文明と文化について考えた話です。
前回の記事
前回の記事は、京都に多くの伝統的な分野で、その質、量ともに圧倒的な集積が有る事についての話でした。
その理由として、集積されたものの多くは人間の生命を維持するためには、特に必要の無いものであり、それを求める支配者層の人々がいたからだと考えました。
長きに渡って都だったので、そういった人々がいたという訳です。
ところで、多くの伝統的な分野での圧倒的な集積というのは、文化的なものが膨大にあると言い換える事が出来るでしょう。
今回の話は、以上の事を受けて、文明と文化について考えてみた話になります。
司馬遼太郎による定義
文明と文化という事ですが、この二つの言葉に関しては、以前から分かっているようで良く分からないと思っていたのです。
たとえば、司馬遼太郎が次のように定義しています。
文明は「たれもが参加できる普遍的なもの・合理的なもの・機能的なもの」をさすのに対し、文化はむしろ不合理なものであり、特定の集団(たとえば民族)においてのみ通用する特殊なもので、他に及ぼしがたい。つまりは普遍的でない。
引用元:司馬遼太郎が語る「文明」と「文化」(アメリカ素描) - INVISIBLE D. ーQUIET & COLORFUL PLACE-
上手くまとまっているように見えますが、どうなんでしょう。
例えば、前回の記事で取り上げた、京都の和菓子、祇園等の花柳街、西陣等の服飾は、日本の京都という特定の集団における特殊なものとは言えるかもしれませんが、他に及ぼしがたい、普遍的ではないとは言えないでしょう。
これらのものは、明らかに日本人のみならず外国の人にも評価されていますからね。
文化とは
ところが、前回の記事で考えた京都の話が、最初に書いたように文化についての話だと言う事になれば、それをそのまま文化の定義に出来るのではないかと思ったのです。
という事で、文化の定義は「特定の集団により生み出された、人間の生命を維持するためには、特に必要の無いもの」という事になります。
前回の記事でも書きましたが、生命を維持するのに必要が無いというだけで、そのものに価値が無いといった事を言っているわけでは無いので、念のため。
文明とは
文化が以上のようなものだとすると、文明はそれに対するものとして、以下のように定義されることになります。
文明とは「人間の生命を維持するために必要なもの」。
文化、文明何れの定義にも出て来た「もの」ですが、単なる物体という事では無く(それだと、そこら辺の食べ物や水が文明という事になってしまいますから。)、「農耕」といった人間が作り出した「システム」のような物を想定しています。
文明によって生きていくことが保障された上で、文化が生み出されたという事で、話としては納まりが良いと思うのですが。
ではでは