九州王朝について考えた話です。
前回までの話
前回までの二回の記事で、邪馬台国から始まり、広開土王碑、倭の五王、遣隋使、遣唐使を経て、白村江の戦いまでの歴史について纏めて見ました。
その中心ともいえる仮説は、その間の日本には、畿内の大和政権だけではなく、九州にも一定の勢力(九州王朝)が存在していたというものでした。
しかも、広開土王碑に描かれた倭以降、倭の五王、遣隋使、遣唐使の最初二回に至るまで、全てが九州王朝によるものと考えられるのです。
今回は、この偏重とも思える大陸への関わり方から、九州王朝について考えてみます。
国内を向いていない
前回にも書きましたが、畿内に東遷した邪馬台国ですが、その規模は少数にとどまったと思われ、その後のかなりの期間を国として力をつけるために費やさざるを得なかったと考えらるという事でした。
そのため、大陸に近い九州という地の利も在り、大陸との窓口を九州王朝が担う事になったという側面もあったと思われます。
しかしそうであったとしても、それ以前の問題として、大和政権がそれほど力の無かったと考えられるのにしては、国内への関心が無さすぎるのではないでしょうか。
『日本書紀』を見ても、継体天皇の治世の「磐井の乱」程度しか見当たりません。
この話にしても、継体天皇側から仕掛けたもので、九州王朝から積極的に打って出たという事では無いようにも見えます。
邪馬台国が去った後は
ここで、改めて九州王朝の成り立ちを考えて見ます。
大陸における五胡十六国の混乱を避けるために、邪馬台国が畿内へと東遷をした際に、九州に残った勢力が九州王朝となったと考えています。
そもそも、邪馬台国は国々の大乱を治めるために共立されて造られたものであり、決して覇を唱えたようなものではありませんでした。
その邪馬台国が東遷していなくなったわけですから、全く同じではないでしょうが、邪馬台国を共立する前と同じような状況になったという事になります。
再び国々を纏める者を選ぶ必要がでてきたわけです。
選ばれたのは
ところが、残った国々の中から統べるものを選ぶことは難しかったはずです。
何しろそのために前回選ばれたのが、邪馬台国だったのですから。
加えて、当時の喫緊の課題は、大陸からの脅威にどう備えるかという事でした。
そこで選ばれたのが、先進の知識を持った大陸からの亡命者で邪馬台国の東遷に加わらなかった者だったのではないでしょうか。
九州王朝は、中国系の王を戴く王朝だったのです。
中国系の王朝だと考えると、その大陸への傾倒と国内への無関心ともいえる政策は、ある意味必然とも言えそうです。
またそういった目で改めて見ると、倭の五王の「讃・珍・済・興・武」という一文字の名前というのも、中国系のものに見えてくるのですが。
九州王朝が中国系だったために、大和政権が基盤を固める余裕が出来たということなのかもしれません。
ではでは