横から失礼します

時間だけはある退職者が、ボケ対策にブログをやっています。

マヤ文明と太陽活動

マヤ文明と太陽活動について考えた話です。

 

 

南北アメリカ大陸の文明

 マヤ文明という事ですが、実のところ南北アメリカ大陸の文明に関しては、よく知らないというのが偽らざるところです。

南北アメリカ大陸の文明と聞いて思い浮かぶのは、マチュピチュ、巨大なピラミッド、インカ帝国といった程度でした。

調べてみると、マチュピチュインカ帝国ですが、ピラミッドで有名なテオティワカンは、そのままテオティワカン文明だったりします。

という事で、先ずは各文明の時間・地理的な関係を見て見ます。

 

引用元:[2. アジア・アメリカの古代文明] 13.南北アメリカ文明 | 世界の歴史まっぷ

私的に意外だったのは、インカ帝国が南米に位置する以外は、残り全てが中米周辺に集まっている事です。

南北アメリカ大陸の文明のゆりかごは中米地域だったという事でしょうか。

その中で一際目立つのが、日本の縄文時代にあたる時期から長く続いたマヤ文明です。

という訳で、今回はマヤ文明と太陽活動について考えます。

マヤ文明の歴史

 マヤ文明に関しては、数々の遺跡の発掘と、マヤ文字の解読(完全ではないようですが)により比較的解明が進んでいるようです。

紀元前2000年頃から土器が使われるようになったようです。

紀元前4世紀までに徐々に都市が形成されていきました。

その後、都市の大規模化が進んだようです。

AD100年から250年は大変動期で、大都市が放棄されたり、多くの都市が衰退したりしました。

250年から550年にかけては、それ以前の大変動期を生き残った都市が覇権を争います。

550年から830年には、さらに多くの都市国家が発展し攻防を繰り返します。

その後、中部地域の都市が衰退していったようです。

950年以降には、北部のチチェン・イッツァを中心として栄えます。

その統治は、1524年にスペインの支配下にはいるまで続きました。

太陽活動で見ると

 以上を、太陽活動に照らし合わせてみます。

 

引用元:太陽予想? | でんきやかん - 楽天ブログ

先ず、紀元前4世紀以降の都市の大規模化は、ギリシャ極小期からローマ極大期への回復の中で起ったと考えられそうです。

そのローマ極大期からの活動の低下の中で、100年から250年の大変動期には言った事になります。

その後のショルダー部分から中世極小期への変化の中で、大変動期潜り抜けた都市が覇権を競います。

続く中世極小期からの回復の中で、多くの都市が発展します。

その後の中部地域の都市の衰退については、回復中のショルダー部が関係しているとも考えられますが、詳細は分かりません。
この辺りは、研究でも様々な原因が提唱されているようです。
もう少し調べてみる必要がありそうです。

ショルダーから中世極大期への回復の中で、北部のチチェン・イッツァを中心として栄える事になります。

その後1524年にスペインの支配下にはいる訳ですが。
単に軍事力の差が有っただけではなく、中世極大期からシュペラー極小期への活動の低下の中での衰退の影響が有ったと思われます。

その状況下で、スペイン人がやって来たというのが不幸だったという事でしょうか。


私的には、南北アメリカ大陸の文明の全体像が確認出来た回でした。


ではでは

火炎型土器とは何だったのか

火炎型土器について考えた話です

 

 

今回は火焔型土器

 以前の記事で、縄文時代について書きました。

 

yokositu.hatenablog.com

その時には、主に土偶とは何だったのかという事から、縄文時代について考えました。

縄文時代を代表するもう一方の雄と言っても良い「火焔型土器」については、その解釈が上手く纏まらず、上記の記事でも申し訳程度に触れるのみでした。

ここにきて、これはと思う説を思いついたので、今回は火焔型土器についてです。

火焔型土器

 土偶と並んで非常に有名な火焔型土器ですが、改めてどんなものか確認します。

火焔型土器は、今から約5000年程前の縄文時代中期の主に信濃川流域の遺跡から発見されました。

その後、500年程の間作られた事が分かっているようです。

その特徴は、名称にも有るように炎の形を写し取ったとも思える、他に類を見ない独特得の形状に有ります。

 

引用元:火焔型土器とは? – 日本遺産 火焔型土器

天才芸術家の作か

 火焔型土器の形状は、上の画像を見ても分かるように、炎と言えば言えないことも無いのですが、それだけでは納得できないものが有るのも明らかでしょう。

だからといって、その形が何なのかと言われても、いわく言い難いというのが正直なところです。

芸術的なセンスのない私としては、なんだか分からないので逆に芸術的なものでないかと考えてきました。

だから、私には理解できないのだと。

約5000年前に天才的な芸術家肌の人物が居て、その手によって生み出されたのではないかと思っていました。

それがその後500年に渡って信濃川流域で作り続けられたのではなかったかと。

その為、現代の岡本太郎の芸術心にも響いたという訳です。

煮炊きにも使っていた

 しかし、この考え方にも疑問が無かったわけでは無いのです。

火焔式土器は、研究によると、その内側の付着物などから煮炊きに使われたと考えられています。

単なる芸術作品ではなく、日用品だったのです。

その割には、一見して分かるように、とても煮炊きに便利とは言えない形です。

という事は、単に造形的に素晴らしいからと言うだけではなく、不便を押してでも煮炊きに使う理由がなければなりません。

それはなんでしょう。

土偶から考える

 ところで、上にも挙げた以前の記事で土偶を、何らかの祭祀を執り行っていた人物を形作る事で、その力を常に身近に置いておこうとしたものでは無いかと考えました。

この見方を火焔型土器にも適応するとどうなるでしょう。

執り行う人物ではなく、使用される器状の物に力が宿るといった形の祭祀が有ったと考えたらどうでしょう。

その力を常に身近に置こうとして土器で形作ったのが、火焔型土器という訳です。

土器のより先に祭祀が有ったとすれば、その器は周りの自然から得られる材料で作られた可能性は高いでしょう。

植物性の材料も使われたでしょう。

そう考えると、火焔型土器の形状も有る程度頷けるものだと思うのです。

ひも状の部分は、ツタのようなもので筒状に形作ったものとも考えられそうです。
炎状の形態は、植物の枝葉などとも考えられそうです。

更に、祭祀において、その器を使って加熱するような行為が重要な意味をもっていたとすれば、それを形づくった火焔型土器で煮炊きするというのも頷ける事になります。

そういった祭祀を基にしたものが、信濃川流域で500年に渡って継承されたという事では無いでしょうか。


 普通、あの形の土器で煮炊きしたいとは思いませんよね。


ではでは

モンゴル帝国と太陽活動

モンゴル帝国と太陽活動について考えた話です。

 

 

今回はモンゴル帝国

 前回は古代ローマと太陽活動についての話でした

 

yokositu.hatenablog.com

 

古代ローマと言えば、どうしてもローマ帝国という事になりますが、その帝国繋がりという事で、今回はモンゴル帝国について考えて見たいと思います。

モンゴル帝国

 モンゴル帝国は、ご存知のようにあのチンギスハーンが興した帝国という事になります。

諸部族に分かれて割拠していたモンゴル高原を統一したのが、1209年でした。

そのモンゴル高原ですが、モンゴル帝国以前にも統一されていた時期が有ったようです。

回鶻可汗国(かいけつかがんこく)という名前で、744年 から 840年まで存続していました。

その滅亡後は、チンギスハーンが統一をするまで諸部族が割拠する状態が続いたようです。

モンゴル帝国は、チンギスハーン亡き後も後継者たちにより領土の拡大を続け、ユーラシア大陸を横断する帝国を作り上げました。
 

引用元:モンゴル帝国 - Wikipedia

その後、さしもの大帝国も14世紀には衰退期を迎え、1368年に明王朝により中国から撤退を余儀なくされ、1635年の北元滅亡により終焉を迎える事になりました。

遊牧と太陽活動

 いつものように太陽活動の図に照らし合わせてみるのですが、今回はその前に少し、遊牧との関係を考えて見ます。

これまでは主に、太陽活動の変化による気候変動が、農耕を基盤とする社会に影響を与えるという前提で考えてきました。

ところが、モンゴル高原の諸部族は基本的に遊牧生活が社会基盤でした。

太陽活動と遊牧の関係はどうでしょうか。

一般的に遊牧では、羊などの草食動物が利用されます。
草食動物が餌とする草の生育は、当然気候変動の栄光を受けるはずですので、遊牧生活も気候変動、ひいては太陽活動の変化に影響を受けると言っていいでしょう。

特に太陽活動の回復期の気候の安定は、遊牧による生産性の安定化と向上を生じ、軍事行動を起こす余裕をもたらしたと考えられそうです。

太陽活動で見ると

以上の事を前提として、太陽活動との関係を見て見ます。

引用元:太陽予想? | でんきやかん - 楽天ブログ

回鶻可汗国による744年 から 840年までの統一は、中世極小期からの回復期に生じたと考えられます。

その滅亡に関しては、中世極大期への回復途中のショルダー状の部分に当てはまりそうですが、ショルダー部分の変化に関する情報が不足で何とも言えないところです。

チンギスハーンによるモンゴル帝国の建国は、中世極大期に至る中で起こったと言えるでしょう。

その後の太陽活動の低下の中で国力が低下していき、シュペラー極小期に向かう中で中国からの撤退を余儀なくされます。

そして、次のマウンダー極小期への低下の中で、終焉を迎える事になったと考えられそうです。


 それにしても、馬でユーラシア大陸を縦横無尽に移動したというのは、軟弱な現代人としては実感が全く湧かないんですよね。


ではでは

古代ローマと太陽活動

古代ローマと太陽活動について考えた話です。

 

 

ギリシャの次はローマ

前回の記事では、古代ギリシャと太陽活動の関係を考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

その中でも書いたように、その頂点ともいえるアレクサンダー大王の後を継ぐかのように地中海世界を中心に席巻したのは古代ローマでした。

古代ローマというとどうしても、カリギュラや、カラカラとか、悪名高いネロとかの皇帝の治める「ローマ帝国」という事になりがちです。

そんな古代ローマですが、最初から帝国だった訳ではありません。

例えば、あの有名なシーザーも、帝国時代の皇帝ではなく、共和制時代の政務官だったりします。

そのあたりも含めて古代ローマの歴史を簡単に見てみます。

古代ローマ

 さて古代ローマですが、最初は都市国家から始まり、領土を拡張しながら大帝国にまでなった訳ですが、その体制は王政、共和制、帝政と移り変わりました。

初期の王政は、紀元前753年から紀元前509年まで、伝説の七人の王によって治められたとされている。
オオカミに育てられた双子、ロムルスとレムスの兄ロムルスが最初の王とさています。

その王政が打倒された紀元前509年から、帝政に移行する紀元前27年までが共和制の古代ローマになります。

この時期に古代ローマは、カルタゴアレキサンダー大王後のマケドニアなどを打ち破り、巨大国家へと成長します。

共和制は、元老院政務官・民会で構成されていたと考えられているようです。
民会は基本的には市民全体で構成されており、その民会が政務官を選出します。
政務官の経験者で構成されるのが元老院です。
こういった関係の下、これら三者の力関係で運営されていたという事になります。

シーザーは上にも書いたとおりに、この共和制下末期の政務官でした。

紀元前27年にオクタウィアヌス元老院から全権を与えられ最初の皇帝となりました。
その後(西ローマ帝国の)帝政は紀元476年まで続くことになります。

太陽活動で見ると

 以上を、いつものように太陽活動の図に照らし合わせてみます。

引用元:太陽予想? | でんきやかん - 楽天ブログ

先ず建国からの王政は、ホーマー極小期からの回復期だったと考えられそうです。

次のギリシャ極小期への活動の低下の中で、共和制への移行が有ったことになります。
活動低下に伴う変動により王政に対する不満が増大した結果という事でしょうか。

その共和制の下、ローマ極大期に向かって巨大国家への道を歩むことになります。

そのローマ極大期からの低下に合わせるように、帝政に移行したように見えます。
低下による変化に対応するために、皇帝に権力を集中することになったと考える事も出来そうです。
勿論、当事者たちはそんなことは考えていなかったでしょうが。

その帝政も、中世極小期までは持たなかったという事になります。


 今回の話から考えると、ローマ極大期という名称はそのものズバリと言えそうです。

ではでは

古代ギリシャと太陽活動

古代ギリシャと太陽活動について考えた話です。

 

 

古代ギリシャ

 太陽活動と歴史の関係を考える話の今回は古代ギリシャです。

ギリシャ石器時代から人間が住んでいたのは、数多くの遺跡の存在からも明らかですが、今回は比較的その年代がよく分かっている青銅器時代以降を考えて見たいと思います。

先ず、ギリシアでの青銅器時代は紀元前3200年から3000年頃に始まったと考えられている様です。

キクラデス文明、ミノア文明と先駆的なものが続いた後に、紀元前1650年頃からミケーネ文明がとって替わります。

ギリシャを席巻したミケーネ文明ですが、紀元前1200年頃に突然終焉をむかえます。

この時の状況は、「前1200年のカタストロフ」と名付けられるほどのもので、東地中海全般に渡る大規模な社会的変動だったようです。

その影響はギリシャにおいても大きかったようで、この後紀元前700年頃まで文字資料や考古学的資料も少なく、「暗黒時代」と呼ばれているようです。

「暗黒時代」を経てポリスの時代となり、紀元前5世紀頃にアテネなどを中心にピークを迎える事になります。

その後、ポリス間の争いや北方のマケドニアの勃興などにより混乱します。

そんな中、紀元前336年にマケドニアの王位に就いたのが、あのアレキサンダー大王でした。

ギリシャを統一するだけではなく、10年程で大帝国を築き上げてしまいます。

その死後、時代はローマの時代へと打つて行くことになります。

太陽活動で見ると

 以上を、いつものように太陽活動の図に照らし合わせてみます。

引用元:太陽予想? | でんきやかん - 楽天ブログ

先ず、青銅器文明は紀元前3000年頃の極小期からシュメール極大期への回復の中で始まったと考えられそうです。

その後の複数の極大期を経る中で、キクラデス文明、ミノア文明が繁栄したと考えられますが、詳細は分かりません。

その後のミケーネ文明は、ストーンヘンジ極大期に向かう中で発展したという事になりそうです。

その後にくるエジプト極小期で、「前1200年のカタストロフ」が発生してミケーネ文明が崩壊します。

このストーンヘンジ極大期からエジプト極小期への太陽活動の大幅な低下が、東地中海地域には大きな影響を生じさせたという事になります。
その後の回復期程度では、直ぐに復興出来ないほどの影響だった訳で、それが「暗黒時代」という形で残ったのでしょう。

その中で発生したポリスが、ホーマー極小期からの回復の中で繁栄していきます。

しかし、ギリシャ極小期への太陽活動の低下の中で混乱し、その中から出て来たのがアレキサンダー大王だったという事になりそうです。
普通は、ここでギリシャが統一されますという事になるのですが、そのまま大帝国を作り上げてしまったアレキサンダー大王は、やはり規格外の人物だったと言う事でしょうか。


 それにしてもアレキサンダー大王が大帝国を作り上げたのは、ほぼ20歳から30歳までの10年なんですよね。
もはや単なる規格外ではなく人外ですよね。


ではでは

 

 

寝殿造りと太陽活動

寝殿造りと太陽活動について考えた話です。

 

 

寝殿造

 TVでチャンネルを変えたら寝殿造りの話をやっていて、何とはなしに見ていたら、これも太陽活動と関係が有るのではないかと思いついたので、今回は寝殿造りの話です。

その寝殿造りですが、基本的には平安時代から中世にかけての、貴族などの邸宅に見られた建築様式という事になります。

因みに寝殿造りの寝殿は、中心となる建物の名称から来ているようです。

 

引用元:寝殿造とは - コトバンク

 

従来は、上図のような建物の配置が典型的な寝殿造りで有ると考えられていたようですが、現在では統一的に考える事は出来ず、様々な平面構造が有ったと考えられているようです。

壁が無かった

 特筆すべき特徴としては、内部が柱のみで壁が無かったという事です。

これを、御簾、几帳、屏風や衝立などで区切って生活していたようです。

まさに、源氏絵巻に見られる情景そのものです。

源氏絵巻の情景は、てっきり表現上のものだと思っていたのですが、そうではなかった訳です。

さすがに、夜は外周を扉や蔀などの建具で覆ったようですが、ほとんど板張りと変わらなかったと思われます。

まあ一言で言えば、非常に風通しの良い造りだったという事でしょうか。

逆に、冬は寒そうですけど。

その後、現在の襖や障子に近いものが多く用いられるようになり、間仕切りが固定化したり、建物そのものの構造も変化していきます。

こういった変化をしながら中世まで続き、最終的に書院造りに繋がっていくことになります。

太陽活動との関係

 これをいつもの図で、太陽活動の面から考えます。

 

引用元:太陽予想? | でんきやかん - 楽天ブログ

 

平安時代は794年 - 1192年ですから、図で見ると中世極小期から中世極大期への回復期にちょうど当てはまる事になります。

この活動の回復による温和な気候が、寝殿造りに見られる風通しが良いというより、冬は大変そうな構造を造り出したのではないでしょうか。

現在考える程には冬にもそれほど寒く無かったのでしょう。

それが、鎌倉時代以降はシュペラー極小期に向かって活動が低下し、気候が悪くなっていくことになります。

それに対応するために、様々な建具や建築方法が生み出されていったというのは言い過ぎでしょうか。

勿論、それだけで全てが説明出来るわけでは無いと思いますが。

ただ、建築の様式は、その建てられる地域の気候が大きく影響するのは確かなので、それほど見当違いでは無いと思うのですが。


寝殿造りは、究極の「夏をもって旨とすべし」だったのかもしれません。


ではでは

北野大茶の湯はなぜ一日で終わったのか

北野大茶の湯が一日で終わってしまった理由について考えた話です

 

 

北野大茶の湯

 北野大茶の湯は、豊臣秀吉が旧暦の天正15年10月1日に京都北野天満宮境内において催した茶会になります。

参加者数約1000人という大規模なものだったようです。

秀吉は、例の有名な「黄金の茶室」を持ち込みました。

この茶会については、当初10日間に渡って行われるとされていたにも関わらず、最初の一日だけで終わってしまったという謎が有ります。

その理由については、「その日の夕方に肥後国人一揆が発生したという知らせが入って秀吉が不快を覚えたから」というのがこれまでの通説となっているようです。

今回は、この北野大茶の湯が一日で終わってしまった事が、千利休切腹した事と関わっているのではないかという話になります。

茶の湯はマウント目的

 北野大茶の湯は、秀吉が思い立って次の日に行ったというようなものでは無く、前もって約二ヶ月前の7月28日に京都・五条などに以下のような触書を出して告知するほど力の入ったものでした。

それを最初の一日で止めてしまったのには、なにか理由が有るはずです。

  • 北野の森において10月1日より10日間、大規模な茶会を開き、秀吉が自らの名物(茶道具)を数寄執心の者に公開すること。
  • 茶湯執心の者は若党、町人、百姓を問わず、釜1つ、釣瓶1つ、呑物1つ、茶道具が無い物は替わりになる物でもいいので持参して参加すること。
  • 座敷は北野の森の松原に畳2畳分を設置し、服装・履物・席次などは一切問わないものとする。
  • 日本は言うまでもなく、数寄心がけのある者は唐国からでも参加すること。
    遠国からの者に配慮して10日まで開催することにしたこと。
  • こうした配慮にも関わらず参加しない者は、今後茶湯を行ってはならない。
    茶湯の心得がある者に対しては場所・出自を問わずに秀吉が目の前で茶を立てること。引用元:北野大茶湯 - Wikipedia

この中で注目したいのは

  • 秀吉が自らの名物(茶道具)を数寄執心の者に公開すること
  • 茶湯執心の者は若党、町人、百姓を問わず、釜1つ、釣瓶1つ、呑物1つ、茶道具が無い物は替わりになる物でもいいので持参して参加すること

ことの2点です。

これに「黄金の茶室」も持ち込んだことを合わせて考えれば、秀吉がマウントする気満々だったことが分かります。

天下人として、圧倒的な差を見せつけようとした訳です。

丿貫の風流な茶席

 さて当日の話として、午前中に茶を点てた秀吉が、午後は会場を視察して過ごし、その際に丿貫の風流な茶席に目がとまり所望したというものがあります。

丿貫(へちかん)は茶人の名前です。
「丿貫は、侘びすきにて、しいて茶法にもかかはらず、器軸をも持たず、一向自適を趣とす」と言われ、高額な茶道具によるマウント茶道とは全く異なる方向性の茶人だったようです。

その丿貫の茶席を目に留めたわけです。
そして、「秀吉も大いに驚き喜び、以後丿貫は諸役免除の特権を賜った」ようです。

特権を与えたぐらいですから、秀吉も面白いと思ったのは確かでしょう。

しかしそれと同時に、このまま茶会を続けても自分が一人勝ち出来ないことを悟ったのです。
しかも、それは自分にはすぐに乗り越えられない種類の茶道だった訳です。

その結果が、たった一日での中止だったのです。

そしてこの時の感覚が、以前記事に書いた千利休切腹に繋がったのでは無いでしょうか。

 

yokositu.hatenablog.com

 

 センスは、お金や権力が有っても手に入れられないですからね。


ではでは

ストーンヘンジと太陽活動

ストーンヘンジと太陽活動について考えた話です。

 

 

気になる名称

 前回まで、四大文明と太陽活動の関係について考えて来ました。

メソポタミア文明と太陽活動

エジプト文明と太陽活動1

エジプト文明と太陽活動2

インダス文明と太陽活動

黄河文明と太陽活動

その全てで次に図を参照しました。
 

参照元太陽予想? | でんきやかん - 楽天ブログ

そこに示されている極大期、極小期との関係を考えて来たわけです。

その名称は、シュペラー、マウンダー等の人名から来ているものは別にして、概ね歴史的な有名どころが基になって居ると言っていいでしょう。

その中で、私的にストーンヘンジ極大期というのが浮いている居るような気がしていました。

何しろ、世界的に有名だとはいえ、イギリスの地方に有る一つの遺跡に過ぎないといったら言い過ぎでしょうか。
それを中心にして文明が発達したという事は、これまでの研究でもなさそうですし。

ひょっとしたら、名称を決めるのにイギリス人の研究者が関係していたのかとも思って調べたのですが、これといった情報は出て来ませんでした。

ともあれ、今回はストーンヘンジの関係と太陽活動の関係を考えて見ます。

ストーンヘンジ

 ストーンヘンジは、よく知られているように、イギリスに有る環状列石の遺跡です。

 

引用元:ストーンヘンジ - Wikipedia

ロンドンの西200キロほどの所に有ります。

それぞれの立ち石が、高さ約4m、幅約2m、重さ約25~30トンという巨石の遺跡となっています。

現在までの研究を基に復元図も作られています。


引用元:山田英春 (@lithosgraphics): "ストーンヘンジの石組みの周囲にはオーブリー抗、Z抗、Y抗と呼ばれる円形に配置された穴の跡があり、何のために使われたものか議論されてきたが、オーブリー抗は人骨を埋葬したものだったことがほぼ証明され、これが石組みに先立つものだったこともわかった。"|nitter

これを見ると、住居等ではなく、何らかの宗教的なものに見えます。

これまでの研究によると、何もない所にいきなり完成形が建設されたわけでは無く、約2000年程に渡って何度も様々な形で作られたようです。

先ず紀元前3000年頃に、木造で何らかの構造物が作られたようです。
更に、火葬遺体が発掘された状況から、一部墓地としても使われていたと考えられるようです。

紀元前2600年頃になると、木に代わって石が使われ始めたようです。

そして、紀元前2000年頃までに、巨石を使った建造物が作られ、現在見られるような形になったと考えられています。
炭素年代測定法により紀元前2440年から2100年の間とする研究も有るようです。

その後、石の並べ方などの変更等を伴いながら使われていたようですが、紀元前1600年頃に放棄されてしまった様です。

太陽活動との関係

 以上を太陽活動との関係で考えてみます。

先ず紀元前3000年頃に木造の構造物が造られたのですが、これはシュメール極大期へ向かう回復期の中で、宗教的なものが形成されていったのではないかと考えます。

何らかの儀式のようなものが行われ、回復期の中でたまたま良い結果が得られたと言った事が有ったのではないでしょうか。

紀元前2600年頃に石造りが始まったという事ですが、これはシュメール極大期までの間は、気候が回復していったわけですから、そのまま木造で問題なかった事を表していると考えます。

その後のシュメール極大期からの低下の局面で、当然それまでの宗教形式のままでは、天候不順に対応出来なくなったと考えられます。
それに対応するためなのか、新たなものが生まれたのかは分かりませんが、石を使い始めたのだと思います。

その石造りが、次のピラミッド極大期を迎える中で、現在見られる巨石を使ったもの(ある意味完成形に)まで発展したのだと考えます。

その後の極小期、ストーンヘンジ極大期、エジプト極小期へ向かう途中のショルダー部即ち紀元前1600年頃までは、石の並べ方のような修正を伴いながら存続したのだと思います。

しかしながら、その後のもう一段のエジプト極小期への低下の中で宗教としての信用が失墜し、その結果放棄されたのでは無いでしょうか。


 という訳で、ストーンヘンジ極大期というのはどうなのかなと思うのですが。


ではでは

黄河文明と太陽活動

黄河文明と太陽活動について考えた話です

 

 

看板に偽り

 いわゆる四大文明と太陽活動の関係について考えて来ましたが、最後の黄河文明となりました。

その黄河文明ですが、私が学生の頃には、当然のように四大文明の一つとして勉強したのですが、最近はチョット違うようです。

考古学的な研究が進み、黄河流域以外にも遺跡が多く発見され、黄河文明では看板に偽り有りというような状況になっているようです。

特に、黄河と並ぶ大河である長江流域にも、黄河流域に勝るとも劣らない文明が形成されていたことが分かったて来ているようです。

 

引用元:日本書紀の解明・・邪馬台国と大和王権:SSブログ

という事で、最近はまとめる形で中国文明とか中華文明と呼ばれているようですね。
基本とも言える文明の名称まで変わってしまうとは。

中国文明

 という訳で中国文明ですが、勿論新石器時代から黄河、長江流域を中心として多くの地域で人の営みが確認されています。

残念ながら、まだ文字は無くその盛衰は明確ではありません。

が、黄河、長江両流域共に紀元前2000年頃に、多くの遺跡で衰退が見られるようになります。

その中で、上に挙げた図にも名前が見られる「二里頭」が衰退することなく発展した事が分かっています。
紀元前2100年頃から紀元前1800年頃まで存続したと考えられています。

その年代などから、『史記』に記述が有る「夏王朝」と見られているようです。
 
その後を、紀元前17世紀頃から「殷」が継ぐ事になります。

更にその「殷」を紀元前1047年に「牧野の戦い」で打ち破った「周」が、その後を継ぐ事になる訳です。

太陽活動との関係

 以上を太陽活動との関係で考えてみます。

 

引用元:太陽予想? | でんきやかん - 楽天ブログ

紀元前2000年頃の黄河、長江流域の遺跡に衰退の傾向が見られたというのは、ピラミッド極大期からの極小期に向けての活動の低下の影響が有ったと考えられそうです。

その混乱を「二里頭」が乗り越えたという事になります。
その「二里頭」に対応すると考えられている「夏王朝」の始祖とされる「禹」について、その治水の功績について強調されているのが、面白いところです。

そして、その後のストーンヘンジ極大期への回復期に、繁栄したという事になります。

その要因として、遺跡から「粟、黍、小麦、大豆、水稲」の5種類の穀物の存在が発見されており、この多様性が気候変動を乗り越えるのに一役買ったのではないかと考えられているようです。

更に、上の中国文明の図で分かるように、「二里頭」の位置が、黄河、長江流域のほぼ中央部に有る事も注目されているようです。
周りから5穀の栽培技術が入って来るという、地理的に有利な点が有ったとのでは無いかという訳です。

次の「殷王朝」は、ストーンヘンジ極大期からの活動低下の局面で、「夏王朝」から覇権を簒奪したことになります。

上述では一行で済ませた「殷王朝」ですが、30代約600年に渡って続いています。

その中で、第22代の「武丁」の時中興がなされ、「高宗」と呼ばれています。
その在位は、前1274年- 前1215年と考えられています。

中興という訳ですから、それまでは衰退していっていたという事になります。
これはエジプト極小期に向かっての低下によるものと考えられそうです。

「武丁」はその極小期からの回復期で中興を果たしたと言えそうです。

史記』によると、その後の「殷王朝」では暗愚な暴君が滅亡まで続いた、という事になっています。

その後の回復期で、被支配地が力を蓄える事が出来たのも、「周王朝」による簒奪の一因かもしれません。


 残念ながら、中国をもってしても「夏王朝」以前は、さすがに文字がないようなんですよね。


ではでは

インダス文明と太陽活動

インダス文明と太陽活動について考えた話です

 

 

インダス文明

 メソポタミア、エジプトと来て、今回はインダス文明です。

そのインダス文明ですが、その名の通りインダス川流域に栄えた文明です。

ハラッパとかモヘンジョダロの遺跡が有名です。

引用元:日本書紀の解明・・邪馬台国と大和王権:SSブログ

 

新石器時代から人が住んでいた遺跡も発見されているようですが、狭義のインダス文明は紀元前2600年頃から紀元前1800年頃(始まり、終わり共に諸説有り)を言うようです。

ここからは、メソポタミア文明エジプト文明のように王朝の盛衰について書きたいところですが、実のところよく分かっていないようなのです。

その原因としては、その言語であるインダス文字(文字では無いという説も有るようです)がこれまでのところ解読されていないことが大きいという事のようです。

その為、その歴史の詳細についてはほとんど分かっていないのです。

例えば、有名なハラッパモヘンジョダロにしても、2つの別の国だったのか、大きな国の2大都市だったのかも分かっていないといった具合です。

確かなのは、ハラッパモヘンジョダロを代表とする都市文明が発達していたが、紀元前1800年頃以降に急速に衰退してしまったという事のようです。

太陽活動との関係

 実質的に始まりと終わりしか分からないのですが、太陽活動との関係を見てみます。

いつものように例の図です。

 

引用元:太陽予想? | でんきやかん - 楽天ブログ

 

先ず始まりですが、紀元前2600年頃といことですので、シュメール極大期への回復期の中で最初の都市文明が形成されたと考えられそうです。

その後の、ピラミッド極大期、ストーンヘンジ極大期と、その間の2回の極小期については、その間のインダス文明の歴史が分からないので、その影響も不明という事になります。

紀元前1800年頃から急速に衰退したのは、太陽活動の面から見ると、ストーンヘンジ極大期からエジプト極小期に向かっての、活動の低下による気候変動によるものと言えそうです。

それ以前の二つの極小期は乗り越える事が出来たが、エジプト極小期に向かっての変化は大きすぎたという事でしょうか。

滅亡の理由

 ところで、他の文明のように単なる混乱期になるのではなく、滅亡してしまったのが気になるところです。

これには、インダス川流域の潜在的な生産能力が関係していそうです。

というのも、インダス文明の代表的な遺跡であるハラッパ、モヘンジョロダロという規模は、どうもそれほど大きくは無いようなのです。

隣のメソポタミア文明の各都市と比べると、その中規模程度の都市に相当する大きさの様です。

つまり、この地域の潜在的な生産能力は、他の文明が発生した地域に比べて低かったのでは無いかと考えられるのです。

その為、エジプト極小期への大きな変化によって、不安定化するだけではなく、社会そのものが崩壊してしまったという事なのでは無いでしょうか。


 太陽活動の変化から見たインダス文明の滅亡理由という話でした。


ではでは

エジプト文明と太陽活動2

エジプト文明と太陽活動について考えた話2です。

 

 

前回の記事

 前回の記事では、古代エジプト古王国時代とそれに続く第一中間期と太陽活動の関係について考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

それらの時代と、シュメール極大期とピラミッド極大期に関わる太陽活動の変化とが、関係していそうだという話でした。

今回は、それに続く時代について、いつもの図で考えて見ます。

引用元:太陽予想? | でんきやかん - 楽天ブログ

中王国時代から新王国時代まで

 第1中間期で分裂していたエジプトを、第11王朝が紀元前2040年頃に再統一をします。
その次の第12王朝と合わせて「中王国時代」と呼んでいます。

中でも第12王朝は、紀元前1991年頃から紀元前1782年頃に終焉を迎えるまで、200年以上に渡って比較的平和な時代が続いたようです。

その後の第13王朝以降再びエジプトは分裂し、第2中間期とよばれる混乱期間を迎えます。
紀元前1782年頃から紀元前1540年頃まで続きました。

紀元前1540年頃に第18王朝がエジプトを統一することに成功します。
それ以降を新王国時代と呼んでいます。

この時代の特徴は対外的に軍事力による積極策を取ったという事です。
「帝国時代」とも呼ばれているようです。

因みに、あのツタンカーメンとその父親も第18王朝のファラオです。

新王国時代は、その後第19、20王朝と紀元前1070頃まで続きます。

この新王国時代古代エジプトは、空前の版図と繁栄の時代を迎える事になりました。
 

引用元:山川&二宮ICTライブラリ


太陽活動との関係

 以上を太陽活動から考えて見ます。

先ず中王国時代は、ストーンヘンジ極大期への太陽活動の回復期を通じて、平和な時代が続いたのだと考えられそうです。

それに続くストーンヘンジ極大期の頂点からの急激な太陽活動の低下の影響による混乱でエジプトは分裂し、第2中間期を迎えます。

その後、図ではショルダー状の部分として見えている、一時的に低下の緩んだ時期に第18王朝により再統一されます。

そこから太陽活動は、エジプト極小期に向かって低下を始めるのですが、これが「帝国時代」とも呼ばれる、軍事的な対外積極策の原因なのではないでしょうか。

これまで見てきたように太陽活動の低下は、それを原因とする気候変動による農耕への影響から、社会の不安定化と多くの場合分裂による群雄割拠を招きました。

しかし中王国時代の始め場合、再びエジプト極小期に向かって低下を始めた時点では、第18王朝がエジプトの統一を果たして間もなく、まだまだ国力が有ったと考えられます。

そんな中、太陽活動の低下による影響が出始めても、直ぐに混乱状態になる事は無かったでしょう。
それでも、気候不順による社会不安は高まったはずです。

このような場合に、歴史上で支配者側が良く取るのが、外に敵を作る事です。
その結果が、後年「帝国時代」と呼ばれる積極的な対外軍事政策だったと思われます。

このエジプト極小期への活動低下の中で、ツタンカーメンとその父の話が起こりました。

リンク:ツタンカーメンの父と太陽活動

第19、20王朝は、エジプト極小期からの紀元前1000年頃までの太陽活動回復期に当るという事になります。

この中で、エジプトの版図の拡大と繁栄がなされたわけです。


 2回に渡って古代エジプトと太陽活動の関係について考えましたが、思ってた以上に良い線行っているように思うのですが。


ではでは

エジプト文明と太陽活動1

エジプト文明と太陽活動について考えた話1です。

 

 

メソポタミアの次はエジプト

 前回のメソポタミア文明に続いて、エジプト文明と太陽活動について考えてみます。

 

yokositu.hatenablog.com

 

先ずは例の図から。
 

引用元:太陽予想? | でんきやかん - 楽天ブログ

因みに、エジプトについては、ツタンカーメンと太陽活動についての記事を書いています。

 

yokositu.hatenablog.com

 

ストーンヘンジ極大期からエジプト極小期への活動低下に伴う気候変動が、関係しているのではないかという話でした。


エジプト文明

 エジプト文明は、よく知られているようにナイル川流域に花開きました。

その歴史は、一般的に「古王国」、「中王国」、「新王国」の各時代と、その間の「中間期」に分類されます。

 

引用元:山川&二宮ICTライブラリ

以下、それぞれの時代と太陽活動の関係を考えて見たいと思います。

古王国時代と第1中間期

 先ずは古王国時代ですが、実は古王国と呼ばれているのは、考古学的に判明している3つ目の王朝からになります。

当然その前に2つの王朝が有ったという事になります。

最初の王朝(第1王朝)は、紀元前3150年頃にエジプトを統一して建てられたと考えられているようです。

その次の第2王朝も含めて、情報が少なく不明な点が多い事も有り、古王国には含めず「初期王朝」と呼んでいるようです。

続いて、紀元前2686年頃に成立した第3王朝から、紀元前2181年に終わりを迎えた第6王朝までを古王国と呼んでいます。

第3王朝(前2686年-前2613年)
第4王朝(前2613年-前2498年)
第5王朝(前2498年-前2345年)
第6王朝(前2345年-前2181年)

古王国時代の特徴は、何と言ってもピラミッドでしょう。

第3王朝に作られた「階段ピラミッド」から始まり、第4王朝においてあの有名な「三大ピラミッド」で頂点を極める事になります。

ただその後もピラミッドは作られますが、日干し煉瓦を使うなど往年の勢いは無くなっていったようです。

第6王朝が紀元前2181年に終焉を迎えると、その後は第7から第10までの短命な王朝が続く混迷の時代が続きました。

この時代を「第1中間期」と呼んでいます。
年代としては、紀元前2180年頃 - 紀元前2040年の期間になります。

太陽活動で考えると

 以上を太陽活動の点から見てみます。

先ず、紀元前3000年頃の太陽活動の低い時期に社会的な混乱が発生し、それを勝ち抜く事で初期王朝が形成されたと考えられそうです。

その後のシュメール極大期へ向かう回復過程の社会的な安定の下で、第3、4王朝の巨大な石造りピラミッドの時代が到来したのです。

三大ピラミッドを作った第4王朝ですが、その存在期間紀元前2613年~紀元前2498年は、太陽活動から見るとシュメール極大期から次の極小期への活動の低下時期を含んでいる事が分かります。

つまり、第4王朝の末期に向かって気候変動が発生し、国力が低下していった可能性が高いと考えられそうです。

「三大ピラミッド」の内で、メンカウラーにより作られた3つ目のピラミッドが、他の2つのピラミッドよりも小ぶりなのは、この辺りが影響しているのかもしれません。

第4王朝から第5王朝にかけての極小期への低下の過程で国力が落ちる事により、もはや石造りの巨大なピラミッドを作ることが出来なくなっていったのでしょう。

こう考えると、ピラミッド極大期というのは、完全に間違っているとは言えないまでも、ビミョーな名称かもしれません。

次に、第一中間期の期間を太陽活動の面から見ると、ピラミッド極大期からの太陽活動の低下局面に当たることが分かります。
その影響により社会的な混乱が発生したためと考えられそうです。


 思いがけず長くなってしまいました。残りは、次回に続きます。


ではでは

メソポタミア文明と太陽活動

メソポタミア文明と太陽活動の関係について考えた話です。

 

 

太陽活動と歴史

 帰ってきた「太陽活動と歴史」です。

今回から、四大文明と太陽活動について考えて見たいと思います。

先ず、その最初としてメソポタミア文明です。

過去の記事については、まとめてありますのでよろしくお願いします。

 

yokositu.hatenablog.com

という訳でいつもの図です。

引用元:太陽予想? | でんきやかん - 楽天ブログ

バビロニア

 メソポタミア文明ですが、現在のイラクの一部で発見されました。

チグリス川とユーフラテス川(どちらがどちらというのが定番の試験問題でした。北がチグリス川、南がユーフラテス川ですね。)流域の平野部に発祥したものです。
因みに、この辺りを歴史的に「バビロニア」と呼んでいます。

引用元:メソポタミア | 世界の歴史まっぷ

シュメール極大期

 メソポタミア文明という時には、紀元前3500年頃から始まる、バビロニア南部におけるシュメール人の都市の誕生を、その最初期と考えるようです。

よく聞くウル、ウルクといった名前の都市もこのころに出来ます。

その後紀元前3100年頃までに、バビロニア全域に都市が作られます。

そして紀元前2900年頃になると、これら都市間の抗争が激しくなったようです。

最終的に、ルガルザゲシという王が勝ち残り、シュメール最初の統一王朝を樹立します。

以上の事を、上の太陽活動の図で考えて見ましょう。

図の左端が紀元前3000年ですから、その前後は太陽活動が低下した時期に当たることが分かります。

低下による気候変動の中で、都市間の抗争が激しくなったと考えられそうです。

その後の極大期「シュメール極大期」に向けての気候の回復期の中で、ルガルザゲシがシュメールを統一したという事になります。

そういう意味では、「シュメール極大期」というのはぴったりの名称を付けたという事になるでしょうか。

ピラミッド極大期

 その後歴史的には、バビロニア北部発祥のアッカドの王サルゴンがシュメール王朝を打倒し、バビロニアを統一したアッカド帝国を打ち建てます。
紀元前2350年頃の事です。
この帝国は、その後150年程続きました。

帝国の衰退後には、100年程群雄割拠の時代となったようです。

その後、紀元前2100年頃バビロニア南部には、シュメール人による最後の統一王朝ウル第三王朝が建国されます。
第三王朝は100年程続きますが、紀元前2004年に滅亡します。

以上の出来事も太陽活動の図に照らし合わせてみます。

「シュメール極大期」からの活動低下による混乱期から「ピラミッド極大期」に向かう回復期の中で、シュメール王朝からアッカド帝国へ覇権が移ったと言えそうです。

その後「ピラミッド極大期」の中で150年程続きますが、そこから活動低下が始まり、100年程の混乱期を迎えたと考えられます。

その中で、ウル第三王朝が建国されますが、太陽活動のさらなる低下が続き、100年程で滅亡することになったという事になります。

ストーンヘンジ極大期

ウル第三王朝の滅亡後は、やはり群雄割拠の時代になりました。

最終的に、あの「ハムラビ法典」で有名なハムラビ王率いるバビロン第一王朝によって統一される事になります。
紀元前1759年の事です。

このバビロン第一王朝も、紀元前1595年頃にヒッタイトによって滅ぼされることになります。

同様に活動図で考えて見ます。

紀元前2000年前後の極小期から「ストーンヘンジ極大期」への回復期の中で、バビロン第一王朝が統一を果たしたと言えそうです。

その後の「エジプト極小期」へ向かっての活動量の低下の中で、バビロン第一王朝は衰退し、最終的にヒッタイトによって滅ぼされてしまったという事になりそうです。


 以上、メソポタミア文明における王朝の盛衰を、太陽活動の変化から考えて見ました。
それ程、荒唐無稽でもないと思うのですが。


ではでは

秀吉と利休

秀吉と利休について考えた話です。

 

 

戦国大名茶の湯

 前回の記事では、戦国大名が「茶の湯」を好んだ理由にについて考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

よく言われるのは、精神的な癒しの為というものですが、それも有ったかもしれませんが、「唐物」「名物」等の茶道具によってマウントを取ることが出来る点が、好まれた理由だと考えました。

この事が、朝廷を中心とする勢力に比べると、成り上がりものに過ぎない戦国大名にとっては都合の良いものだったという訳です。

頂点を極めた秀吉

前回の記事でも触れましたが、こういった形の「茶の湯」の頂点を極めたのが豊臣秀吉だったと言えるでしょう。

参加者一千人以上という空前の規模だった、北野天満宮で開いた大茶会。

宮中で後にも先にもただ一度行われた、秀吉が正親町天皇にお茶を差し上げる禁裏茶会。

そして、とどめとも言えるのが、あの有名な「黄金の茶室」です。

全ての茶道具は言うに及ばず、茶室そのものも金ずくめの中で、時の天下人が茶を点てるのですから、誰も抗えるわけが有りません。

正に秀吉の一人勝ちマウント状態です。

対極の利休

 それに対して、千利休はどうでしょう。

ご存知のように、千利休については、現代の「茶道」に繋がる「わび茶」の完成者として良く知られています。

勿論、その内容について話せるほどの知識を持ち合わせているわけではありませんが、その特徴の一つは、所謂「唐物」「名物」の否定と、利休道具に代表される質素とも言える価値観にあると言って良いでしょう(もっとも、利休の手になるものが、結局「名物」になってしまう訳ですが)。

これは、明らかに秀吉の対極に位置するものと言えるでしょう。

しかも、秀吉から見て厄介なのは、権力や金銭でどうにかなるものでは無いという点です。

「名物」のような分かり易い評価軸は無く、極論すると、利休の言う事、行う事がそのまま評価基準になるわけです。

これは、秀吉からすると、一方的にマウントを取れないという事で、いささか面白くない状態という事になります。

利休の影響力

 それでも、利休が一介の茶人であれば問題は無かったでしょう。

「面白い事を考える奴じゃ。」とでも言って、度量の有るところを見せておけば済む話ですからね。

そうでは無かったのが、利休の悲劇だったのだと思います。

茶人としても、秀吉の「茶頭」としての地位にあり、一介のとは言えない立場であったのは確かです。

しかし、利休にはそれだけでなく、秀吉の側近としての面もあったようです。

しかも、秀吉をして「公儀のことは私に、内々のことは利休に」と言わしめる程だったようです。

利休の切腹

 そういった人物が、自分ではマウントを取れない立場になったという事ですから、秀吉は心中穏やかでは無かったはずです。

その結果が、利休の切腹という事だったのではないでしょうか。

よく言われる、「大徳寺楼門の2階に自身の雪駄履きの木像を設置し、その下を秀吉に通らせた」という理由は、本当にそのようなことが有ったとしても言いがかりレベルの話ですからね。

利休をコントロールすることが出来なくなることを恐れた秀吉が、これ幸いと利用したのだと思います。

その表れの一つが、切腹に際して、弟子の大名たちが利休奪還を図るおそれがあることから、秀吉の命で上杉景勝の軍勢に屋敷を取り囲ませたという言い伝えでしょう。


 釣鐘の銘への言いがかりで豊臣家が滅びたのは、平安時代なら「利休の祟り」と恐れられたかもしれません。


ではでは

戦国大名と「茶の湯」

戦国大名と「茶の湯」について考えた話です。

 

 

戦国大名と「茶の湯

 様々なタイプのいる戦国大名ですが、多くの大名が「茶の湯」を趣味というか、嗜んでいた事が知られています。

織田信長もその一人で、「名物」と呼ばれれる茶道具を収集していた事が知られています。

それもかなり沼ハマだったようで、あの本能寺の変の前日にも茶会を開いています。

茶会とは言っても現在の物から想像されるようなものでは無く、信長の集めた「名物」の自慢大会のようなものだった様です。

天下人の豊臣秀吉も「茶の湯」好きで知られています。

中でも、北野天満宮で開れた大茶会が有名で、参加者一千人以上という空前の規模だったようです。

これ程でなくても、多くの戦国大名に「茶の湯」に絡む話が伝わています。

なぜ「茶の湯」が好まれたのか

 なぜこれほどに彼らに「茶の湯」が好まれたのでしょう。

先ず、お茶は最初に日本にもたらされた頃には薬として飲まれていました。

戦国時代には広く飲まれるようになったとはいえ、まだまだ高価な薬といった側面も有ったと考えられます。

次に、これが一般によく言われる理由ですが、戦いに明け暮れた戦国大名が、刀を持つことが許されない茶室は、唯一命の心配をせず、心安らげる場所であったからというものです。

歴史的には、現代の「茶道」に通じる「わび茶」は、室町将軍足利義政の茶の師匠である村田珠光が始めたという事になっているようです。

足利義政の治世に、「応仁の乱」が始まっていますから、その後の時代である戦国時代には、「わび茶」がすでに有った事になります。

という事で、上記のように精神的な癒しを目的にしたという理由も有ったかもしれません。

しかし多くの大名はそうでは無かったのではないでしょうか。

茶道具を手に入れれば

 村田珠光が「わび茶」を始める前から、中国の茶道具「唐物」を蒐集し、これを使用して茶会を催すことが大名の間で行われていたようです。

「名物」を集めまくった信長もこの系統と考えていいでしょう。

どうしてそこまで「唐物」「名物」などの茶道具の収拾にのめり込んだのでしょう。

まあ、趣味、道楽としてはまったと言えばそれまでなんですが、もう少し違う要因も有ったように思うのです。

それは、この茶道具を集めて行う「茶の湯」というのは、今風に言えば、分かり易くマウントを取れるものだという事です。

これが、朝廷を中心とする勢力に比べると、成り上がりものに過ぎない戦国大名にとっては都合の良いものだったのではないでしょうか。

とにかく有名どころの茶道具を手に入れれば凄いという評価がされる訳で、優劣が分かり易いのです。

所謂「有職故実」とは関係のない評価軸を持つことが出来たわけです。

その頂点の出来事とも言えるのが、宮中で後にも先にもただ一度行われた、秀吉が正親町天皇にお茶を差し上げる禁裏茶会だったのではないでしょうか。

農民の出の秀吉が、天皇に対してマウントを取ったともいえるわけですから。


 あの有名な「黄金の茶室」も、究極のマウント装置と考えれば良いのかもしれません。


ではでは