横から失礼します

時間だけはある退職者が、ボケ対策にブログをやっています。

「紅麹」問題考

「紅麹」問題で考えた話です。

 今回被害に遭われた方々の早期のご回復と、不幸にも亡くなられてしまわれた方々のご冥福をお祈り申し上げます。

 

 

今回の問題

 小林製薬の「紅麹」問題では、まだまだ全貌と原因が解明されていません。

事象的には、「紅麹」を主原料とするサプリメントを使用した人の一部に健康被害が発生したというものです。

そのため、一時は「紅麹」関連のものすべての安全性が懸念される事態になりました。

ところが「紅麹」に関しては、昔から様々な形態で食品に使用されており、少なくとも今回のような危険は無いことが確認されているといっていいでしょう。

そんな安全だと思われるものでも、サプリメントのような形にして、通常は食べないような量を毎日とり続けるのは、いいことばかりではないという事なのかもしれません。

プベルル酸

 ここまでのニュースを見ていると、現状問題となった製品から検出された「プベルル酸」というものが原因ではないかとみられているようです。

あまり聞いたことのない「プベルル酸」ですが、カビの一種が作り出すものだそうです。

そのため、そのカビが「紅麹」の製造工程のどこかで入り込んで、「プベルル酸」を作ってしまったのではないかと考えられています。

この辺りは、ぜひはっきりとさせていただきたいと思います。

これまでもあったはず

 ところで「紅麹」も菌の一種で、発酵させることで利用するものです。

その過程で、それ以外のカビなどが入り込むことは、十分考えられること。

特に、現在ほど管理された製造環境ではなかった時代には、完全に排除は出来なかったでしょう。

それでも、今回のような問題が生じることもなく、利用されてきたわけです。

サプリメントだから

 もし「プぺベル酸」が原因だとすれば、それが今回顕在化したのは、サプリメントだったからという事なのではないでしょうか。

これまでも「紅麹」を利用したものに「プペベル酸」が含まれていることがあったと考えられます。

ただこれまでは、それが健康に問題を生じさせるほどの、頻度と量で摂取されることは無かったのです。

サプリメントという、いわば濃縮した形で、長期間に渡って摂取したことが仇となってしまったという事ではないでしょうか。

そんなうまい話ならば

 自然由来で昔から利用されているからといって、サプリメントにして大量かつ長期的に摂取すればより効果的というのは、よく考えた方が良いのかもしれません。

色々と試行錯誤したうえでの昔からの利用法だから、安全なのかもしれないのです。

何かを食べるだけで健康になるのならば、既に日々の生活の中に取り入れられているはずなのですから。

とは言いながら、太らないとか、痩せるとか、くびれが出来るとか、脂肪が燃えるとか言われると、ついつい試したくなるんですよね。


 過ぎたるは及ばざるが如し、という事なのでしょうか。


ではでは

大掃除どうしてます?

大掃除をしていませんという話です。

 

 

年末恒例と言えば

 前回は、年末になると恒例となる「第九の合唱」からクラシックについて考えた話でした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

年末恒例のものとしては他にも色々とあるのですが、その中から今回は大掃除の話です。

この時期になるとTVや雑誌などで、これでもかというほど掃除に関する情報があふれるようになります。

ほとんど見ているだけで、大掃除をやったような気になりそうというか、やる前からうんざりしそうですが。

大掃除やっていません

 などと他人事の様に書きましたが、実のところ個人的には10年程前から大掃除をやっていません。

あの大掃除というものは、人数を掛けられる大家族や、核家族でも若いうちにやる分には問題がないのです。

道具を取りそろえて、日にちを決めて、一気にやり終えることが出来れば、それなりに達成感もありますし、正月も改まった気持ちで迎えられるというものです。

ところが、核家族で歳を取ってくると、これがだんだん重荷になってくるのです。

それでも、なんとなくこれまでやって来たから、ということもあって最後の方はだましだましやっていました。

ところが、ある年に体力も落ちてきている上に寒風吹きすさぶ中を窓全開でやったせいなのか、インフルエンザになってしまい、年末年始を寝て暮らすことになったのを機会に、翌年から止めてしまいました。

それでも汚れは無くならない

 さはさりながら、こちらの都合で掃除を止めたからといって、汚れなくなるわけでは無いので、どうにかしなければなりません。

色々試行錯誤した結果、現在のところ落ち着いているのが、分割して攻めるという方法です。

大掃除の時に纏めてやるのが大変なのですから、それを分割して日常の中で掃除していけば、個々の負担は小さくて済むだろうという考えです。

先ず大前提として元々日常の掃除は、一週間で一回りするようにします。

全体をざっくり7つの部分に分けて、毎日そのうちの一部分の掃除をしていくわけです。

そこに、普通の掃除機と拭き掃除で行うものに加えて、大掃除の対象となるような掃除を一つ加えることにするのです。

例えばキッチンであれば、蛇口周りのカランの水垢の汚れ取りといった具合です。

毎回完璧を目指さない

 この時に大事なのは、毎回完璧を目指さないということです。

上で例に挙げたカランの水垢の汚れ取りであれば、カルシュウムなどの汚れがこびりついて、なかなか綺麗にならないことがあります。

それを、頑張って一度に綺麗にする必要はないのです。

何週か掛けて綺麗になればいいのです。

七つに分けたそれぞれの部分は週に一回ですから、年に52回掃除ことになります。

加えて、一年で52か所の大掃除対象個所を掃除することになります。

その中で綺麗になればいいのです。

何回かやっていると、どれくらいが毎日の掃除の中で負担にならないか分かってきます。

一年で綺麗になればいいと思ってやるということです。

一度綺麗になると、次からは簡単になるということもありますので、だんだんと楽になっていくはずです。

年末の達成感は無くなりますが、その代わりやらなければいけないという切迫感もなく平和に過ごせますよ。


 一週間で回らないような大きな家に住んでいる場合は、対象外ですので悪しからず。


ではでは

酒は百薬の長

「酒は百薬の長」から考えた話です。

 

 

「酒は百薬の長」

 お酒に関しては、飲んでいると頭が痛くなるので量もそれ程飲めないですし、若い頃はともかく今では付き合いで飲む程度になってしまいました。

なので、「酒は百薬の長」という言い方に関しては、所謂飲兵衛の言い訳だろうぐらいに思っていました。

改めて調べてみると、この言葉の由来は中国の歴史書漢書』にあるようです。

その中に、「塩は食肴の将、酒は百薬の長、嘉会の好、鉄は田農の本」という形で出てくるようです。

ただしこの文言は、その時の皇帝が、塩、酒、鉄を専売にする時に、その理由として挙げられたもののようです。

これでは、本当に当時の社会で「百薬の長」だと思われていたのかは、断言できなさそうです、

最も、当時から専売にするほど酒も需要があったことは確かなようです。

取れるものからは、しっかりと取るというのは、今も昔も変わらないということです。

「よろずの病は酒よりこそ起れり」だが

 たまに、「酒は百薬の長」と言う飲兵衛に対して、「よろずの病は酒よりこそ起れり」といった意味の文言で返されることがあります。

上手いことを言うなと思っていましたが、これの原典は吉田兼好の『徒然草』の「百薬の長とはいへど、よろずの病は酒よりこそ起れり」というもののようです。

やはり、昔から飲兵衛の言い訳だと思っていた人が多かったのでしょう。

それでも、現代にいたるまで「酒は百薬の長」という文言が生き残っているということの背景には、飲兵衛が絶えていなくならないということのほかにも何か理由はないのでしょうか。

飲酒の効能

 飲酒量と死亡率との関係を調べた研究によると、「飲酒をする人」は長生きとするものもあるようです。

これはと思うのですがよく調べてみると、「全くお酒を飲まない人」や「大量に飲む人」に比べ、「適量の飲酒をする人」は長生きするということのようです。

結局、この「適量」というのがポイントになりそうです。

「適量」ならば体にはよさそうですが、過ぎれば悪影響があるということです。

現状では、悪影響の原因は摂取するアルコールの量にあると考えられており、それから逆算したお酒の「適量」というものが提唱されています。

「日本酒で1日1合から2合」、「ビールなら大びん1本から2本」とか言われています(飲兵衛には、つらい量なんでしょうね)。

アルコール以外の成分が

 アルコールは体に悪いのですが、その他の成分(例えば日本酒だと700種類と言われています。)が体にいいということでしょうか。

しかし「適量」のアルコールで済ますのは難しい。

この矛盾を克服できそうな方法に思い至りました。

酒粕」を食べるというのはどうでしょう。

酒粕」は日本酒を絞った残りです、すべての成分が絞り出されるとは考え難く、日本酒に入っている成分+αが含まれていると思われます。

アルコール濃度は低く、さらに料理で加熱することで飛んでしまいます。

これでアルコールの量を気にせずに、体にいい成分を取れそうなのですが。

まあ、そんな理屈をこねなくても、酒粕鍋はおいしいのですが。


 酒粕鍋をつついている時に思いついた話でした。


ではでは

芸術としての写楽

芸術としての写楽について考えた話です。

 

 

前回の話

 前回の記事では、写楽の謎について考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

その独特なインパクトの強い大首絵で有名な写楽ですが、10か月という短い活動期間と、その間に4期に分類されるほどの作風の変化という点から、謎の絵師としても有名です。

浮世絵の絵師と版元の関係と、現代の漫画家と編集者の関係の類似性から、写楽は現代の新人漫画家のような存在だったのではないかと考えました。

蔦谷重三郎という編集者(版元)に見いだされて、大首絵でデビューしたのですが、人気が出なかった。

その後様々なテコ入れ行われ、それがが2期から4期までの作風の変化となったのです。

それでも人気は上がらず、残念ながら10か月で打ち切られてしまったというのが、写楽の謎の正体だという話でした。

早かったのか

 その芽が出なかった写楽ですが、現代では高い評価をされています。

2009年には、パリのオークションで写楽の作品に5360万円の値段が付きました。

江戸時代に10か月で消えていった程評価されなかった写楽が、現代にこれほど評価されているのはどうしてなのでしょう。

生まれてくるのが早すぎ、今になって時代が追い付いてきたということなのでしょうか。

浮世絵のブーム

 評価という点では、その他の浮世絵も同じようなことが言えます。

明治時代になっても、浮世絵はポスターのような扱いであり、道端の露店などで「よりどり1銭」で売られていたようです。

最近の古本屋の店頭にある「100円均一」のワゴンセールのようなものでしょうか。

ところが19世紀初めごろから西洋に大量に輸出され、ヨーロッパでブームが起きたことが転機になり、価格が高騰し始めます。

ヨーロッパで、浮世絵が高額で取引されていたので、国内でも高騰したのです。

写楽もこの流れに乗ったといってもいいでしょう。

写楽が早かったわけではなさそうです。

芸術ではあるが

 ドイツの美術研究家ユリウス・クルトが『SHARAKU』(明治43年(1910年))の中で高く評価したことから、日本国内でも写楽の再評価が行われるようになったようです。

これは結局のところ、以前の記事で描いた、「説明の必要な芸術」と言えるかもしれません。

 

yokositu.hatenablog.com

 

また、浮世絵は版画ですから、現代でも素人目には違いが分からないような再現複製が作られています。

その値段は、数万円程度となっています。

パリのオークションでの5360万円という結果と合わせて考えると、写楽も「市場経済的芸術」であるということが出来るかもしれません。

 

yokositu.hatenablog.com

 


 大谷さんは1014億円ですか。彼も、そのすごさは芸術的ということで、「市場経済的」な何かなのでしょうね。


ではでは

 

「前哨」から

小説「前哨」から考えた話です。

 

 

2001年宇宙の旅

 SF作家のアーサー・C・クラークの小説に「前哨」という短編があります。

映画「2001年宇宙の旅」の基になった作品になります。

宇宙の旅では、あの有名な「モノリス」が月で発見されたことが、ことの発端となります。

掘り出されて太陽光を浴びることにより、「モノリス」から信号が木星方向に向けて発信されます。

モノリス」は、人類が地球の重力の井戸の底から抜け出て、月に到達出来るまでになったことを知らせるセンターだったのです。

「前哨」

 それに対して、小説「前哨」では、月に着陸した宇宙飛行士が、小型のピラミッド状の物体を月面上で発見することで、宇宙の彼方へ信号が発せられるという話になっています。

「ピラミッド」型の物体がセンサーというわけです。

この「前哨」が書かれたのは1948年であり、あのケネディ大統領が、月に人間を送り込むと宣言する13年も前でした。

その先見の明は、さすがにSF作家の面目躍如といったところでしょうか。

文明のレベル

 さてこれらの作品の根底に流れているのは、人類の文明は進化を続けるものであり、生まれ育った地球の重力のくびきから解き放たれる時が、次なる文明のレベルへの一歩だという考えです。

それをチェックするためのセンサーが、月に置かれているというわけです。

なるほどと思う点もないわけではないですが、現実には1969年に月の人類が降り立って以降半世紀以上経っていますが、いまだそれに対する宇宙からの挨拶はないようです。

最も、我々が知らされている限りにおいては、宇宙飛行士が月で何らかの人工物のようなものを見つけたという話もないのですが。

もう一つのトリガー

 ところで、文明のレベルについては、以前い記事を書きました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

人類の文明レベルは、太陽との関係で考えることが出来るのではないかというものです。

先ず太陽からの影響、すなわち気候変動に影響される段階が長くありました。

次に、過去の太陽エネルギーともいえる石炭・石油を用いて、季節変動か受ける影響を小さく出来るようになった段階になります。

現在は、太陽光、風力などの利用により太陽エネルギーを積極的に利用する段階の入り口にあると考えます。

そして、太陽を作りだすともいえる核融合を実用化する時が、次なる段階に上がる時なのではないかという話でした。

私的には、この核融合が実用化された時に何らかの動きがあるのではないと思っているのですが。


まあ、空を飛び回っているらしいものが、挨拶なのかもしれないですが。


ではでは

ダイヤモンドの輝き

ダイヤモンドについて考えた話です。

 

 

ダイヤモンドの輝き

 ダイヤモンドというと、すぐに思いつくのは高価だということでしょうか。

希少性によるところももちろんあるのでしょうが、宝飾品としての価値もあるということになっています。

特に、特徴的なブリリアントカットの形状から生まれる輝きに言及されることが多いように思います。

 

引用元:ブリリアントカット - Wikipedia

リリアントカットと言うそうで、ダイヤモンドの輝きを最大限に活かす形状だそうです。

この輝きが、他にはない素晴らしいものなのだそうです。

イミテーションダイヤモンド

 一方で、イミテーションダイヤと呼ばれているものがあります。

キュービックジルコニア、モアッサナイトなどがあり、外見はダイヤモンドによく似ています。 

引用元:コラム記事|【ajour】ジュエリーリフォーム専門店

少なくとも私には、区別がつきません。

勿論、違う物質なので、比重や屈折率などの物性は異なっており、それを利用した判別用の機器が作られています。

ということは、そういったもので区別しなければいけないほど、
見た目はそっくりだということです。

普通に宝飾品として身に着けている時には、どちらか区別することは、難しいのです。

ちなみに、価格的には、天然ダイヤモンドの100分の1程度のようです。

人工ダイヤモンド

 さらに、最近では人工ダイヤモンドというものも出てきました。

これは、ダイヤモンドを科学的な方法で作ったもので、物理的には天然ダイヤモンドと全く同一のものです。

つまり、区別出来るかどうか以前の問題なのです。

同じ形状にすれば、同じように輝くはずです。

ちなみに、こちらの価格は、天然ダイヤモンドの10分の1程度だそうです。

結局ダイヤの価値は

 イミテーションや人工のダイヤモンドの例を見ると分かるように、ダイヤモンドの価値に、その輝きなどの外観は関係ないことが分かります。

天然であろうと、イミテーションであろうと、人工であろうと、どれを身に着けていても、一見すると区別はつかないのです。

あと残るのは、希少で高価なものを身に着けていると思って見る世間の眼と、それを意識する本人の気持ちでしょうか。

結局ダイヤモンドの価値も、市場経済的なもののひとつなのです。

 

yokositu.hatenablog.com

 

 そういえば、「婚約指輪は給料三か月分のダイヤモンド」も、「スイートテンダイヤモンド」も、いずれもダイヤモンドを売るために考え出されたものですから、やはり市場経済的ですよね。


ではでは

ベーシックインカムと売上税

ベーシックインカムと売上税について考えた話です。

 

 

基本的な生活を

 本ブログでは、基本的な生活が保障されることにより、現代の問題の多くは解決できるのではないかと考えています。

 

yokositu.hatenablog.com

 

農耕文明のはずの現代で、生きていくための基本的なものも含めて、すべてが貨幣経済に組み込まれて、生きにくさにつながっているのではないかと思うのです。

そこで、基本的な生活を心配しなくても良いようにすれば、本当にやりたいことに向き合うことの出来る人生になるのではないかというわけです。

こういった話で出てくる話に、ベーシックインカムというものがあります。

どれだけ必要か

 身も蓋もない言い方をすると、国民全員に毎月一定額のお金を支給することで、基本的な生活を保障しようというのがベーシックインカムです。

例えば一人当たり10万円を毎月支給するとします。

人口を一億人とすると、毎月必要な額は、10万×一億で10兆円になります。

一年では、120兆円が必要になります。

そんな太っ腹なことが出来るのかを、これもちょっと前の記事で出て来た売上税で考えてみたいと思います。

売上税で考えると

 売上税の考え方は、とにかく売り上げが発生したら、それに対して一定の税率で税金を掛けることにするというものでした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

その時に給与に関しても、労働力という商品の売上と考えることにします。

令和2年の企業等の売上高は1693 兆円と給与の総額219兆2,054億円を合計した、1912兆2054億円が課税の対象となります。

同年の税金徴収額104兆9755億円を計算上約5.5%の税率で賄える、という話でした。

この考え方で行くと、120兆円は約6.3%ということになります。

計算上は出来そうだ

 単純に足すと、約11.8%ということになります。

ただし、ベーシックインカムで毎月10万円を支給するわけですから、生活保護、年金などの社会保障の一部は、これで代替できることになります。

その分は税金として徴収する必要はなくなりますので、実際にはもう少し税率は低く、10%以下なると思われます。

これは、意外といけそうな気がするのですが。


 年金を貰う歳になって、それほど生活に心配がなくなっても、何もしないでいるというのは意外と出来ないことが分かりました。
ベーシックインカムのせいで労働意欲が低下する心配は、意外とないような気がします。


ではでは

AI、AIと言っても

前回に続いて、AIについて考えた話です。

 

 

AIと言うから

 前回は、所謂「生成AI」についての話でした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

最近の「生成AI」に対する、個人的には意外な、安全性への懸念と規制に関する世界的な動きの理由についてでした。

一つには、その内部がブラックボックスで分からないことからくる不安感。

もう一つは、AIすなわち人工知能という名称から来る、人間に歯向かうのではないかとう、印象の悪さ。

こういったことが、その背景にあるのではないかというものでした。

AIと言うのは

 そもそも、現時点で「AI」と呼ばれているものは、「人工知能」と呼んでいいのか疑問なものなのです。

その基本的な部分だけを説明すると、ある入力から、目的とする「答え」を出力するだけのものなのです。

ただ、「答え」を出力する手順が最初から決まっていないという点が、普通のプログラムとは違います。

入力に対して計算を行い、その結果を求めたい「答え」と比べます。

その差に基づいて、計算に使うパラメーターを変化させます。

その上で、そのほかの入力に対して同じことを繰り返します。

この時、計算とパラメーターの数を増やすことにより、様々な入力と答えに対応することが出来るようになるのです。

それが、コンピューターの機能向上によって、最近になり現実的な性能を持つようになってきたわけです。

AIと言っても

 ということなので、出来上がった「AI」の内部にあるパラメーターの意味については、作成者にとってもブラックボックスということになります。

しかし、だからと言って不安になることはありません。

なぜなら、上の説明からも明らかなように、最初から「AI」の出力する最終的な「答え」は決まっているのです。

例えば「生成AI」においては、文章、絵、音楽といったものですし、将棋AIでは、相手の王を詰ますために次に動かす指し手です。

最初から「答え」が必要である以上、人間に敵対するといった話以前の段階のものでしかあり得ません。

答えを考えるのが人間

 ここまで見てきたように、現状の「AI」には、何は無くても先ず最初に「答え」が必要なのです。

それを考えることが出来るのは今のところ、我々人間だけです。

「答え」も考えることが出来るようになった時こそが、本当の意味で「人工知能」と言えるのでしょう。

それまでは、我々人間は「答え」の部分を考え、入力から「答え」までの部分は所謂「AI」に任せて、楽をすればいいのです。


 とは言っても、悪用する人間はどこにでもいるものですが、それは「AI」に限らない話でしょう。


ではでは

 

AI,AIと言うから

AIについて考えた話です。

 

 

chatGP絡み

 AIに関しては、以前に「chatGPT」絡みで記事を書きました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

ご存じのようにchatGPTは、利用者の質問に対する回答を自動的に生成するものです。

その生成される回答が、いかにも機械が作り出した印象のものではなく、人間が作ったものと変わらないか、場合によってはそれよりもこなれたものだというのが最大の特徴です。

そのためか、偽情報の生成が容易になるとか、インターネット上の文章を使っていることから著作権との絡みはどうなるのかとかいった点が問題として議論の的となっています。

こういった点に対する私の考えは、偽情報にしろ、著作権の絡みにしろいずれもこれまでもあった話の類型であり、そのうちあるべきところに収まるだろうというものでした。

増えこそすれ

 今でもその考えには変わりはありませんが、世の中の反応はなかなかそうはいかないようです。

収まるどころか、どんどん大きな話になっていくようです。

対象も「chatGPT」だけではなく、それに類したAI(おおむね「生成AI」と呼ばれています)全てを対象にしたものになっています。

そのレベルも今では、国レベルではとどまらずに国際的な問題となってきています。

先月には、バイデン米大統領が、AIの安全性とセキュリティに関する新たな基準の確立を目指す大統領令に署名するということがありました。

また今月にはいっては、英政府開催で人工知能(AI)安全サミットが行われ、AIの安全性確保に向け国際的な取り組み強化の必要性を盛り込んだ「ブレッチリー宣言」が発表されました。

とにかく安全を

 例えば「ブレッチリー宣言」を見てみると、その概要は、

「AIは人類の福祉や繁栄を向上させる可能性を持ちつつ、安全かつ人間中心で信頼性のある方法で利用されるべきである。日常生活の多くの領域での利用が増加しており、人権の保護や透明性、公正性などの問題が重要である。特に高度な「フロンティア」のAIモデルには特定のリスクが伴い、これらのリスクは国際的な性質を持っているため、国際的な協力が必要とされる。」
引用元:英国主催の世界AI安全サミットで「ブレッチリー宣言」 日本と中国も参加 - ITmedia NEWS

といった感じになります。

ところでこのが概要ですが、実は「ChatGPT Plus」で作成されたものだったりします。

それはともかく、よく読むとごく常識的なのことを言っているにすぎないような気もします。
別にAIが対象でなくても言えるような内容ですよね。

分からないので

 どうしてここまでの騒ぎになっているのでしょう。

一つには、AIがブラックボックスだということが挙げられると思います。

勿論どうやって作ったのかはわかるのですが、その結果出来上がったものは、作った本人にも分からないのがAIです。

そのことが権力のある人たちには不気味なのでしょう。

だから、安全の名のもとにコントロールしたいのではないでしょうか。

作った本人にも分からないもののコントロールを出来るとは、思いませんが。

AI,AIと言うから

 もう一つは、AI(人工知能)などと呼んでいることに問題があるのではないでしょうか。

どうしても「人工知能」などと大上段に振りかぶられると、身構えたりしそうです。

少なくない人が、「人工知能」が人間を支配した、または支配しようとする物語を連想してしまうのです。

やはり、「ターミネーター」の影響は大きいのです。

なので例えば今話題の「生成AI」も、文章に関してならば「文章作成機能付きワープロ」とでも呼んでおけば、誰も気にしなかったかもしれません。

せいぜい、「便利なワープロが出来た」ぐらいで済んでいたかもしれないのです。

一度「AI」と称するのを止めてみてはどうでしょう。


 結局「人工知能」と呼ぶにはまだまだだと言うことです。


ではでは

現代は生きにくい

現代は生きにくいという点について考えた話です。

 

 

農耕文明

 紀元前何千年かの時点で、世界のどこかで農耕が始まって以来、現代にいたるまで我々は農耕文明の中で生きています。

どんなに都市が発達し、グローバリゼーションが進み、IT化が深化し、AIが賢くなっても、農業生産が止まれば現代社会は崩壊します。

もともと狩猟採集で生活していたご先祖様達が、環境変化などにより生活が難しくなり、生きていくために生み出したのが農耕だと考えられます。

その結果生き残ってきた人たちの子孫が我々です。

動物も生きている

 人間以外の動物で考えてみましょう。

人間が農耕を始めてから今日に至るまで、動物も当然のように、生き残ってきました。

本能や、親のやり方を学習して、当たり前のように生きていきます。

その時々の環境に適応して来たといえるでしょう。

当たり前のようですが、考えてみるとすごいことです。

動物以下なのでは

 動物は進化することにより、環境に適応することで生き残ってきました。

それに対して、我々人間は知恵によって、環境に働きかけることで生き残ってきたと言えるでしょう。

農耕を生み出したところまでは、それによって生き残ってきたのですから、上手くいったといって良いでしょう。

それにしては現代の我々が、単に生きることが難しいと思うことが少なからず有るのはなぜなのでしょう。

基本的な生活をするのに苦労しなければいけない状況にある人が、少なからずいるのはなぜでしょう。

農耕文明なのですから、基本的には食べていくことが出来なければおかしいのです。

これでは、ただ単に生きるという基本的な点において、下手をしたら動物以下だと言えないでしょうか。

せっかく知恵があるのだから

 この生きることが難しいと考える背景について考えると、現代の多くの仕事が、直接生きていくということに直結していないことによるのではないかと思うのです。

現代は貨幣経済の社会であり、すべての仕事は、貨幣というものを通じて、生きてくために必要なものと結びついています。 

これがすべての原因といってもいいかもしれません。

どんな仕事をするにしても、常にその背後には、仕事をするだけでは生活出来なくなるかもしれないという恐れがあるのです。

そのために手段であるはずの貨幣が、目的となりがちということが起きます。

生きることとそれ以外を分離する方法を真剣に考えるべきでしょう。


 以前書いた内容の焼き直しのような記事になってしまいました。その上、相変わらず、分離する方法については暗中模索という。


ではでは

売上税だけということは

売上税のみの税制について考えた話です。

 

 

前回の話

 前回の記事は、税金は売上税だけで良いんじゃないかという話でした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

国税地方税を合わせた歳入額を、総売上額+給与合計に対する約5.5%の税額とすることで賄うことが出来そうだというものでした。

何をもって売上とするかという問題はどこまでも付き纏うと思われますが、一応売上税一本で済むということになります。

原点に返る

 これよく考えると原点に返っただけとも言えるのです。

本ブログでは、狩猟採集生活から農耕生活に移行したことで、権力が生まれたと考えています。

農耕による生産物を力により独占することで、権力が発生したのです。

その時、権力側に残った生産物が、現在の税に相当すると考えることも出来るわけです。

最初は、まだ貨幣経済がないので、売上げということはなかったわけですが、生産者が手に入れたもの一部が、結果的に権力者に渡ったと考えれば、売上税と同じだといっても良いでしょう。

シンプル

 その後の、階級制度の発達や、職業の分化、貨幣経済の発達などの中で、権力が税収を確保するために税制も複雑化していったわけですが、そのベースには生産物がありました。

そして、現代も農耕文明であることに変わりはなく、生産物がすべての基本であることには変わりはないはずです。

したがって、現在の複雑怪奇な(なにせ、そのために税理士などという専門とする人が必要となるほどですから。)税制を、売上税による一本化でリセットすることは可能なはずです。

芸術的な節税対策で利益を減らしている人や、新たな増税の対象を日夜考えている人、先ほどの税理士などの人たちを除いて、ほとんどの人にとってシンプルで分かり易くていいのではないでしょうか。

減税するにしても、増税するにしても、対象は一つだけですから、議論も分かり易くなるはずです。

どうやって税金を取られるかではなく、何に使うのかに議論を集中することが出来ます。

その上で、必要な税率を決めればいいのです。

今よりも入りから出までの見通しが、より明瞭になるのではないでしょうか。


 複雑さから生まれる非効率を仕事にしている人たちが少なくないので、シンプルにするのは難しいかもしれないですが。


ではでは

売上税

売上税について考えた話です。

 

 

消費税か売上税か

 日々買い物をする時に消費税を払っているわけですが、今調べてみると、1989年4月に3%で導入されてから34年ほどが経っていることになるようです。

いまだに外税は慣れなくて、払う段になって思っているよりも金額が高くて、財布の中身を考えてドキッとすることがよくあります。

だいたい、消費税という名称からして、生きていくために消費をするのに、まずその権利を買わなければいけないような気がするのは私だけでしょうか。

そもそも、中曽根政権の時に「売上税」というものを導入しようとしたことがあります。

これが、今の「消費税」と同じものなのかはよくわかりませんが、名称としては「売上税」のほうが良かったんじゃないかと思うのです。

売上げがあるということは、お金が入ってくるということで、それに対して税金を払うというのは、消費に対して税金を払うというのよりわかりやすいですよね。

名称を変えるだけではない

 というようなことを考えていたのですが、この売り上げに対して払うという考え方で税金をまとめると、現在の専門家以外には曖昧模糊とした税金体系が、もっとすっきり出来る気がしてきたので、そのあたりの可能性を税収額で考えてみたいと思います。

先ず、税収がどの程度あるか見てみましょう。

令和2年度の税金の徴収額は、国税64兆2241億円、地方税40兆7514億円の合計104兆9755億円だそうです。

それに対して、我が国の企業等の令和2年の売上高は 1693 兆円になります。

さらに、給与を労働力という商品の売上と考えると(サービス業では、サービスに対する対価を売上とするわけですから、それほど非常識な考え方ではないでしょう)、令和2年中に民間の事業所が支払った給与の総額は219兆2,054億円。

これらを合計すると、1912兆2054億円です。

この売上高で、104兆9755億円の税金額とするための税率は、約5.5%弱となります。

計算上は

 それほど単純な話ではないでしょうが、計算上は上のようなことになります。

これで、地方税も含めてすべての税収を一応賄えることになるはずです。

つまり、所得税、住民税、固定資産税等々多くの税金を無くすことができるのです。

ちなみに、どれだけ稼いでも5.5%です。

とにかく何かを売上げたらそれに対する税金を払う、これだけです。

急に売上に税金を掛けることができるのかということですが、消費税とそれほど変わらないのではないかと思うのですが。


 私的には結構いいんじゃないかと思うのですが、どこかに大きな穴があるような気もしています。


ではでは

龍とドラゴンの飛び方以外も

龍とドラゴンの飛び方以外についても考えた話です。

 

 

前回の話と訂正

 前回は、龍とドラゴンの飛び方の違いから考えた話でした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

東洋の龍は飛ぶための器官が無くても飛行するのに対して、西洋のドラゴンは飛ぶための羽根を持っています。

この違いは、現代のヒーローたちにも引き継がれ、飛ぶための具体的なものを必要とする西洋、神通力のような具体的な形の無いものの存在を認める東洋という事が言えるのではないかという話でした。

その話の中で、東洋の例として「ドラゴンボール」に出て来る「舞空術」を挙げたのですが、それを生み出したのが「亀仙人」だと書いてしまいました。

勿論、「鶴仙人」の間違いです。

速攻で訂正しました。

どうも、「ドラゴンボール」というと、反射的に「亀仙人」となってしまいがちです。

飛び方以外にも

 ところで、この龍とドラゴンの、具体的なものを必要とするかしないかの違いは、飛び方だけではなく、それ以外にもあるようです。

再び、アメコミヒーローで見てみてみましょう。

アイアンマンは、そのものズバリ、全身を覆うアーマーを自ら作り出しました。

ハルクが超人に変身するようになったのは、自ら行った実験中の事故が原因です。

キャプテン・アメリカは、戦時中の超人血清の実験によって生まれました。

スパイダーマンは、放射能を帯びたクモに噛まれて、超人的な能力を持ちました。

といった具合に、それぞれの能力に対する何らかの具体的な理由付けがされています。

それに対して

 それに対して、東洋ではどうでしょう。

こちらは、具体的な理由付けではなく、精神的な説明がされることが多い様に思います。

特に「修行」というのが良く出て来ます。

ドラゴンボール」はその典型で、主人公の悟空始め、登場人物の多くが様々な「修行」を行う事で強くなっていきます。

多くのアニメヒーローがこのタイプに当てはまります。

中には、ウルトラセブンに指導され修行するウルトラマンレオというヒーローもいました。

背景はどこに

 こういった違いはどこからくるのでしょうか。

まず、上の話から西洋においては、人知を超えるものについても何らかの説明(それが荒唐無稽で有っても)が求められるいる事が分かります。

これに関しては、宗教的な背景が有るのではないかというのが、私の仮説です。

キリストの起こした奇跡の中に、「水の上を歩いた」というものが在ります。

つまり、こういった人知を超えるものというのは、基本的には神が持っているものなのです。

それをなんの理由もなく使う事が出来るというのは、一神教では有り得ないという事になります。

そのために、とにかく理由付けが必要という事ではないでしょうか。

それに対して東洋においては、仏教や道教のように、基本的に修行によって何らかの力のようなものを得るということがあります。

それがどのようなものかは、「悟り」や「神通力」のように、多くの場合具体的には説明されません。

とにかく悟空は修行によって、かめはめ波が撃てるようになるのです。

 
 欧米で、神様の沢山出て来る「ドラゴンボール」が人気なのは良いのかと思うのですが、どうなんでしょう。


ではでは

龍とドラゴンの飛び方から

龍とドラゴンの飛び方から考えた話です。

 

 

同じ飛ぶのでも

 過去の記事でも少し触れましたが、同じキリンから作り出されたと考えられ、同じように空を飛ぶことが出来る東洋の龍と西洋のドラゴンですが、その姿形に違いがあります。

西洋のドラゴンには、分かり易く羽根があります。

 

引用元:ドラゴン - Wikipedia

ところが、東洋の龍にはそういったものは有りません。

引用元:竜 - Wikipedia

その為の器官がなにも無くても、とにかく龍は飛ぶことが出来るのです。

逆に言うと、西洋ではドラゴンが空を飛ぶためには、羽根が必要だったという事になります。

その他の例でも

 この空を飛ぶという事に対する西洋と東洋でのスタンスの違いは、その他にも古よりみられるのです。

例えば、イカロスは人工の羽根により飛べるようになりました。

魔法使いも、飛ぶときには箒に跨ります。

西洋では、あくまでも何か具体的に無いといけないのです。

それに対して東洋では、例えば仙人も空を飛ぶことが出来るとされました。

仙人が空を飛べるのは、修行によって獲得した神通力によるものとされ、羽根のようなものや、何かの道具を使って飛ぶわけではありません。

飛ぶための具体的なものを必要とする西洋、神通力のような具体的な形の無いものの存在を認める東洋、のような感じでしょうか。

現代の西洋でも

 このような違いは現代でも見られます。

超人の集まるアベンジャーズではどうでしょう。

アイアンマンは、自ら科学技術によって作り出した「アーマー」によって、空を飛ぶ能力を手に入れます。

マイティ・ソーも空を飛ぶことが出来ますが、それは手に持つハンマーのような武器「ムジョルニア」の能力だとされています。

ファルコンは、「ジェットパワーの人工翼」で飛行しているという設定です。

やはり、飛ぶためには何らかの具体的なものを必要とするようです。

現代の東洋では

 これに対して、例えば『ドラゴンボール』では、悟空は最初「筋斗雲」を使って飛んでいますが、最終的にはほとんどのキャラクターが「舞空術」により飛べるようになります。

舞空術」は、術と有るように、具体的な道具を使ったものでは無く、修行により飛べるようになるといったものです。

仙人と同じような能力だなと思っていたのですが、どうやら鶴仙人が生み出したとされているようで、まさに仙人の術だったようです。

その他にも、最近日本でも多く見られるようになった中国ドラマでも、仙術使いや魔族といった者達が比較的気軽に(といったら失礼かもしれませんが)飛び回っています。

どうも、東洋では身一つで飛ぶことに、大きな違和感が無いようです。

スーパーマンのマント

 空を飛ぶと言えば、忘れていけないのがスーパーマンでしょう。

これまでの話を基にすると、スーパーマンはあの有名な赤いマントで飛んでいるという事になります。

ところが実際にはそんな設定は無いようです。

中世以降の権威や力の象徴としてのマントの影響で、「怪傑ゾロ」のようにヒーローがマントをするようになり、スーパーマンもマントを着けて登場することになったということのようです。

という事なのですが、私的には、その恰好を見た西洋の人々が、マントを付けている事でスーパーマンの飛ぶという能力に納得したのでは無いかと思っているのですが。

スーパーマンは、あの恰好だから空を飛ぶことを許されているのです。


 そういえば、アンパンマンもマントが無いと飛べないのでした。


ではでは

老いと乱雑さ

老いと乱雑さについて考えた話です。

 

 

老いに寄り添う

 世間的には、老人と呼ばれても可笑しくない年齢になって来た事も有って、「老後」とか「老人の生き方」とかいった方面の話を来たり読んだりするようになりました。

その多くのものの内容は、どうしてもどう暮らしていくか、もっと端的に言うと「お金」の話だったりします。

まあ、そちらはいまさら美味しい話があるはずは無いので(あるのならば、人に教えずに自分でやってますよね)、どうでもいいのですが。

そんな中で、「どう老いと折り合いをつけていくか」といった括り方が出来る一群のものもあります。

その内容は、大まかに言って、「老いを受け入れていきましょう」といった感じに纏められるでしょうか。

「日毎に出来ない事が増えていく現実に向き合って、順応していくことが大切」みたいな話です。

生物とは

 突然ですが、生物と非生物の違いは何でしょうか。

生きているのが生物で、生きていないのが非生物と言いたいところですが、これでは答えになっていません。

「生きている」と「生きていない」の違いは何かと言い換えただけです。

この問いは古くて新しいもので、様々な回答だとするものが提案されています。

その中の一つに、エントロピーを使ったものが有ります。

エントロピーは、日本語に訳すと「乱雑さ」となります。

現在の理論によると、「エントロピー増大の法則」というものが有り、「この世界のあらゆる現象は、自発的にエントロピーが大きくなる方向に進む」ということになっています。

つまり、ほかっておくと「乱雑さ」が増えていく、もっと簡単に言うと、どんなものでもほかっておくとバラバラになって行くという事です。

この「エントロピー増大の法則」に逆らっているのが生物だというのです。

生物は、生きている限りその形態を保ち、バラバラになる事は有りません。

常に「乱雑さ」を減少させる働きを「生きている」と呼ぶことにするのです。

生き方にも

 以上の生物の定義は、構成する分子のような物質的なレベルでの話なのですが、これを生き方のレベルにも拡張するのはどうでしょう。

何かが出来なかった状態から何かが出来る状態になるのは、多少強引ですが、「乱雑さ」が減少したと言えるでしょう。

「日毎に出来ない事が増えていく」のは、「乱雑さ」が増大するという事ですから、「生きている」働きの逆です。

全て無くなると「生物」で無くなる、「死ぬ」という事になるのかもしれません。

であるならば、「日毎に出来ないことが増えていく」事に対抗して「日毎に出来る事を増やしていく」ようにすることが、「生物」としての有り方のような気がするのですが。

唯々諾々と、「日毎に出来ない事が増えていく現実に向き合って、順応していく」のはつまらなそうですよね。


 なんだか無理矢理纏めた話になりましたが、要は何とか老いに抗いたいのです。


ではでは