横から失礼します

時間だけはある退職者が、ボケ対策にブログをやっています。

マルチビタミンは効果が無い?

マルチビタミンの効果について考えてみた話です。

 

 

効果が無い?

 最近、ネット上のあちこちで、マルチビタミンに関する調査の話を見るようになりました。

アメリカで行われた大規模な調査の結果、マルチビタミン利用者と非利用者では、健康面で違いが無かったという報告が基になっています。

私的には、以前の記事で書いたように、いわゆる健康長寿の方法に関しては、将来的にはともかく、現状においては否定的なので、今回の結果にもそれほど違和感は有りません。

 

yokositu.hatenablog.com

 

しかしながら、全く意味が無いというのもどうかなとは思うのです。

腐ってもビタミン

 何しろ、マルチビタミンというぐらいですから、当たり前ですが、ビタミンが色々はいっている訳です。

ビタミンA、B、C、Dとかのよく聞くものを筆頭に、その他にもろもろ入りという事です。

ビタミンは、Wikipediaで調べると、「生物の生存・生育に微量に必要な栄養素のうち、その生物の体内で十分な量を合成できない炭水化物・タンパク質・脂質以外の有機化合物の総称」というものになります。

生物の生存・生育に必要という事なので、全く意味が無いというのは逆に考え難いのです。

欠乏症の薬として

 そもそも、ビタミンは欠乏すると、様々な症状が現れます。

例えば、ビタミンAが欠乏すると、鳥目とも呼ばれる夜盲症になりますし、ビタミンB1の欠乏は、有名な脚気といった具合です。

これらに対する薬は、それぞれのビタミンという事ですから、ビタミンを摂取することが無意味で有る訳は無いのです。

調査の内容

 もう一度、調査の内容をよく見てみると、4万人ほどの人に健康関係の事柄について、アンケート調査を行ったものの中に、マルチビタミンの摂取の有無の項目があった事に目をつけて、健康と絡めて分析を行ったと言もののようです。

健康の内容としては、心疾患、脳疾患などの比較的深刻な病気との関係を調べているようです。

この辺りに、ビタミンの摂取が無意味だという結果の秘密が有りそうです。

ビタミンの効果

 結局、ビタミンは、我々の生存・生育に必要なものではあるが、心疾患などを予防するものでは無いという事のようです。

しかしながら、欠乏症の薬でもあるので、最近知られるようになった、エネルギー量は足りていても栄養素が足りていない、現代型の栄養失調には意味がありそうです。

今回の調査では、アンケートを基にしているので、そこまで細かい状況を調べたわけでは無いようですし、マルチビタミンの摂取も、申告を基にしているだけなので、どの程度摂取しているのかも疑問は残るところだと思います。


 調査によれば、マルチビタミンを摂取することに拠る悪影響は無いようなので、どうしてもスナック菓子が減らせない私としては、取った方がいいんですかねぇ。


ではでは

人類の考えてきた事のアウトライン

人類の考えて来た事のアウトラインについて考えてみた話です

 

 

突然やって来る

 私の場合、何かについて調べたり、勉強したりするときには、基本的に最初の手順として、アウトラインを確認して、その後各論に入っていくという事が多いです。

例えば、本を読むときには、先ず目次を見て、大体の話の流れを想像してから、読みがちです。

昨日、スーパーに向けて歩いていた時に、突然何の脈絡もなく、人類の考えて来た事のアウトラインを確認出来るかもしれない方法を思いつきました。

それにしても、頭の働き方はどうなっているのかよく分からないですねぇ。
昨日思いついた時にも、人類の考えて来た事なんてことも、自分の調べ方についてなんてことも、全く考えていなかったんですけでどね。

それはそれとして、思いついたのは、日本十進分類法を利用すればいいんじゃないかというものです。

日本十進分類法

 日本十進分類法とは、図書館で、本を分類するときに使われる分類法です。

図書館に行って、棚に並べてある本を見ると、よく次のようなラベルが張られています。

f:id:t_arata:20201112213012p:plain
引用元:背ラベル(セラベル) | 基本的な用語 | 図書館用語集 | FJAS図書館ポータル -- Fujitsu --

この一番上の段の番号が、日本十進分類法により付けられた番号です。

本を棚に戻すときに、この番号により、どの棚の本なのかが分かるという仕組みになっています。

また番号は、当然闇雲についているわけでなく、同じ分野の本については、同じ番号を付けることに拠り、分野ごとに本が棚に並ぶというシステムになっているわけです。

ちなみに、二段目は著者名なので、これに従って並べることに拠り、同一分野内で、著者名順に本が並ぶことになり、探しやすくなるという事になっています。

分類の内容

 具体的な分類方法は以下のようになります。

先ず、全体を10の項目に分類します。
具体的には、

  • 0 総記 (情報学、図書館、図書、百科事典、一般論文集、逐次刊行物、団体、ジャーナリズム、叢書)
  • 1 哲学 (哲学、心理学、倫理学、宗教)
  • 2 歴史 (歴史、伝記、地理)
  • 3 社会科学 (政治、法律、経済、統計、社会、教育、風俗習慣、国防)
  • 4 自然科学 (数学、理学、医学)
  • 5 技術 (工学、工業、家政学
  • 6 産業 (農林水産業、商業、運輸、通信)
  • 7 芸術 (美術、音楽、演劇、スポーツ、諸芸、娯楽)
  • 8 言語
  • 9 文学

のようになります。

更に、各項目を10項目に分類します。

この段階で、100項目に分類されることになります。

更に、100項目をそれぞれ10項目に分類します。

最終的に、全体が1000項目!に分類され、三桁の数字で表せることになります。

ちなみに、前掲ラベルの9136は、「現代日本文学の小説、物語」という事を表しています。

分類の意味するところ

 さて、上で見てきたように、日本十進分類法は図書館における本の分類法だった訳ですが、建前上は、これにより古今東西全ての本が分類される訳です。

ということは、本という形で表されたすべての考えが分類されていることになります。

見方を変えて大袈裟に言えば、人類がこれまでに考えて来た事が、1000項目に分類されていると言ってもいい事になります。

これは、言い換えると、この1000項目が、人類の考えて来た事が全て書かれた本の、目次のようなものだとも言ってもいいかと思います。

この1000項目に関して、調べることに拠り、人類の考えて来たことの、アウトラインを手に入れる事が出来るのではないかとおもうのです。

Wikipedia

 図書館に行って、それぞれの項目の代表的な本を探してもいいのですが、現代の我々にはWikipediaという武器が有るのでこれを使わない手はありません。

Wikipediaにもそのものずばりの、日本十進分類法という項目が有ります。

ja.wikipedia.org

そこには、1000項目(実際には未定義なども有り1000は無い)すべてが記載されているので、それを足掛かりに、調べていけばよさそうです。


 それにしても、Wikipediaを始めとして、いい時代になったものです。


ではでは

農耕文明と人生

農耕文明と人生について考えてみた話です。

 

 

現代社会は農耕文明

 現代社会が、農耕文明をベースとして成り立っている事は、疑問の余地のないところだと思います。

都市の発生とか、鉄の利用とか、産業革命などなど、人間社会の様々な発展の過程が有る訳ですが、いずれもその根底に農業の存在が有る事は否定できません。

現在までのどのような段階に発展した社会も、農業による生産物無くしては、あっという間立ち行かなくなってしまうのは、火を見るより明らかです。

農耕の生産力

 以前の記事で、農耕社会は、狩猟採集では生存が困難になった時に、始まったと考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

更に、農耕による生産物を管理する独占的に管理することに拠り、権力が発生したと考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

まあ、狩猟採集では生きていくことが困難になった結果、その解決策として農耕を取り入れたと考えているので、当たり前と言えば当たり前ですが、農耕には、関係者全員が食べていくだけの生産力が有る事になります。

さらに、権力階級が存在し得ることからも分かるように、農耕の特徴の一つは、生産性が高いという事です。

ただ単に全員が食べていけるだけではなく、農耕に必要な人員以上の人間が食べていけるだけの、生産量が有ったという事です。

全ての人間が食べれるはず

 まとめると、農耕により、権力階級等の農耕作業に直接かかわらない者も含めて、全ての者が食べていくことが出来るようになったという事になります。

その上で、先にも書いたように、その農耕を基盤とした社会に現代の我々も生きている訳です。

その割には、ただ食べていくというだけの事が、なぜこれほどまでに難しい事になっているのでしょう。

その種類、内容は別にして、少なくとも最低限の食事を、全員が出来るはずです。

正確には、複雑化、巨大化した現代社会では、そこまで生産にリンクして人口が変化しているわけでは無いですが、それは世界から飢餓を無くすという、チョット似て非なる問題になってしまうので、ここでは十分なものが生産されると考えます。

お金が原因?

 前回の記事で、人が生きていくこと自体は辛い事でもなんでもなく、ひょっとしたら楽しい事でさえあるかもしれないが、その生きるという事のためにお金を稼がなければいけないという構図こそが、競争を生みだし、その事が生きることの厳しさの原因では無いかと考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

なぜお金を稼ぐことが、競争を生む程厳しい事になるのかと言えば、結局の所、現代社会においては、お金が無いと生活していけないという事に尽きるでしょう。

この事と、上述の農耕文明なのに食べていくことが難しいという話を合わせて考えると、本来ならば、農耕を取り入れることに拠り担保されるはずの、基本的な生活にもお金が必要な事が、問題の中心という事になりそうです。

であるならば、基本的な生活と、お金というものを分離することが出来れば、良いということになりそうです。

理屈はそうだが

 しかしながら、これなどは言うは易し行うは難しの典型で、実際にどうしたらいいのか、とんと浮かびません。

一瞬、最近各所で話題のベーシックインカムかなとも思ったのですが、支給されるお金で、基本的な生活を保障することは難しそうですし、そもそも、結局お金というものを分離出来ていないという事も有るので、チョット違うかなという気がします。

と、ここまで書いて来て何なんですが、残念ながら今のところこれといった良い案も浮かばないので、この件に関しては、しばらく寝かしてみようかなと思います。


 やっぱり、どんなことでも、お金が絡むと途端にややこしくなるんですよね。

とは言っても、結局は先立つものが無いという話なんですけどね。


ではでは

プロという存在と人生

プロの存在と人生について考えてみた話です。

 

 

プロの仕事は面白い

 前回の記事で、「プロ」と名のついている仕事について、共通点として、いずれも基本的な生活を維持するのに必要で無い事を生業としている点について書きました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

その、生活を維持するのに必要で無い事ですが、それでもやるのだから、人によって好き嫌いはあるでしょうが、いずれも、やること自体が面白い事だという共通点もある様に思われます。

面白い事やって、稼げるわけですから、私だって野球をやってお金を貰えるものだったら貰いたいものです。

こういう事を言うと、まあ大抵は、プロの厳しさが分かっていないという話になる訳です。

面白いが厳しい

 確かに、戦力外通告をされたプロ野球選手の話が、毎年オフシーズンになると色々と喧伝されますし、賞金で生活できるのは、プロゴルファーのごく一部だという話もよく聞きます。

最近では、藤井2冠の人気で注目を集めるプロ棋士に関して、奨励会を突破できずに、「プロ」になる夢を断たれる人達の話も知られるようになりました。

その通りではあるんですが、これよく考えると、決して野球、ゴルフ、そして将棋そのものが厳しいと言われているわけでは無い事が分かります。

いずれも、参加できる人間に制限を作り、その中での競争が厳しい事になっている訳です。

そもそも、やること自体が厳しいものを子供が喜んでやる訳は無いわけで、これらをやることは本来楽しい事のはずなのです。

ここでは触れなかった、その他のプロに関しても、同じことが言えると思います。

では何が厳しいのかと言うと、その楽しい事をやってお金を稼ぐという構図が厳しいということになるのではないかと思います。

楽しい事やってお金がもらえるのならば、上に書いた私のように、やりたいと思う人間は少なくない筈で、その結果として競争が激しくなるというのは、分かり易い構図だと思います。

人生の厳しさは

 ところで、以上の事は、私たちの人生の捉え方にも関係しているのではないかと思うのです。

現代の社会で私たちが生きていくというのは、一部のお金の心配をしなくてもいい人達は除いて、多かれ少なかれ同じような構図ではないかと思うのです。

「プロ」の場合のように分かり易いものばかりでは無いですが、結局の所、何かをしてお金を稼ぐ構図には違いが無いわけです。

「プロ」とは違って、全てが面白いからという訳では無く、生きていくために必要だからという事も、少なくない訳ですが。

いずれにしても、何をやるかという事よりも、それによりお金を稼ぐのが厳しいというわけです。

これこそが、生きる事が厳しく感じられる、最も大きな原因という事では無いでしょうか。

であるとするならば、「プロ」の在り方との比較で考えると、実は生きていくこと自体は厳しい事では無く、それどころか楽しいものであるかもしれないという事になります。

人生は、生きているだけで、楽しいものかもしれないのです。


 とは言っても、現実には、お金が無いとそれはそれで厳しいことになるのは、明らかなんですよね。
何とかなりませんかね。


ではでは

プロと名の付くもの

プロについて考えてみた話です。

 

 

プロとプロフェッショナル

プロについて考えるにあたり、先ずプロフェッショナルとプロについて考えてみます。

プロフェッショナルを略したのが、プロじゃないかという話も正しいのですが、それだけでもないように思うのです。

NHKのドキュメンタリー番組に「プロフェッショナル仕事の流儀」というものが有ります。

今調べてみたら、2006年の開始以来、450回以上放送されているようです。
という事は、対象となった人、つまりプロフェッショナルもその位の人数になる訳です。

先日、その放送を見ていて、改めて、プロフェッショナルとプロって、同じ言葉のように見えて、チョット使い方が違う点があるように思ったのです。

プロとは呼ばれない

 その回に取り上げられていたのは、魚仲買人でした。

別に魚仲買人についてどうこう言う訳では全く無いのですが、私が考える「プロ」では無いと思ったのです。

そう思ってみれば、番組のタイトルも、プロではなくプロフェッショナルです。

プロと言えば、すぐに思いつくのが、プロ野球、プロゴルファーのように、スポーツを行う事によりお金を稼いでいる人たちの事です。

これが私の考えている「プロ」です。

魚仲買人は、明らかにそういった人たちとは違います。

この番組の内容から考えると、「特定の仕事の中で能力が高く、技能に優れる人」といった意味でプロフェッショナルを使っている事になります。

”さすがあの人の仕事は、プロの仕事だね”といった言い方をするときのプロにあたるものだと言ってもいいでしょうか。

この場合のプロは、プロフェッショナルの略という事になると思います。

では、普通に思い浮かぶ「プロ」というのは、どういう事になるのでしょうか。

プロと呼ばれるのは

 もう一度、話を番組の内容に戻すと、その対象は、先にも書いたように魚仲買人でした。

「能力が高く、技能に優れる人」という意味では、確かに取り上げられていた人は、プロフェッショナルと言っていい人でした。

しかし、よく考えると、どれほど技能が高くても、プロの魚仲買人と呼ぶことは有りません。
そもそも、アマチュアの魚仲買人という呼び方は有りません。

プロのゴルファーとは呼んでも、プロの魚仲買人とは呼びません。
これはどう考えれば良いでしょう。

こういう時には、同じ種類のものから共通点を考えるのが常套手段です。

という訳で、「プロ」の例を見てみましょう。

プロ野球選手
プロゴルファー
プロのピアニスト
プロの作家
プロゲーマー
プロ棋士

と思いつくままに挙げてみましたが、どうやら一つの共通点が有りそうです。

いずれも、人間が、生命を維持していくのに必要不可欠なものに、関わっているのでは無いという事では無いでしょうか。

とは言っても、魚仲買人は、一見生命維持に必要ではなさそうです。

そのあたりは、現代社会が複雑になってしまっているので、簡単に線引き出来るわけでは無いという事になるでしょうか。

現代社会の中で、基本的な生活を維持するのに必要なものを構成する一部かどうかという括り方がいいのかもしれません。

極端に言えば、「プロ」は有っても無くても、人間の生存には関係が無いという事です。

 


勘違いしないでいただきたいのは、決して、プロのようなものを問題にしている訳では無いという事です。
私個人としては、プロ野球が無くなると、確かに生存には問題が無いかもしれないですが、何とも味気ない生活になる可能性が高いです。

ただ、生存に関係の無い事で、お金を稼ぐ、すなわち生存を行うという構造が、我々の社会には有るという事が興味深いのです。

 


ではでは

驚愕の事実

極個人的な、驚愕の事実が判明したと言う話です。

 

 

幼少期の記憶

 たまに、長じても、幼い頃の事を良く覚えているという人がいます。

以前ネットで読んだ話で興味深かったものに、赤ちゃんの頃の記憶が有る人のものが有ります。

その人によると、赤ちゃんが、原因が無いように見えるのに泣く理由の一つは、頭が痒くて、自分ではかけないのでとりあえず泣いていたというのです。

本当にそうかどうかは確かめようもないのですが、その時に読んだ記事では、赤ちゃんの泣いている原因がよく分からない時には、頭をかいてあげてるのも一つの選択肢として覚えておいてはどうでしょうか、という結論だったように記憶しています。

私の場合は、そんなに昔の事は覚えているという事は無く、何歳の頃のことか判然としない光景をいくつか覚えている程度です。

私の記憶

かなり鮮明なものもあるのですが、その中でも特に鮮明なものが有ります。

それは、保育園でのおやつの時間にお菓子を食べた光景です。

そのお菓子が非常においしかった事と、一人に二つしかもらえなかったことが印象に残っています。

保母さんと話をしている記憶は全くないので、その頃の私は、あまり積極的に保母さんと話をするようなタイプの子では無かったようです。
加えて、家に帰っても、保育園での出来事を、父や母に積極的に話すような子でも無かったようです。

そのためか、そのお菓子について、保母さんとも、父母とも話した記憶は有りませんし、買ってきてもらったという記憶も有りません。
ただ、おいしいお菓子を食べたという記憶のみが残っていたのです。

次に、そのお菓子と遭遇するのは、小学生高学年になってからでした。
ある日、学校から帰ったら、そのお菓子が有ったのです。

食べてみると、記憶に有った通りの味で、ああこれだったんだと思った記憶が有ります。

まあ、記憶に関しては、これだけと言えばこれだけなんですが。

お菓子の開発時期が問題だった

 昨日、ネット上で、このお菓子の開発話に行き当たりました。

へえと思いながら、読んでみると、これまでにないもの作ろうと、年単位で試行錯誤をかさ重ねたようで、おいしいのも納得の話でした。

で、ここからが、今日の本題になります。

その記事の最後の方に、色々あった挙句に発売にこぎつけた旨の記述と、発売年が書いてあったのですが、その発売年が問題だったのです。

なんと、その発売された年には、私は、小学生だった事になるのです。

その瞬間私の頭の中は、??????????????????????、でした。

小学校から帰ったら家に有ったというのは、問題ない事になりますが、保育園で食べた筈は無いことになってしまうのです。

正体は分からない

 そのあと、同じようなお菓子が無かったかとか、色々と調べてみたんですが、開発話にこれまでに無いものを、とあったように、それらしいものは見つかりませんでした。

そういったものが、有ったにしろ、無かったにしろ、私の記憶の中では、確かに保育園のおやつの時間にそれを食べたという記憶が有るのです。

という事は、その記憶自体が、間違っていたことになります。

保育園のおやつの時間のくだり全てが間違いでは無いと思いますが、その時食べていたお菓子が、小学校の時に食べたお菓子に置き換わってしまったとしか考えられません。

でもねえ、小学生の時に、保育園の時に食べたお菓子だと思った記憶ははっきりとあるんですよね。

あの時に、勘違いをしたという事になるんですかねえ。

保育園で食べたお菓子の形と味の記憶は、小学校の時のみならず、この年になって食べるそれとも完全に一致しているのですが。

結局、そのあたりは、後から思い込みで作られた記憶という事になるんでしょうか。


という、個人的に長年信じてきた記憶が間違っていたという、驚天動地の出来事でした。

 


ではでは

お金の始まりについて

お金の始まりについて考えた話です。

 

 

お金は信用

 お金、いわゆる貨幣は、よく考えると不思議なものですよね。

例えば一万円札は、極論を言えば、一万円と書かれた紙きれな訳です。

その紙切れが、一万円として使えるのは、受け取ってもらえるからです。

なぜ受けとるのかというと、また次に使うときにも、その相手が受け取ると思っているからです。

貨幣が貨幣となるのは、他の人も受け取ってくれると予想するから、だれもが受け取る、という自己循環論法です。

以上は、以前にTVで見た話の受け売りですが、受け取ってもらえるという信用が貨幣を貨幣ならしめているというのは、なるほどなと思わせられます。

となると、問題は、その信用は何処から来ているのか、初めに、どうしてそんなものを信用したのかという事になります。

貨幣の始まり

 貨幣がどのように始まったのかについては、従来次のように考えられて来ました。

先ず、貨幣の無い時代には、いわゆる「物々交換」が行われていたと考えられます。

ただし、単純な「物々交換」では、いつもお互いに欲しいものを持っているとは限りません。
そこで、自分の持ち物を、米などの特定の物品に一度替えることに拠り、欲しいものが出て来た時に、それらを相手の持ち物と交換する「物品貨幣」というものが使われました。

この「物品貨幣」を、より保管、持ち運びに便利な、貝や金属にしたものが貨幣の始まりだというものです。

一瞬なるほどと思いますが、よく考えると、「物品貨幣」の替わりを、貝や金属とするときに、結局それが「物品貨幣」と交換されるという信用が必要になるので、そこのところは、何も解決していないことになります。

というような事を、時折思い出しては、考えていたんですが、面白そうな仮説を思いつきました。

権力と食料分配

 以前の記事で、農耕生活の始まりと共に、権力が発生したのではないかという話を書きました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

その中で書いたように、貯蔵している食料の分配によって、生殺与奪を握ることが、権力の基だと考えた訳です。

権力の対象が村落程度の規模で有れば、誰に分配するのかは、考えるまでも無かったでしょう。

しかし、権力の及ぶ範囲が広くなるにつれ、構成員も増加することになり、分配する対象が自明ではなくなる時点が有ったはずです。


その時に、最も分かりやすいのは、全ての構成員に、身分を証明するものを持たせるという事でしょう。
それを持っているものに、食料を分配すればいい訳です。

更に、権力を含む社会構造が複雑になって来ると、各構成員に分配する食料に差が出て来ます。
江戸時代の、武士階級における石高のように、差が出て来るわけです。

これを、いちいち記録して、それと照らし合わせて、分配するという事では、ある時点で、その手間が現実的ではなくなると考えられます。

信じざるを得ない

 それに対する、現実的な解決法の一つが、一定量の食料と交換できる貨幣的なもの(あくまで形状的にという意味で)では無かったかと思うのです。

それを、分配する食料の量に合わせて、配布することにすれば、分配の実務は、貨幣的なものと交換に、一定量を配布すればいい訳で、現実的に対応可能なものとなります。

これは、見方を変えると、意図することなく、結果として「食料本位制の貨幣」を生み出したと言えなくもありません。

という訳で、私の仮説は、貨幣に対する信用は、自然発生的に生じたわけでは無く、権力によって、信用せざるを得ない状況に置かれることに拠り発生したのではないかというものになります。

何しろ、貨幣的なものを否定してしまったら、食料が手に入らなくなる訳ですから。


 もし、この仮説が正しいとするならば、お金にまつわる全ては、農耕を始めたために始まったという事になる訳ですが、どうなんですかね。


ではでは

藤井七段の強さの秘密について考えてみた話(4)

 藤井七段の強さの秘密について考えてみた話(4)です

 

 

研究対象としての将棋AI

 将棋AIに関しては、トッププロと同等もしくはそれ以上のレベルに達したことに拠り、若手のプロ棋士を中心にして、対戦相手としてではなく、研究対象として取り入れられるようになって来たようです。

藤井七段も、御多分に漏れず、かなり積極的に取り入れていることが知られています。

それどころか、結構コンピューターそのものに関しても、造詣が深くて、過去に、興味のあるCPUに言及して、話題になった事も有りました。
いやあ、なんともはや、多才です。

勿論、将棋AIを取り入れたからといって、強くなるほど簡単なものでもない訳です。
それは、将棋AIを取り入れた若手が、全て躍進しているわけでもないことを見れば明らかです。

藤井七段に関してはどうでしょうか。
その活躍に、将棋AIは関係しているのでしょうか。

藤井七段との関係

 研究対象ということで、将棋AIが指すトップレベルの手筋を、研究していくという事になるかと思います。

藤井七段も、当然そのようにしているはずです。

しかし、彼の場合、それに加えて、もう一つの研究の方法が、それも、他のプロ棋士の多くとは違った方法が、あると思うのです。

それは、前回までの記事で考えてきた、彼の強さの秘密ともいうべき、従来の常識にとらわれない局面の判断から繰り出される、いわゆる神の一手を、前もって、試してみることが出来るという事です。

神の一手に対する、トップレベルの反応と、その後の手筋を事前に確認できるわけです。

その成果の一端が、棋聖戦の第2局で打たれた、「5四金」だったのではないでしょうか。

これに関しては、藤井七段も対局後のインタビューで、「5四金はやってみたい手だった」という趣旨の発言をしたようで、結構いい線行っているのではないかと思うのですが。

ラスボス

 ところで、将棋AIには、「AlphaZero」というラスボスがいます。

これは、将棋のルールだけを与えた上で、「AlphaZero」同士で対戦を繰り返すことで、「AlphaZero」自身に戦い方を導き出させるというもので、これまでの将棋AIとも藤井七段とも、全く異なったアプローチをとったものです。

一日以内の自己対戦だけで、と言っても数百万回?!の対戦だそうですが、その時点で最強と考えられていた将棋AIに勝ってしまうほどの強さになるようです。
今のところ、最強と言っていいでしょう。

しかも、「AlphaZero」は、チェス、囲碁に関しても、同じ方法で、向かうところ敵なしの状態で、将棋AIという範疇を越えてしまっています。

これを研究対象にしたら、従来の将棋AIとも、藤井七段とも違った、バックボ-ンを持つことが出来ることになります。
ひょっとしたら、勝てるようになるかもしれません。

まあ、その時には、藤井七段も使う事になるでしょうから、面白いことになりそうです。

ただし、市販されていないハードウェアを五千台使ったシステムのようなので、個人で使えるようになるのは、まだしばらくかかりそうです。

研究対象にする前に、ラスボス対藤井七段も、怖いもの見たさで、見てみたい気もします。


 ラスボスまで引っ張り出しましたが、やはりしばらくは、藤井時代になるのかもしれない、というのをとりあえずの最終結論としたいと思います。


ではでは


追伸:書き上げて、投稿しようとしたら、藤井棋聖爆誕していました。何ともはや。

 

 

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藤井七段の強さの秘密について考えてみた話(3)

藤井七段の強さの秘密について考えてみた話(3)です。

 

 

AIと将棋ソフト

 藤井七段に関しては、(1)の記事でも触れた、棋聖戦第2局の「3一銀」を、AIもすぐには良い手だと分からなかったことをもって、AIを越えたといった論調も見られるようです。

 

yokositu.hatenablog.com

 

ところで、AIという言葉が出て来ましたが、人間と同等以上の思考能力を持ったシステムが、たまたま将棋をやっているという事では全くなく、以前から将棋ソフトと呼んでいたものの高性能版を、最近のAIブームのせいか、いつの間にかAIと呼ぶようになっているという事のようです。

この記事では、将棋AIと呼ぶことにします。

将棋AI

 将棋AIは、基本的に、人間が将棋の指し手を考える過程を、プログラムにする形で作られて来たようです。

そのため、その初期の頃には、将棋の強い人が作った将棋AIが強いといった事が普通でした。

そのプログラムの内容ですが、ポイントとなる点は色々とある訳ですが、最も肝となるのは、その時々の局面を評価する基準のようです。
ある局面で、先手後手のどちらが有利か評価出来れば、その先の手筋に関しても同様に評価して、良い手かどうか判断が出来ることになる訳です。

その評価基準を、定跡や詰将棋のデータや、過去の棋譜も参考にして作り出し、各局面での指し手の優劣を決定していくというのが、プログラムの大まかな流れになるようです。
勿論、その中に、個々の作者のアプローチの違いが特色となって表れてくる訳ですが。

つまり、将棋AIにも、人間が将棋を指す上で、常識ともなっている、駒の軽重、損得、役割といった考え方が反映されている訳です。

機械学習の導入

 そうは言っても、膨大な量の過去の棋譜は、人力で扱いきれる訳では無く、将棋AIそのものに調べさせよう(機械学習)という流れになりました。

私的には、この辺りから若干AIらしくなってきたのかなと思っているのですが。

ともあれ、機械学習により一気に性能が向上し、プロと互角か、場合によっては凌駕するところまで進化することになりました。

駒の軽重、損得、役割といった考え方を共通基盤として持った上で、コンピューター特有の、疲れを知らない力業で学習をする訳ですから、プロと同等かそれ以上になるというのもむべなるかなという気はしますが。

AIを越えた?

 以上の事と、前回の記事で考えた、藤井七段の強さの秘密かもしれないものを考え合わせると、将棋AIが「3一銀」を読み切れなかったのもしようがないという事になりそうです。

 

yokositu.hatenablog.com

 

上に書いたように、現在のトップレベルの将棋AIは、多くのプロ棋士やアマチュアの強豪の常識をベースに、コンピュータ特有の圧倒的経験値を組み合わせたものと言ってもいいものである訳です。

そうである限り、駒の軽重、損得、役割と言った考え方に捕らわれずに考え出されたと思われる、藤井七段の差し手を、普通には導き出すことは出来なかったという事ではないでしょうか。

「3一銀」を見て驚いた、プロ棋士と同じだという事です。

そういう意味では、AIを越えたと言ってもいいのかもしれません。

というよりも、将棋AIとは局面の評価基準がそもそも違う、といった方が良いのかもしれません。藤井七段は、同じ盤面で、違うものを見ているのかもしれません。

棋聖戦第二局後に渡辺棋聖がブログに書いた、「いつ不利になったのか分からないまま、気が付いたら敗勢、という将棋でした。」という言葉に、その一端が現れているように思うのですが。


 多少、将棋AIを単純化しすぎたかもしれませんが、一応AI越えに関しても、結論めいたところまで来ました。
次回は、もう少し将棋AIとの関係について考えてみたいと思います。


ではでは

 

藤井七段の強さの秘密について考えてみた(2)

 藤井七段の強さの秘密について考えてみた話(2)です。

 

 

前回の記事から

 前回の記事で、藤井七段の凄さとして、幼少期のエピソードと、神の一手について書きました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

今回の記事は、その内容を基に、藤井七段の強さの秘密について考えてみようという訳ですが、神の一手が、幼少期のエピソードに影響を受けているのではないかというのが、基本的なアイデアとなります。

前回も書いたように、藤井七段の見せる、いわゆる神の一手には、二種類あるというのが、私の見立てです。

1.打たれた時に、その意味がすぐには分からないもの。
2.打たれた瞬間に、その内容に驚くもの。

の二種類となります。

それぞれに、幼少期のエピソードとの関係から考えてみたいと思います。

一種類目の神の一手

先ず一種類目の神の一手についてですが、その意味がすぐには分からないという事は、普通に考えて、明らかに、藤井七段の手筋の読みの能力が、居並ぶプロ棋士のそれを凌駕しているという事を示していると言っていいでしょう。

これに関しては、読み書きより先に定跡を理解し、詰将棋の能力が小学六年の時点で日本一で有る事から、十分に納得できる能力だと言えるでしょう。

だた、その読みのレベルが、常識はずれだというのが、やはり天才の天才たる所以と言うべきなのかもしれません。

二種類目の神の一手

 次に二つ目ですが、前回の話でも少し触れましたが、この2つ目に含まれる指し方の特徴は、読みの能力の優劣ではなく、これまでの常識では、特にプロ棋士等のいわゆる将棋の強い人の、読み筋に挙がり難いもののようだという事です。

こちらに関しても、実は、幼少期のエピソードにあげた事柄が、大きな影響を与えているのではないかと言うのが、私の仮説です。

先ず、詰将棋では、相手の「玉」を、王手の連続で、詰んでいきます。
そのため、当たり前ですが、自陣が攻められるという事を想定しなくてもいいという事になります。
従って、駒の軽重や役割、損得、役割と言った、将棋を指す時に重要と考えられている見方は必要なく、むしろ重要なのは、各駒の動き方、動かし方という点に絞られる事になります。

もう一つの、5歳で、500ページ近い厚さの定跡本を1年で理解、記憶してしまった件についても、同じような事が言えるように思われます。

前の記事でも触れたように、その時点では、まだ読み書きが出来なかったようです。
ということは、本に、駒の軽重、損得、役割といった事が説明してあっても、それを読むことなく(読めなく)、純粋に駒の動きのみで、理解、記憶したと考えられます。

以上のような状況で、将棋に習熟した藤井七段は、普通に訓練してきたプロ棋士が、ほとんど本能のように身に着けている、駒の軽重、損得、役割という常識に、当然現在では知っている訳ですが、それほど捕らわれていないという可能性が高いのではないでしょうか。

ならば、藤井七段の快進撃は続く

 二つ目に分類される指し手は、明らかに、駒の軽重、損得、役割と言った常識的な考え方からは、離れた打ち方のように思えます。

そのため、普通のプロは、このような打ち方を、上記のような本能とも言える知識のせいで、無意識のうちに読み筋から外してしまうために、藤井七段の打ち手を見た時に、驚くことになるという事なのではないでしょうか。

もしそうだとすれば、藤井七段の快進撃が、この後も続く可能性は高い、という事が言えるかもしれません。

それは、上記のような事が、理屈で分かって、研究したとしても、これまで長年に渡って訓練してきた、駒の軽重、損得、役割といった、体に染みついたと言ってもいい常識に基づいた反応を、一朝一夕に修正するのは困難だと思われるからです。
特に、本番の重圧の中では、なおさらでしょう。

という訳で、彼の強さは、文字通り、「常識外れ」の強さという事になります。


 一応結論のようなものが出たわけですが、次回は、色々と言われることのある、AIとの関係を考えてみたいと思います。


ではでは

藤井七段の強さの秘密について考えてみた(1)

 藤井七段の強さの秘密について考えてみた話(1)です。

 

 

それにしても藤井七段は強い

 いやあ、強いですね、このままだと藤井七段と呼ぶのも今の内で、藤井2冠と呼ぶことになりそうな勢いです。

驚くべきは、まだ17歳なんですよね。
大体、七段なんていうのは、普通の感覚で、いい年の大人がなるもので、17歳でなるものでは無いですよね。

とは言っても、一応、駒の動かし方だけは知っているといったレベルの、ほぼほぼ素人の私には、棋譜の内容が分かる訳でもないので、横目で見ているといった状況でした。

それでも、さすがにこの人気なので、TVやネットで、ニュースや解説などの様々な情報が流れて来るのを、見聞きすることになります。
そうこうしているうちに、これが強さの秘密の一端ではないかというものを思いつきました。

今回は、先ず話の流れとして、藤井七段の凄いところについて、取り上げたいと思います。

幼少期のエピソード

 勝負事や芸事の世界で、とびぬけた人物が出て来た場合に、往々にして、幼少期から凄いという事が多いわけですが、藤井七段も御多分に漏れず、エピソードには事欠きません。

先ず、5歳で将棋教室に入会した際に渡された、500ページ近い厚さの定跡本を1年で理解、記憶してしまったというものが有ります。
まだ読み書きが出来ないので、符号を頼りに読んだようです。
読み書きより先に、定跡を覚えてしまった訳です。

詰将棋でも恐るべき才能を発揮しました。
プロ棋士も参加する詰将棋解答選手権に、8歳から参加し、小学六年にして優勝してしまいました。
なお、その後昨年まで、5連覇をしています。
詰将棋に関しては、小学六年にして、プロ棋士を凌駕していたことになります。

その強さは、出場したプロ棋士をして、「信じられない。次元が違う。」と言わしめる程のようです。

神の一手には2種類ある

 その彼が、プロになってから、プロ棋士も驚くような指し手を見せるようになり、「神の一手」とか「藤井マジック」とか呼ばれるようになります。

それも、神の一手にしては、多過ぎるんじゃないかというような頻度で出て来るのが、凄いところな訳ですが、数が揃った事で、神の一手にも違いがある事が、なんとなく分かってきました。

彼の、いわゆる神の一手に対する、プロ棋士の反応が、2種類あるように思うんですよね。

一つ目は、その手が打たれた瞬間には、その意味がよく分からずに、後々、手が進んだ時に、ああそうだったのかとなるものです。

例としては、里見女流名人との対局が挙げられます。

この時には、途中で藤井七段が打った手の意味が、その瞬間には、解説者にもよく分からず、局面が進んだ時点で、その20手後の為の布石だったという事が分かり、驚くといった状況だったようです。

二つ目は、打たれた瞬間に、その内容に驚くものです。

その駒を、ここで使うのか、といったものになります。

具体的には、最近の対局で言うと、棋聖戦の第2局で打たれた、「5四金」と「3一銀」のような手です。

一応、あまり良く分からないなりに、受け売りで説明しますと。
「5四金」に関しては、守備で使うべき「金」で攻め上がるのが、普通あり得ないという事のようです。
また、「3一銀」については、逆に攻めで使う「銀」を、守りに使ってしまうのは、普通は筋が悪いと考える、という事のようです。

加えて、具体例は挙げませんが、「金、銀、飛車、角」の比較的重要な駒で、突き捨て、見殺しとも思えるような指し方をする事も、少なからず見られるようです。

この辺りの手が、プロ棋士からすると、普通考えない駒の使い方という事で、見た瞬間に驚いてしまうようです。


 このような様々な凄さを、天才の一言で片付けてしまうと、それで終わってしまうので、次回で、秘密の一端について、考えてみたいと思います。


ではでは

いまさらながら、仏教について(6)

 仏教について考えてみた話(6)です。

 

 

仏教について考えたこと

 前回まで、5回に渡って、仏教について考えてきました。

先ず、その中核とも言える「悟り」と物理的な現象であるブラックホールの類似性をヒントに、「悟り」に至る方法論である、各宗派における各種修行を手掛かりにして考えてみました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

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その結果、一見して全く異なっているように見える、各宗派の修行も、結局は、お釈迦様が最初に説かれた、四諦八正道に基づいて、実践をするものであることが分かりました。

 

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更に、お釈迦様も含めて、「悟り」を開いた人々の話から、修行に加えて、何らかのきっかけが、「悟り」に至るのに必要なことも示されました。

 

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修行の有り様と、きっかけの必要性から、完全に思考の無くなる瞬間が生じることが、「悟り」に至るのに重要な役割を果たしているのではないかと考えました。

 

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結論のようなもの

 以上、お釈迦様が説かれた教えとしての仏教の、中核部分の全体的な立て付けのようなものに関しては、ある程度はっきりとしたように思います。

しかし、残念ながら、その中心にあるはずの「悟り」に関しては、やはりよく分からないままです。

まあ、2500年程かけて、あまたの人々が思索を重ねて来ても、「不立文字」のままな訳で、そんなに簡単に分かるものでもないのは、重々承知の上なんですけどね。
理系人間の、悪あがきです。

これ以上は、実践あるのみという事になるのですが、正定正念の実践として、千日回峰は論外として、坐禅あたりをするのは考えてもいいかなとは思うんですけど、正思惟、正語、正業、正命、正精進を考えれば、「悟り」は難しいでしょうね。

もう一つ気付いたこと

 色々と調べて、考えているうちに、もう一つ気付いたことが有ります。

それは、お釈迦様の説かれた教えに関しては、何かを信じたからと言って、何か(幸せとか長寿のような)が約束される訳では無いという事です。

四諦と八正道を完全に理解して、信じたとしても、実践しなければ何も始まらない訳です。

仏教は、元々、無条件に何かを信じるか信じないかというものでは無かったという事です。

これは宗教としては、なかなか面白い特徴ではないでしょうか。


 仏教に関しては、まだまだ面白そうな事が色々とあるのですが、またなにか纏まったら書きたいと思います。


ではでは

いまさらながら、仏教について(5)

 仏教について考えてみた話(5)です。

 

 

お釈迦様の悟り

 前回の記事で、「悟り」にいたるのに、修行だけではなく、何らかの形のきっかけが必要なのではないかと言う話をしました。

 

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前回の記事を上げてから気付いたんですけど、これ、お釈迦様も同じじゃないかなと。

出家をしたお釈迦様は、その後6年にわたって苦行を行ったのですが、苦行で体を痛めつけても、真理にいたることは無いと思い至りました。

それで、苦行を中止して、休息しているときに、村娘から乳がゆをもらい、体力を回復する(その娘の名前をスジャータと言い、あのコーヒーフレッシュは、ここから商品名を取ったそうです)といった事などが有ったりした後、最終的には、ブッダガヤの菩提樹のもとで瞑想に入り、「悟り」に至ります。

その「悟り」に至ったのは、明け方の明けの明星が輝き始めたころだとされています。
話によっては、明けの明星が瞬くのを見て、としているものも有ります。

きっかけが必要だが

 つまり、お釈迦様の場合も、瞑想を行っている中で、明けの明星が瞬くのに気付くというきっかけが、「悟り」へと至るのに必要だったという事では無いでしょうか。

とはいえ、そのきっかけだけでは「悟り」に達することが出来ないのもまた確かです。

例えば、前回出て来た阿難陀のように、寝床に横になろうとするだけでいいのならば、そこらじゅうで「悟り」に達する人が続出しそうですよね。

その他の人の「悟り」に至る状況を見ても明らかなように、やはりそこには、修行という、前段階が必要である様に思われます。
修行による正定、正念の状態が必要で、その状態にある時に何らかのきっかけが起こることが、重要な条件のように思われる訳です。

結局何が起こったのか

 そうだとして、その瞬間何が起こっているのでしょうか。

その境地に達していない身には、正確には分かり様がないわけですが、可能性として一つ考えらえるのは、無思考と言う状態になったのではないかという事です。

正定の集中の中で、正念の気づきを行っている時、正定と正念の目指すものからして、思考は極限まで少なくなっていると考えられます。

そこに、何らかのきっかけが生じ、そちらに意識が移る瞬間に、極限まで少なくなっていた思考が、全く無くなる一瞬が生じたのではないでしょうか。
その事が「悟り」を認識させることになるのではないか。

そのため、普通に頭が働いているときに、同じようなきっかけが有っても、思考の途切れる瞬間は生じ無いため、「悟り」に至ることは出来ないというように考える事も出来そうです。

思考の全く無い瞬間に関することは、考えそのものが無い訳ですから、思考の他者への表現形式とも言える言語では表現出来ない、すなわち「不立文字」と言う事では無いでしょうか。


 一応結論めいたところまで来ましたので、次回で一度まとめてみたいと思います。


ではでは

いまさらながら、仏教について(4)

 仏教について考えてみた話(4)です。

 

 

阿難陀

 お釈迦様の弟子の中で、特に優れた10人の人たちが 釈迦の十大弟子 と呼ばれています。

その中の一人に、阿難陀(あーなんだ)という人がいます。
お釈迦様がお亡くなりになるまでの25年間、侍者を務め、身の回りのお世話もしていたそうです。
その事も有ってか、お釈迦様の説教を最も多く聞き、しかも記憶力も良かったため、「多聞第一」と呼ばれていたようです。

経文の最初によく出て来る、「如是我聞」という言葉が有りますが、「かくのごとく、我聞けり」という意味で、この我というのが、多くの場合、阿難陀だそうです。
経文を作る時に、阿難陀の記憶を基に多くのものが作られたために、このようになっているようです

ただ、それほどまでにしても、お釈迦様が亡くなった時点で、阿難陀は「悟り」を開くまでには至っていませんでした。

阿難陀の悟りから判ること

 そんな中、お釈迦様の教えを纏めようという事(第1回の経典結集)になった時に、「多聞第一」の彼が必要ではあるが、「悟り」を開いていない者の参加はどうか、という事になったらしいです。
そこで、阿難陀は、何とか結集までに「悟り」に至るべく、より一層修行に打ち込みます。
しかし、なかなか「悟り」には至らず、なんと結集の前日も修行を続けたのです。
しかし、結局疲れ切って、その日は断念し、眠るために寝台に横になろうとした瞬間に、「悟り」を開いたとされています。

 阿難陀の話から、二つの事が見て取れます。
先ず、お釈迦様の教え、今で言えばお経という事になりますが、をいくら勉強して暗記までしても、それだけでは「悟り」には至れないという事がひとつ。

次に、修行を行うだけでは、「悟り」に至らないというのが、二つ目の点となります。
阿難陀も、その日の修行をやめて、寝ようとした瞬間に悟った訳ですからね。

様々な悟り方

 こういった、「悟り」を開いた時の状況に関しては、その他にもいくつか伝えられています。

例えば、アニメの「一休さん」でおなじみの、一休宗純は、琵琶湖岸の船上で座禅をしていた際に、カラスの鳴く声を暗闇に聞いて「悟り」を開いたそうです。

その他にも、掃除をしていて、箒ではじいた小石の立てた音でとか、夜に谷川の水の音を聞いてとか、梅の香りを嗅いだ途端にとか、色々な状況が伝えられています。

中には、あまりにも「悟り」を開けなくて、絶望のあまり首を括って死のうとした瞬間に悟ったなんていう、壮絶なものまであります。

これら全てに共通するのは、修行そのものでは「悟り」に達していないという事です。

横になろうとしてとか、カラスの鳴くのを聞いてとか、明らかに修行そのものとは違う事をきっかけとして、「悟り」に達しているように思えます。


 次回は、悟りに至るきっかけと修行の関係について考えてみたいと思います。


ではでは

 

いまさらながら、仏教について(3)

 仏教について考えてみた話(3)です。

 

 

初転法輪

 お釈迦様が、「悟り」を開かれてから、初めてその教義について説かれたわけですが、その事を初転法輪(しょてんぽうりん)と呼んでいます。

その初転法輪の中で、説かれたとされているのが、四諦(したい)と八正道(はっしょうどう)です。

ここに、お釈迦様の教え、すなわち仏教の中核的な考えがあると考えられているようです。

以下、この二つを、私のとりあえずの理解で説明すると次のようになります。

四諦

苦諦、集諦、滅諦、道諦の4つからなります。

先ず、苦諦(くたい)ですが、この世は全て苦であるという事です。
全てという事は、生きていること自体も苦という事で、それを示す中で、あの四苦八苦の考えが出て来ることになります。

次の、集諦(じったい)は、その苦の原因を示したものとなります。

滅諦(めったい)は、苦の原因を滅することで「悟る」ことに拠り、その結果至る境地を示したもの。
一瞬アレッと思うのですが、「悟り」そのものについては、具体的には示していないようです。

最後の道諦(どうたい)で、滅諦に至る道を示します。
その内容が八正道である、という立て付けになっています。

八正道

 正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の八つをいいます。

先ず、正見(しょうけん)ですが、文字通り正しく見るですが、見る対象は前述の四諦の事で、ここで言う見るは、知るという意味に近いようです。
しかし、四諦の一つの滅諦に至る道が八正道だったはずです。
実は、他の七つの正道によって、正見に至るという関係になっているようで、正見に至ることが「悟る」ことだというように、私は解釈しています。

次の五つについては、大体以下のような意味になります。

正思惟(しょうしい):欲、憎しみ、怒りを避け、正しく考え判断する。
正語(しょうご):嘘、陰口、無駄話、粗暴な言葉を避け、正しい言葉遣いをする。
正業(しょうごう):殺生、盗み、性行為を避け、正しい行いをする。
正命(しょうみょう):道徳に反する職業や仕事は避け、正しい生活をする。
正精進(しょうしょうじん):不善を断じ、善を行い、正しい努力をする。

これらは、お釈迦様が「悟り」に至る修行をする前提として必要と考えた、生き方を示していると言っていいでしょう。

そうは言っても、一般人が日常生活で、これを行うのは、出来ないとは言いませんが、非常に困難でしょう。

それに対する、長年にわたる模索の結果が、現在の寺院を中心とする、出家のシステムではないでしょうか。
寺院と言う閉ざされた生活空間で、戒律を守ることに拠り、上記の五つの正道が行われるようなシステムが作られてきたという事だと思います。

残り二つは、次のようになります。

正念(しょうねん):正しく気づくこと。
正定(しょうじょう):正しく集中すること。

どうやら、これが「悟り」に至る実践という事のようです。

正念、正定と修行

 この二つと、前回の記事で考えた、修行の共通点との関係はどうでしょうか。

 

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先ず、正定の正しく集中するというのは、そのものズバリといってもいいでしょう。
何れの修行も、いかに集中するかに腐心しているように見えます。

問題は正念です。
正しく気づくとはどういう事でしょうか。
私の解釈では、どうやら、自然に湧き上がってくる考え(これを煩悩と言うようです)に気づくといった意味のようです。
であるならば、修行の中で、集中しようとする訳ですが、その中でも湧き上がってくる考えがあるはずで、それに気づくという事でしょうか。
この辺りは、私の中で、今のところ曖昧模糊としています。

若干、理解の至らないところはありますが、修行は、この二つの正道を実践するために作り上げられてきた方法論と言えるようです。

で、その先に「悟り」があり、正見に至り、四諦を正しく見るという流れになる訳です。


 が、色々調べてみると、どうも、正念、正定、すなわち単に修行を実践するだけでは「悟り」に至らないようなのです。
そのあたりを次回書きたいと思います。


ではでは