仏教を興していくという意味の寺を建立したのに、かぶせるようにして仏教を栄えさせていくという意味の寺を造るというのはどうなんでしょう。

つまり、聖徳太子が斑鳩宮の一部として建立した寺は、法隆寺という名前ではなかったのではないかと考えられるのです。

どんな名だったのか

 皇極天皇2年(643年)蘇我入鹿が、斑鳩宮にあった聖徳太子の子山背大兄王を襲撃します。

山背大兄王と一族の者は、一旦胆駒(生駒)山に逃れますが、最終的には山を下り、斑鳩寺で一族そろって自害してしまいます。

これで、聖徳太子の血は途絶えてしまいます。

生駒山地の南の端には斑鳩の地が有ります。

山背大兄王と一族が自害した斑鳩寺は、上で出て来た斑鳩宮に創られた寺だったと考えてよさそうです。

聖徳太子が名付けたかどうかは分かりませんが、斑鳩宮に併設された寺は斑鳩寺と呼ばれていたのです。


 とすると、天智天皇9年(670年)に焼失した法隆寺はなんなのでしょうか。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 82 -聖徳太子9-

『日本書紀』創られた日本 82 聖徳太子についての話9です

 

 

聖徳太子と仏教

 前回は、『日本書紀』における聖徳太子と仏教について考えました。

『隋書俀国伝』に書かれた、遣隋使の使者による、有名な「日出ずる所の天子云々」の後に続く遣隋使の目的は仏法を学ぶためだという話に対応すために、聖徳太子の仏教関連の記述が作られた
と考えました。

そのため、仏教に関しては超人的な人物ではなく、仏法を学ぶために遣隋使を送った、仏教に関して関心を持って学んでいた人物として描かれたという話でした。

今回は、残る仏教関係の話として、聖徳太子が創建したと考えられている四天王寺について考えます。

『日本書紀』には

 四天王寺については、『日本書紀』用明天皇2年に、戦いの中で聖徳太子が、白膠木(ぬるで)という木を伐って、四天王の像を作り、「もしこの戦に勝利したなら、必ずや四天王を安置する寺塔(てら)を建てる」という誓願をし、勝利の後四天王寺を造った、という有名な話が載っています。

しかし、『日本書紀』の推古1年にも、四天王寺を造り始めたという記事が有るのです。

秋九月、改葬橘豊日天皇於河內磯長陵。是歲、始造四天王寺於難波荒陵。是年也、太歲癸丑。 

(即位1年)秋9月。橘豊日天皇(タチバナトヨヒノスメラミコト=用明天皇)を河内磯長陵(カフチノシナガノミサザキ=現在の大阪府南河内郡太子町春?)に改めて葬りました。この年、四天王寺(シテンノウジ=荒陵寺)を難波の荒陵(アラハカ=地名)に作り始めました。この年、太歲癸丑です。 
引用元:四天王寺の建立と氏族の寺

これらは一見矛盾するのですが、用明天皇2年の話は、四天王寺が建てられた由来を書いたものであり、実際に建て始めたのが推古天皇1年だったということでしょうか。

四天王寺を建てたのは

 ここでポイントとなるのは、推古天皇1年の文章には誰が建て始めたのかが無いという点です。

推古天皇1年の話なのですから、素直に考えれば建てたのは推古天皇という事になります。

厩戸王(聖徳太子)は皇太子兼摂政なのだから厩戸王(聖徳太子)が建てたのだ、というのはいささか無理があるように思います。

加えて、先の引用部分の次に以下のような記述が有ります。

二年春二月丙寅朔、詔皇太子及大臣令興隆三寶。是時、諸臣連等各爲君親之恩競造佛舍、卽是謂寺焉。

即位2年春2月1日。皇太子と大臣に詔(ミコトノリ)して、三宝(サンポウ=仏・法・僧)を興して栄えさせようとしました。この時、諸々の臣連はそれぞれの親の恩のために競って仏舎(ホトケノオオトノ)を作りました。これを寺(テラ)と言いました。
引用元:同上

 

聖徳太子が四天王寺を建てたのならば、ここで皇太子(聖徳太子)も含めて詔しなくてもいいわけで、やはり四天王寺を建てたのは推古天皇なのでしょう。

用明天皇2年の記述は

 という事は、用明天皇2年の記述も聖徳太子を生み出すために創り出された話という可能性が高い、という事になりそうです。

建てたのは推古天皇だが、聖徳太子の発願が背景に有るんだというわけです。

これは、『日本書紀』編纂時に四天王寺が推古天皇が建立した宮寺として存在しており、聖徳太子の建立と断言出来なかったからではないでしょうか。

そのために、読み方によっては太子が建立したともとれる表現に留めざるを得なかったのでしょう。

そして、『日本書紀』以降から始まった太子信仰の中で、聖徳太子との関係が作られていったのだと思います。


 これも、『日本書紀』編纂者の思う壺かもしれません。


ではでは 

『日本書紀』創られた日本 81 -聖徳太子8-

『日本書紀』創られた日本 81 聖徳太子についての話8です

 

 

『隋書俀国伝』では

 前回までの聖徳太子に関する事績の話で見てきたように、『日本書紀』の記述は、『隋書俀国伝』に書かれた遣隋使の話を想起させるような内容を狙ったものだと考えてきました。

今回は、仏教関係の話について考えます。

『隋書俀国伝』では、遣隋使の使者が、有名な「日出ずる所の天子云々」の国書を渡すと共に「海の西の菩薩のような天子が手厚く仏法を興隆させていると聞きましたので、朝拝に(私を)派遣するとともに、出家者数十人が仏法を学ぶために来ました。」という趣旨のことを言っています。

つまり、遣隋使の目的は仏法を学ぶためだと言っているわけです。

勿論そう言ったのは、九州王朝から来た使者です。

『日本書紀』では、聖徳太子をその使者を送った男王に相当する人物だとミスリードしたいわけですから、仏教に理解のある人物でなければならなかったのです。

仏教との関係

 ただし、聖徳太子と仏教に関しては、現代まで続く太子信仰の影響が大きく、後に太子の業績とされたものがあることを考慮する必要があると思います。

『日本書紀』に記述がある聖徳太子の仏教関係の記述は次のようになります。

・高麗の僧の慧慈に仏教を習う
・四天王寺を建立
・十七条憲法第2条の「篤く三宝を敬え」
・勝鬘経、法華経を講ずる

意外と少ないなというところではないでしょうか。

例えば、聖徳太子といえば外すことが出来ないと考えられる、法隆寺が有りません。

法隆寺は聖徳太子が創健したと言われていますが、これは金堂に安置されている薬師如来坐像の光背銘に、「推古天皇と聖徳太子が推古天皇15年(607年)、像と寺を完成した」とあるのが基になっています。

しかし、これについては、薬師像の鋳造技術、銘文の用語などから後の創作だと考えられています。

そもそも、法隆寺のある斑鳩の地には、聖徳太子が宮と造ったという記述が『日本書紀』にありますが、その時に寺を造ったといった話は全くないのです。

超人的ではない

 四天王寺については、蘇我氏と物部氏の戦いに際して、聖徳太子が四天王の像を彫り、戦勝を祈願し、勝利の後にその誓いを果たすために四天王寺を建立したと書かれています。

その時に、蘇我馬子も「寺塔を建てて、三宝を流通する」との祈願をし、勝利後に飛鳥に法興寺を建立したとの記事があるのです。

聖徳太子だけがすごい事をしたわけではないのです。

十七条憲法に関しては、聖徳太子によるものでは無いと考えています。

残るは、僧から学んだことと経を講じたという話です。

つまり、『日本書紀』の仏教に関しする記述を見る限り、聖徳太子はよく学んでいたかもしれないが、それ以上に超人的な人物だったという事ではないのです。

仏法を学ぶために遣隋使を送った、仏教に関して関心を持って学んでいた人物がいました、とミスリードしているわけです。


『日本書紀』の聖徳太子と太子信仰における聖徳太子は違うのです。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 80 -聖徳太子7-

『日本書紀』創られた日本 80 聖徳太子についての話7今回は十七条憲法

 

 

今回は十七条憲法

 今回は、前回の冠位十二階に続いて、聖徳太子の業績の双璧ともいえる十七条憲法について考えます。

前回の冠位十二階については、『隋書俀国伝』に記述のある十二等の官位(本ブログの仮説では、九州王朝の官位という事になります)と同じようなものがあると思わせるために、名称の順番を変えることで創り出されたものだという話でした。

 

yokositu.hatenablog.com

その流れで行けば、十七条憲法もとなりそうですが、『隋書俀国伝』にはそれらしい記述は有りません。

では何を目的としたものななのかというのが、今回の話になります。

『隋書俀国伝』の記述

 『隋書俀国伝』の前回引用した十二等の官位の下りの次に、以下のような記述が有ります。

有軍尼一百二十人猶中国牧宰 八十戸置一伊尼翼如今里長也 十伊尼翼屬一軍尼
「軍尼一百二十人有り。なお中国の牧宰のごとし。八十戸に一伊尼翼を置く。今の里長の如くなり。十伊尼翼は一軍尼に属す。」
引用元:隋書倭国(俀国)伝(原文、和訳と解説)

 

 

「軍尼」-「伊尼翼」という行政組織と思われるものがあったと書かれています。
勿論、この行政組織が在ったのは九州王朝です。

「軍尼」は「クニ」と読むとされています。

この「軍尼」-「伊尼翼」の行政組織を想起させるためのものが、十七条憲法ではないでしょうか。

十七条憲法への疑問

 その十七条憲法ですが、疑問が有ります。

それは、その全文が載せられていることです。

国の根幹の施策として推古天皇により取り入れられたのだとしたら、『日本書紀』編纂当時でもその名を聞けば、あああれかというぐらいには流布しているはずです。

十七条憲法を制定、施行したというだけで、分かるはずではないでしょうか。

さらにこの十七条憲法は、『日本書紀』が初出であり、その原本はおろか、写本も見当たらないようです。

以上のようなことを考慮すると、どうやら十七条憲法は『日本書紀』編纂時に創られたのではないかと思われるのです。

誰も知らないから、全文を載せたのです。

そこまでして全文を載せたという事は、その中身に必要性が有ったのではないかと考えられそうです。

気になる中身

 その中身ですが、各条の内容を守るべき主体となっているものを纏めると次のようになります。

1.なし
2.なし
3.臣
4.群臣・百寮
5.なし
6.なし
7.人
8.群卿百僚
9.群臣
10.なし
11.群卿
12.国司・国造
13.諸々の官職に任じられた者たち
14.群臣百僚
15.臣下
16.なし
17.なし

なしというのは、全ての人またはすべての臣下を対象としていると考えられますので、概ね役人、貴族、官吏などの統治する側の人々が規範とすべき内容ということが出来そうです。

この中で12条の国司・国造だけが、妙に対象が個別且つ具体的で、その他の条項から浮いているように思えるのですが。

しかも、その12条の内容は、勝手に税を取り立ててはいけないというものであり、ことさら国司・国造に限定する必要も無いと言えます。

この国司・国造の存在を示すことが目的だったのではないでしょうか。

巧妙なのは、行政組織そのものに言及するのではなく、十七条憲法のなかで言及することで、存在するものとして言及しているところでしょうか。

国司・国造

 ただし、国司・国造については、推古天皇の時代にはまだ存在していなかったのではないか、という指摘が有ります。

仁徳天皇の竈のエピソードも、その時代に竈がまだ普及していなかったりとか、どうも『日本書紀』の編集は、書かれた内容に関する考証が不十分なところがあるようです。

今回の、国司・国造についても、アイデアに酔って確認を怠ってしまったのでしょうか。


 ところで、改めて読むと皇太子(聖徳太子)が作ったとは書いてありますが、施行したとは書いてないんですよね。
このあたりも巧妙です。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 79 -聖徳太子6-

『日本書紀』創られた日本 79 聖徳太子についての話6です。

 

 

聖徳太子の業績

 前回までで、なぜ用明天皇の皇子が聖徳太子とされたのか考えてきました。

遣隋使を送ったのは大和政権ではなく九州王朝であり、その時に大和政権では女帝推古天皇であったために、中国の使者が報告した男王へのミスリード役として、用明天皇の皇子を超人的な聖徳太子として創り上げたのではないかという話でした。

今回から、どのようにして聖徳太子の超人的な業績が創られたのか考えて見ます。

ミスリード役としての聖徳太子像を創り出すにあたって、『日本書紀』の編者は、『隋書俀国伝』の記述に合わせるように業績を創り上げたのだと考えます。

ただし、そのものズバリではなく、あくまでもそう思わせるような内容で。

今回は、そのはじめとして、冠位十二階について考えます。

冠位十二階

 『隋書俀国伝』の記述に次のような部分が有る。

内官有十二等 一曰大德 次小德 次大仁 次小仁 次大義 次小義 次大禮 次小禮 次大智 次小智 次大信 次小信 員無定數
「内官は十二等あり。一は大徳と曰ふ。次は小徳、次は大仁、次は小仁、次は大義、次は小義、次は大礼、次は小礼、次は大智、次は小智、次は大信、次は小信。員は定数無し。」
引用元:隋書倭国(俀国)伝(原文、和訳と解説)

 

 

官位は、「徳・仁・義・礼・智・信」のそれぞれに「大小」があり、都合十二段階から成っている、と言っています。

これは、一見冠位十二階の事を言っているように見えます。

しかし、『日本書紀』の記述を見ると、微妙に異なります。

十二月戊辰朔壬申、始行冠位。大德・小德・大仁・小仁・大禮・小禮・大信・小信・大義・小義・大智・小智、幷十二階。
「12月5日。初めて冠位を行いました。
大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智。併せて12階。」
引用元:冠位十二階の実施

 

十二階であることは同じですが、少し異なったものになっています。

「徳・仁・礼・信・義・智」の大小と、同じ名称のものから成っていますが、その並び順が異なるのです。

道教の五常

 これらの名称は、道教の説かれるところの5つの徳目である五常「仁・義・礼・智・信」を基に、「徳」を加えて作られたのではないかと考えられているようです。

『隋書俀国伝』に書かれている十二階は、この五常の順に一致しています。

つまり、本ブログの仮説では、遣隋使を派遣したのは九州王朝ですから、九州王朝においては道教の説くところに従った名称順を用いていたということになります。

それに対して『日本書紀』では、そのまま認めることはしないという編集方針からそのままの形で持ってくることをせず、その順序を入れ替えた形で話を創り上げたのではないでしょうか。

大和政権でも十二階から成る制度は有りましたよ、というわけです。

結果、編者が道教を知っていたかどうかは分かりませんが、少々奇妙な名称順となってしまったのです。

また、それを改訂したとされる冠位十三階で、全ての冠位で異なる名称が用いられているという事実が有ります。

一部変更するとかならまだしも、全て異なるというのは、基になる名称が実際には無かったと考えると、腑に落ちます。

冠位十二階は、実際には大和政権では用いられていなかったのではないかと考えられるのです。

当然、聖徳太子が作ったものでもないという事になります。


 最も、上の引用を見ても分かるように、『日本書紀』には聖徳太子が作ったとは一言も書いてないんですけどね。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 78 -聖徳太子5-

『日本書紀』創られた日本 78 聖徳太子についての話5です。

 

 

遣隋使の派遣は九州王朝が

 前回の話では、遣隋使の派遣元について考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 隋の正史『隋書』の「俀國傳」にある、遣隋使に対して隋から送られた使者裴世清の報告に基づく旅程に関する記述から、裴世清らが九州から出ていないと考えました。

その中で裴世清らは王の居る都に入っていることから、遣隋使を派遣したのは、九州王朝(「倭の五王」も含めて王が治めているので)だと結論付けました。

『日本書紀』の記述は真っ赤な嘘だという事になります。

ただし、『日本書紀』には隋に使節を送ったとは書かれておらず、一貫して「大唐」との間で使者の遣り取りが有ったことになっています。
ここでも、あくまでもそれらしい内容を提示してミスリードを図る、という方針が貫かれていることが伺われます。

九州王朝が遣隋使を送ったのだと考えると、これまで違和感のあった「俀國傳」のいくつかの内容が、納得出来るものになるのです。

今回は、そのあたりを見ていきたいと思います。

王は男性

 先ず、というかこれが最も物議を醸すものなのですが、遣隋使を派遣した人物についてです。

「俀國傳」に遣隋使から聞き取ったと思しき内容が書かれているのですが、それによると遣隋使を送ってきた俀王は男性で妻もあるということになっているのです。

その当時の大和政権は、女性の推古天皇の時代であり、聖徳太子が摂政ということになっています。

昔学校の授業では、その聖徳太子が中国と対等な関係を結ぶべく、例の「日出ずる所の云々」の国書を持たせたといった感じで、習ったような気がします。

その後隋からの使者裴世清からも帰国してから推古天皇の話は無かったのか、女性がトップに立っているという話は最後まで出て来ません。

聖徳太子が王なのか

 俀王は男だということなので、遣隋使の使者は、王としての聖徳太子と話をしたということになります。

このため、過去から色々と説が考えられることになります。

例えば、女性がトップだということを隠すためだったとか。

天皇は祭祀のトップであり、政のトップは王と呼ばれ別にいて、聖徳太子が王だったのだとか。

何とか俀王=聖徳太子にしようということなのですが、遣隋使を派遣した俀王が九州の勢力の王であるならば、何も考える必要はないではないですか。

その時の九州王朝の王は男性で、当然妻もいたのです。

遣隋使は、ありのままを伝えただけということになります。

阿蘇山も

 これは、私的に非常に気になっていた内容なのですが、使者からの「俀國」の人や自然の情景の話の中に、阿蘇山の話が出てくるのです。

大和政権から派遣されたのであれば、なぜことさら阿蘇山の話をしなければならないのか分かりません。

このころに大噴火をして大陸にまで影響があったということも無さそうですし。

普通に考えて、富士山とかでないでしょうか。

これも、九州を中心とする九州王朝からの使者であるなら、九州における阿蘇山の存在を考えれば納得がいきます。


やはり遣隋使は九州からやってきたと言わざるを得ないような気がします。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 77 -聖徳太子4-

『日本書紀』創られた日本 77 聖徳太子についての話4です。

 

 

大和政権は送っていない

 

 前回の話で、中国の隋王朝の記録として残る倭国からの使者、いわゆる「遣隋使」の話に対するミスリード役として創り出されたのが、超人的な聖徳太子ではないかと考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

隋の記録に対して、大和政権にはこんなスーパーマン聖徳太子がいましたよ、というのです。

ただし、決して聖徳太子が隋に使者を送ったという、直接的な記述はされません。
あくまでも、ほのめかすだけです。

つまり、実際に遣隋使を送ったのは、大和政権ではないという事になります。

今回は、遣隋使がどこから来たのかについて、隋側の記録から考えて見ます。

『隋書』の記述

 遣隋使に関係する記述は、「隋」の正史『隋書』にあるのですが、それによると遣隋使が、一回目の600年に続いて、607年にやって来たとあります。

この二回目の時の国書が、有名な「日出ずる所の云々」のものです。

これに対して、翌年に裴世清とい人物が使者として派遣されます。

その報告に、旅程が含まれているのですが。

明年 上遣文林郎裴淸使於俀国 度百濟行至竹島 南望聃羅國經都斯麻國逈在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏 以為夷洲疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀

「明年、上は文林郎の裴清を使して俀国へ遣はす。百済へ度り、行きて竹島に至る。南に耽羅国を望み、逈(はる)かな大海中に在る都斯麻国を経る。また東し、一支国に至る。また竹斯国に至る。また東し、秦王国に至る。その人は華夏に同じ。思へらくは夷洲。疑いは明らかにすること能はず。また十余国を経て海岸に達する。竹斯国より以東はみな俀に附庸す。」


引用元:隋書倭国(俀国)伝(原文、和訳と解説)

 

 

細かいことは置いておいて、百済から色々経た後に、都斯麻国(対馬)、一支国(壱岐)を経て竹斯国に着いたとなっています。

竹斯国は、筑紫、今の福岡市付近と考えられています。

その東にある秦王国は中国人の国だと書いてありますが、亡命して来た人や商人などによって中華街のようなものが出来ていたのでしょうか。

畿内というには無理が

 その次の、「十余国を経て海岸に達する」が問題です。

『日本書紀』にあるように畿内の大和政権まで行ったとすると、瀬戸内海沿いの十か国を経て畿内の海岸に着いたと考えざるを得ないのですが、いかにも苦しいです。

それまで国名を書いてきたのに、十余国とひと纏めにするのはいかにも不自然です。

九州での旅程より、この十余国の旅程の方がはるかに長いにも関わらずです。

それでは、使者の報告としては問題ありと言わざるを得ません。

九州から出ていない

 ここは素直に、秦王国から東の海岸までの間に十余国あると解釈すべきではないでしょうか。

そして竹斯国から東の海岸までの秦王国と十余国はすべて倭国に属しているといっている訳です。

使者は、秦王国でその東に位置する十余国について聞いたのでしょう。
その十余国については、実際に行っていないので国名を記さなかったと考えれば、報告として一貫性が有ると言えそうです。

その後の記述で、倭王からの迎えの者が来て、都に着いたとあります。

つまり、使者の裴世清一行は、竹斯国と秦王国しか行っておらず、九州から出ていないのです。

都は九州にあったと考えざるを得ません。

つまり遣隋使を送ったのも大和政権ではなく、九州王朝だったということになります。


 『日本書紀』の記述はでっち上げということになります。


ではでは

『日本書紀』創られた日本 76 -聖徳太子3-

『日本書紀』創られた日本 76 聖徳太子についての話3です。

 

 

聖徳太子の実存性

 前回は、聖徳太子の実存性についての話でした。

 

yokositu.hatenablog.com

神功皇后の実績とエピソードの在り方との類似性から、実存の用明天皇の皇子「厩戸豊聡耳皇子命」を基に、超人的な実績とエピソードを加えて創り出されたと考えました。

もしそうであるならば、次なる問題は、なぜ用明天皇の皇子が聖徳太子とされたかという事になります。

疑問は前々回の記事でも書きましたが、天皇家の系図を見ると、聖徳太子の血統は絶え、『日本書紀』を編纂したのは父用明天皇の兄弟の敏達天皇の血統なのです。

  

引用元:舒明天皇 - Wikipedia

 

この流れで、用明天皇の皇子をを超人的な人物だと祭り上げる必要は無いように思えます。

むしろ、敏達天皇の皇子の誰かかそうだったとした方が、いいように思えます。

今回は、そのあたりを考えて見ます。

『日本書紀』編集方針

 『日本書紀』の編集方針とも言えるものに、中国を始めとする大陸に残る倭に関する情報に対する対応が有ると考えています。

その方針は、決して認めることはせず、かといって完全に否定することもせず、想起させる事績を記述することで大和政権が行ったようにミスリードするというものです。

その代表ともいえる神功皇后は、邪馬台国の卑弥呼を想起させると共に、三韓征伐により好太王碑文に記録された倭の侵攻までも行ったスーパーウーマンとして書かれています。

しかしその内容は、決して『魏志倭人伝』や広開土王碑文の内容と一致することは無く、勿論、魏に朝貢することもありません。

広開土王碑文に続いて中国の記録に出てくる「倭の五王」に対しては、応神天皇から武烈天皇までの事績の中に「呉国」との交流を記述することで想起させる形になっています。

勿論、「呉国」に朝貢することは有りません。

ちなみに本ブログでは、こういった方針を取るのは、ここまで出て来た倭に関する情報が全て邪馬台国及びその九州に残った勢力(九州王朝)の活動に対するもので、神武以来の一貫した統治を標榜する大和政権としては認めるわけにいかなかったからだと考えています。

遣隋使

 「倭の五王」の次に中国の記録に現れる倭の情報は、隋の時代のものになります。

いわゆる、「遣隋使」です。

中国を、五胡十六時代以降約300年ぶりに統一した隋に、倭国から使者が送られます。

そして、それに対して送られた隋からの使者は、帰国してから倭王は男王だったと報告しています。

しかし、記録された年代から見て、その時の大和政権のトップは推古女帝の時です。

そのために創り出されたが聖徳太子なのです。

これも、想起させる事績を記述することで大和政権が行ったようにミスリードするという方針に沿ったものという事になります。

中国側の記録では男王となっているようですが、我が国にはこんな超人的な皇太子兼摂政が居ましたよ、というわけです。

しかも、使者裴世清と聖徳太子が会ったとは、決して出て来ません。

想起はさせるけども、あくまでも断定はしない絶妙の創りこみではないでしょうか。

大和政権は、遣隋使を送っていないのです。

 
 現在でも、男王と聖徳太子の関係をめぐって様々な説がありますが、『日本書紀』の編者の思う壺にはまっていると言えるのかものしれません。


ではでは