邪馬台国東遷を行った側についての話5、大和政権の勢力拡大と国造について考えた話です。
国造
古代日本の歴史を調べていると、「国造」というものが出て来ます。
その実態は、はっきりと分かっているわけでは無いようですが、概ね地域の豪族が支配した領域が国として扱われ、その国の長を意味していると考えられています。
軍事権・裁判権など広い範囲で自治権を認められた、とされているようです。
古くは、神武天皇が、神武東征の論功行賞として、珍彦という人物を倭国造に任じたという記述が、『日本書紀』にあります。
「国造本紀」(『先代旧事本紀』巻10)には、全国135の国造について記録があるようです。
大和政権による全国平定?
通常、国造については、大和政権が全国を平定して行く活動の中で設置されていったと考えられています。
この考え方について個人的な感想としては、それ以降の時代、特に鎌倉時代以降の幕府と地方の勢力の関係からの類推の影響が強いのではないかと思っています。
幕府のような中央集権的な組織が大和朝廷であり、それが全国を平定する中で各地に設置した行政組織が、国造だというわけです。
全国平定は無かった
これまでの記事で、一般的に考えられているような大和政権による全国平定は、少なくとも白村江の戦いまでは行われていないと考えて来ました。
それまでは、邪馬台国から分かれた畿内の大和政権と、北部九州の勢力(九州王朝)が並立していたという仮説です。
そしてそれ以外の地域の勢力との関係は、一種の冊封体制のようなものではなかったかと考えています。
これには、大和政権と九州の勢力が、いずれもその成立、発展の過程で、大陸からの集団の力を取り込んだことで、それ以外の勢力に対して優位性を持ったことが背景にあるというのが、仮設の骨子となります。
その優位性を享受したくて、中国の王朝との間で行われていた、冊封的な関係が形成されたのではないかというわけです。
決して軍事的に各地を平定して行ったわけでは無いのです。
『日本書紀』にある、ヤマトタケルを始めとした各地の平定ともとれる記述は、一貫して大和政権が全国に対する覇権を取り続けて来た、という建前で造られた歴史書であるために必要なものだったのでしょう。
勿論、並立する九州王朝などは無かったことにされているわけです。
国造とはなんだったのか
以上のように考えると、国造がどういったものか見えて来るように思います。
それは冊封的な関係になった、各地の勢力に与えた「爵号」の一種だったというものです。
中国に朝貢をして授けられた、「漢委奴国王」や「安東将軍」などの「王」とか「将軍」といったもののようなものということになります。
別に、大和政権が地方に行政機関を設置していったわけでは無く、各地域を支配していた勢力に「国造」という名称を授けただけなのです。
ただ、中国王朝内にも「王」や「将軍」がいたように、大和政権内にも元々「国造」という地位があったはずで、神武朝の倭国造などはこれにあたると思います。
そして、律令制が導入され中央集権化が進むと令制国に置き換えられ、祭祀を司る名誉職になっていったのです。
国造は、大和政権から軍事権・裁判権など広い範囲で自治権を認められたのではなく、国造となる以前と変わらず各地域を支配していただけなのです。
ではでは