『日本書紀』創られた日本 36 神武天皇についての話 3です。
『古事記』との関係
前回までで、神武天皇の年代について考えて来ました。
紀元前660年とされる即位は、中国の周と同年代で昔より日本を統治してきたと主張するために創られた話だというものでした。
そこに関しては問題は無いと思っているのですが、『古事記』との関係で少し整理しておいた方がいい部分が出てきたように思うのです。
『古事記』に関しては、推古天皇までの記述しか無い事などを手掛かりとして、推古天皇の次代舒明天皇の時期に、物部氏によって書かれたのではないかと考えいます。
舒明天皇の在位は、539年~641年と考えられていますので、720年の『日本書紀』より100年程前に『古事記』は書かれたことになります。
その100年前の『古事記』には、既に神武天皇から始まる皇統が『日本書紀』とほぼ同じ流れで記述されています。
つまり、100年前にはすでに出来上がって、一般に流布していたという事になります。
ということで今回は、『日本書紀』と『古事記』それぞれに書かれたものの関係を、考えて見ます。
『古事記』では年代が不明
『古事記』に書かれた話の特長として、神話の時代の話は勿論として、神武天皇以下の話に年代を特定できる内容が無いことが挙げられます。
「天孫降臨」で地上に降り立った神の子孫であるとされてはいますが、何時の頃の話かは曖昧にされているわけです。
それが『日本書紀』に取り込まれるにあたって、年代を創り込まれたという事になります。
『日本書紀』が編纂される頃には、より中国との関係を意識するようになっていたという事なのでしょうか。
欠史八代
というように考えると、欠史八代についても考え直す必要が有りそうです。
これまでは、紀元前660年から実際の年代までのギャップを埋めるために創り出されたと考えて来ました。
しかし上でも書いたように、欠史八代は既に『古事記』の時点で存在しているのです。
ギャップを埋めるという意味では同じでも、具体的な年数をイメージはしていなかったことになります。
ではなぜ八代なのでしょう。
八の意味
八というと、「末広がり」で縁起がいいというのが思い浮かびますが、これはどうやら江戸時代に始まった考え方のようです。
八には、「八百万」、「八百八町」などのように「非常に多い」ことを象徴する文字として使われることが有ります。
欠史八代の八もこういった意味もあるのかもしれません。
具体的な名前も有るのですが、この話を聞いた当時の人々は、漠然と非常に古い時代の事なのだと想起したのではないでしょうか。
さらに、『古事記』の時点で八代と固定されてしまったために、『日本書紀』で紀元前660年を持ち込んだ時に、そのギャップを埋めるために多くの天皇の没年齢を大きくしなければならなくなったのかもしれません。
神武天皇といいながら、欠史八代の話になってしまいました。
ではでは