横から失礼します

時間だけはある退職者が、ボケ対策にブログをやっています。

魏志倭人伝の里程

 魏志倭人伝の里程についての話です。

 

 

知り合いの疑問

 正月休みには、日頃会えない人達とも会えたりするわけですが、その中の一人が、実は古代史好きだと分かって、話が盛り上がりました。

で、私は、ここぞとばかりに、邪馬台国の話をしたわけです。
チョット話は逸れますが、ブログに一回書いているせいで、話が整理されているので、立て板に水とは言わないまでも、特に何も参照することなく話せるので、驚かれたりしました。
やはり、インプットだけでは無く、アウトプットが重要だなと。

それはともかく、彼が引っ掛かったのが、朝鮮半島から海を渡って、対馬壱岐と来て、九州の末廬国に渡る訳ですが、その末廬国を、宗像市のあたりだとした点でした。

彼は、どちらかと言うと、熊本辺りに邪馬台国が有るという説を取っているようで、末廬国は壱岐から南に渡って、東松浦半島辺りに上陸したんじゃないかと考えているようようです(まあ、普通はそう考えるわけですが)。

それに対して私は、壱岐から東松浦半島だと、1000余里とするには距離が近いんじゃないかと思うと言いました。

海の上だから、そこまで正確な距離は測れないだろう、と言うのが彼の意見でした。

以上の話に対する私の意見と、その後に検討した結果が、この記事という訳です。

ちなみに、私の邪馬台国の位置に関する説に関しては、この記事でどうぞ。

 

yokositu.hatenablog.com

 

里数は概ね正しい

 大前提として、魏志倭人伝中の里数に関しては、概ね正しいと考えます。
GPSなど無かったわけですから、現代の基準から考えれば正確な距離では無かったかもしれませんが、それなりのものはあっただろうと思うのです。

例えば、朝鮮半島から九州へ渡るまでの航海は、全て「海を渡る1000余里」と記されています。
これに関して、よく、海の上で測れるわけがないので(彼と同じです)、キリ良く1000余里としたというような考え方が有ります。

しかしですよ、航海ですから、当然船を使ったわけですが、その時に、使者の一行だけで行った訳ではなく、当然それを生業としており、そのあたりの海域を行き来している船乗りに頼ったはずですよね。
その船乗りたちが、距離も分からずに航海するはずも無く、大まかな距離は把握していたはずです。
狗邪韓国から対馬国対馬国から一大国、一大国から末廬国は全て同じぐらいの距離で、1000里ぐらいだ、と言った感じで。

それを聞き取って、報告書を書いたと思うんですよね。
加えて、当然陸上では、それなりに分かる訳ですから。
それが魏志倭人伝

原文
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳

女王国より以北は、その戸数、道里の略載が可能だが、その他の旁国は遠く隔(絶)たっており、詳しく得ることができない。

という表現になったのだと思います。

地図に当てはめると

 改めて、邪馬台国への旅程を、示します。

   帯方郡
    ↓
   南へ、東へ、水行、7000余里、狗邪韓国に至る
    ↓
   海を渡る、1000余里、対馬国に至る
    ↓
   南へ、海を渡る、1000余里、一大国に至る
    ↓
   海を渡る、1000余里、末廬国に至る
    ↓
   東南、陸行、500里、伊都国に至る
    ↓
   東南、100里、奴国に至る
    ↓
   東、100里、不弥国に至る
    ↓
   南、水行、20日、投馬国に至る
    ↓
   南、水行、10日、陸行、1月、邪馬台国に至る
    ↓
   邪馬台国

以前の記事で、投馬国までと、邪馬台国までの旅程に関しては、作者陳寿により、改ざんされていると考えました。
そのため、距離に関しては、里数でなくなっています。

 

yokositu.hatenablog.com

 

そこで、ここでは、不弥国までの旅程について考えることにします。

先ず、海上を移動している、末廬国までの行程を、Googleマップ上に入れてみました。

f:id:t_arata:20200106210144p:plain

この経路をGoogleマップの距離測定機能で測ると、赤系で示した、狗邪韓国から末廬国までの航路は、それぞれ70数キロになります。
これが1000余里という訳です。

それに対して、帯方郡から狗邪韓国までの青色の経路は、同様に測定すると500キロ強であり、7000余里という表現に矛盾しません。

ちなみに、壱岐から東松浦半島までは、約30キロです。

という事で、この方法から求められた1里の距離は、70数メートルという事になり、いわゆる「短里」という事になります。

この値を、末廬国から不弥国までの里数に当てはめた上で、方角も考慮して引いてみた(赤系の線)のが、次のGoogleマップです。

f:id:t_arata:20200106210355p:plain


これで距離、方向は、
  赤     約35キロ 末廬国から伊都国 東南へ500里 
  オレンジ  約8キロ  伊都国から奴国  東南へ100里 
  ピンク   約8キロ  奴国から不弥国  東へ100里
と、矛盾の無いものになります。


 以上、距離に関しては、結構精度が出たと思っているんですが。


 ではでは

 

ギザの三大ピラミッドの内部空間

 ギザの三大ピラミッドの内部空間の違いから、大回廊の役割に関して考えた話です。

 

 

ギザには三つのピラミッドが有る

 ここ最近、シンクロニシティという程ではないですが、続けざまに、テレビでピラミッドを扱った番組をいくつか見ました。

それらの番組を見ている中で、いまさらながらに思い出したことが有りました。

それは、ギザには、クフ王のピラミッド以外にも、二つのピラミッドが有るという事です。

それはもちろん、メンカウラー王カフラー王のピラミッドで、クフ王のピラミッドと合わせて、ギザの三大ピラミッドと呼ばれているのは、ご存知の通りです。

何をいまさらと思われるでしょうが、そういえば、クフ王のピラミッド以外の二つのピラミッドの内部については、あまり聞いたことが無いなと思ったわけです。

二つのピラミッドの内部空間

 調べてみると、現在までに発見されている内部空間はそれぞれ次のようになっているようです。

先ずメンカウラー王から

f:id:t_arata:20191230220107j:plain

 引用元:第15回 ピラミッドに新たな「未知の空間」の発見[後編] | ナショナルジオグラフィック日本版サイト

点線部分がピラミッドの本体部分です。
つまり内部空間は、ほぼ地下に有るという事になります。

次にカフラー王です。

f:id:t_arata:20191230220221j:plain

 引用元:同上

同じように点線部分がピラミッド面になります。
やはり、内部空間は、ほぼ地表面より下に有ることが分かります。

いずれも、クフ王のピラミッドとは違って、ピラミッド本体の内部には、大回廊のような、大きな内部空間は見つかっていないようです。

大回廊が無い意味

 では、なぜ二つのピラミッドに大回廊が無いのか。

以前、クフ王のピラミッドに関して、その謎の空間に関して記事を書きました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

その中で、大回廊は王の間の石材を、謎の空間の正体は、もう一つの大回廊で、重力軽減の間の石材を運び上げるのに、それぞれ使ったものではないかと言う話をしました。

その大回廊が、クフ王のピラミッド以外の二つのピラミッドに見られないという事は、この説を補強していると考えられないでしょうか。
なぜなならば、この事は、大回廊が必ずしもピラミッドに必須の構造ではないことを示していると考えられるからです。

三大ピラミッドを作った、三人の王は、親、子、孫の関係に有るようなので、その三代の間に、宗教や死生観に大きな変化があったとは思えず、それによりピラミッドの設計が変わり、大回廊が無くなったという事は考えにくいです。
つまり、大回廊が、宗教的な儀式用とか、または死生観に従って魂の通るためなどの、ピラミッドに必須の構造だというようなことは無いと思われます。

クフ王のピラミッドで、王の間や重力軽減の間の材料の巨大な石を引っ張り上げるのに使ったのが、大回廊であるならば、いずれも内部空間が地表面以下に有る二つのピラミッドには、石を引っ張り上げるための大回廊は必要なかったという事ではないでしょうか。


 とはいえ、二つのピラミッドの本体内部にも、見つかっていない空間が有るかもしれません。
ぜひ、この二つのピラミッドも、クフ王のピラミッドと同様に、宇宙線を利用した調査を行っていただきたいです。


 ではでは、良いお年をお迎えください。

古事記と継体王朝

 『古事記』と継体王朝の関係に関する話です

 

 

事績が記されていない天皇

 欠史八代と言うのが有ります。
記紀の記述の中で、系譜が記述されているが、その事績が記されない第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇のことを指します。

事績が記されていないことから、実在しないのではないかと考えられています。
中国の歴史に匹敵する古い歴史が有るように見せかけるために、付け加えられたという訳です。

古事記』の内容を見ていくと、欠史八代と同じように、系譜が記述されているが、その事績が記されない天皇が、ほかにも存在しています
第27代安閑天皇から第33代推古天皇までです

実在しないのでしょうか。

そんな訳は無く、『日本書紀』にはその事績が記されています。
しかも、この七代は、『古事記』の最後の部分であり、作者から見て、最も近い時代の天皇達と言うことになります。
作者が、その情報を知らなかったはずはなく、明らかに、故意に事績を記述しなかったと思わざるを得ません。

第26代は継体天皇

 ところで、第27代安閑天皇の前は、第26代継体天皇です。

継体天皇に関しては、以前の記事で、天皇の地位を簒奪して、新王朝を開いたのではないかと考えました。

 

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その継体天皇に関しても、『古事記』では、応神天皇の5世孫と言うこと以外には、ほとんど事績が書かれておらず、唯一、九州で起こった磐井の乱のみとなっています。

つまり、『古事記』の作者は、継体王朝の天皇に関しては、ほぼ事績を書いていない訳です。

なぜ事績を書かなかったのか

 前の記事で、『古事記』は、山背大兄王を支持していた勢力の一部が、舒明天皇側に売り込むための資料として作られたと考えました。

 

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売り込むためには、継体王朝に対する功績を強調する必要がある訳ですが、作者は、事績を書き込むことが出来ない状況にあったのではないでしょうか。

それは、作者が、物部氏の一族だったためだと考えます。

唯一書かれた事績である、磐井の乱で功績のあった者は、乱を収めた物部荒甲大連と大伴金村連になります。

その後、物部氏は、仏教をめぐって、蘇我氏と対立をします。

さらに、第31代用明天皇の後継を巡っても、蘇我氏と対立した挙句、大連の物部守屋が戦死することになり、物部氏は政治の中枢から外れることになってしまいます。

事績を書き込むことにすると、これらの事も書かざるを得なくなってしまう訳です。

加えて、山背大兄王の祖母は物部氏と伝えられており、蘇我氏に対抗して、山背大兄王物部氏が支持し、再び敗れたとも考えられます。

以上のような状況のもと、継体天皇の代における、磐井の乱以外の事績を全て省くことにしたのだと思います。
継体王朝の開祖である、継体天皇との関係のみにすることで、正当性を示すことにしたのでしょう。

 継体恩顧の忠臣という訳ですが、残念ながら蘇我氏の力が強く、『古事記』の効果はなく、天武天皇の御代に、物部氏から改めた石上氏が復権するのを待つことになり、『古事記』は表舞台に出ることはなかった、という事ではないでしょうか。

 

  やはり、継体天皇で王朝が変わったのだと思います。


 ではでは

六世紀に何があったのか

 六世紀の日本に何があったのかという話です。

 

 

6世紀には朝貢がなかった

 倭の五王最後の武が朝貢を行った478年を最後に、その後600年の遣隋使まで、100年以上、中国側には使者が来たという記録がありません。

この間、中国では宋、斉、梁、陳と王朝が継承されており、朝貢出来ない状況ではありませんでした。

謎の四世紀に、邪馬台国の東遷が行われていたように、六世紀にも日本側に何かがあったと考えられます。

継体天皇について

 六世紀初めの507年に即位したのが継体天皇です。

日本書紀」によると、前年の506年に武烈天皇が後嗣を定めずに亡くなったため、有力豪族が協議し、越前にいた応神天皇の5世の孫を招いて、翌507年に即位したとされます。

これ、いかにも怪しいですよね?
いくら、武烈天皇に子供がなく、後継も決めずに死んだからといっても、応神天皇の5世の孫などという人物を引っ張り出さなくてはいけないほど、一族の中に後を継ぐ者がいなかったとは考えられませんよね。

大体、5代前の先祖から分かれた親戚と言われても、ほぼほぼ他人ですからね。

武烈天皇からの禅譲

 武烈天皇に関しては、「日本書紀」に、残虐とも言える行為が書き連ねられています。

  • 二年の秋九月に、孕婦の腹を割きて其の胎を観す。
  • 三年の冬十月に、人の爪を解きて、芋を掘らしめたまう。
  • 四年の夏四月に、人の頭髪を抜きて、梢に登らしめ、樹の本を切り倒し、昇れる者を落死すことを快としたまふ。
  • 五年の夏六月に、人を塘の樋に伏せ入らしめ、外に流出づるを、三刃の矛を持ちて、刺殺すことを快としたまふ。
  • 七年の春二月に、人を樹に昇らしめ、弓を以ちて射墜として咲いたまふ。
  • 八年の春三月に、女をひたはだかにして、平板の上に坐ゑ、馬を牽きて前に就して遊牝せしむ。女の不浄を観るときに、湿へる者は殺し、湿はざる者は没めて官やつことし、此を以ちて楽としたまふ。

引用元:武烈天皇 - Wikipedia

 

 

これらの記述の後に、後嗣を定めずに亡くなったため、継体天皇が探し出された話になります。

これは、明らかに、中国の正史に見られる禅譲のフォーマットそのものですよね。
前王朝の末期に徳を失い、それを、有徳により天命を受けた現王朝が引き継ぐ、というあれです。

中国であれば、徳のある人物が天命により禅譲を受けるわけですが、わが国にはそのような世界観は無く、正当性を示すために、5世の孫と言う話を作り出したのではないでしょうか。

もちろん、中国でもそうであったように、現実には禅譲であった訳はなく、河内で即位したのち、大和に入るまで19年かかったという記述も、反対勢力との間に色々とあった事を伺わせます。
ひょっとしたら、武烈天皇は、継体天皇の勢力に殺されたという事も有るかもしれません。

継体王朝がそれなりの体制になり、再び中国に赴くまでに、約100年かかったという事になります。


 まあ、大体、がいかにもな「継体」ですからね。


 ではでは

 

「源氏物語」関連まとめ

 「源氏物語」関連のまとめです

最初は、源氏物語の謎(前編)、(後編)のみのつもりで書き始めたんですけど、書くために色々調べているうちに、自分でも予想外の展開となりました。

自分自身の整理も兼ねて、まとめてみます。

 

 

藤原道長が第一部を利用した

源氏物語」と同時代の才能ある女性達が、なぜ同じような作品を残さなかったのかという疑問が、昔からありました。

一般的に三部作と考えられている、「源氏物語」の第一部 桐壷から藤裏葉までを、光源氏の栄華物語と捉えて、藤原道長天皇の権威を相対化するために利用したと考えると、色々と説明がつくと思いつきました。

源氏物語」の背後に藤原道長がいるために、同じような作品が書かれることは無かった訳です。

以上の事を踏まえて、紫式部は第一部しか書いておらず、第二部、第三部は、天皇側からの、藤原道長への反論だと考えました。

天皇の権威をないがしろにすると、因果応報により、自らのみか子孫までも幸せになる事は出来ない、という訳です。

 

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紫式部はいつ「源氏物語」を書いたか

 第一部二系統説と、「紫式部日記」に見られる道長の不可解な行いから、紫式部が「源氏物語」を書いた時期を推定しました。

宮中への出仕以前に紫上系17帖を、出仕した後に、玉鬘系16帖を書いたと考えました。

 

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源氏物語」第二部、第三部は、誰が誰に書かせたのか

 「源氏物語」第二部、第三部の作者は、与謝野晶子の説を取って、紫式部の娘大弐三位だと考えました。

彼女に対して

道長の後を継いで摂政となった長男頼通に対して、母の違いから不遇をかこっていた弟能信が、摂関家の権威を損なう事を目的に

または

道長の長女彰子が、自ら養育した親王の、立太子の問題に絡んで、父親を怨んでいたとする話が有ることから、父を困らせようとして

第二部、第三部の作成を依頼したと推定しました。

第一部への天皇側からの反論と言うよりは、藤原北家内部での問題から書かれたという事になります。
それが結果として、反論の形に成った訳です。

 

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大弐三位はいつ書いたのか

 「更級日記」の記述内容から、大弐三位は、母紫式部の後を継ぎ一条院の女院彰子の女房として出仕した、1017年から、1021年の間に書いたと推定しました。

 

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源氏物語」の作者と製作時期

 現時点での、「源氏物語」の作者と製作時期についての仮説は、
  第一部紫上系17帖 紫式部が出仕前に
  第一部玉鬘系16帖 紫式部が出仕後に
  第二部、第三部  大弐三位が出仕後に

という事になります。

 


 結局のところ、藤原北家の内部問題から最終的な形になったと考えた「源氏物語」が、道長とその息子達のその後を暗示するものとなったのは、やっぱり因果応報なんですかね。

 

 ではでは

 

 

 

紫式部はいつ源氏物語を書いたか

 「源氏物語」第一部の書かれた時期についての話です。

 

 

藤原道長の不可解な行い

 「紫式部日記」に、次のようなくだりがあります。

 

局に物語の本ども取りにやりて隠しおきたるを、御前にあるほどに、やをらおはしまいて、あさらせたまひて、みな内侍の督の殿にたてまつりたまひてけり。

 

引用元:紫式部日記 (渋谷栄一校訂) - Wikisource

 

 

 一般的に、道長紫式部の部屋をこっそり探して、隠しておいた物語を持ち出し、「内侍の督の殿」妍子(道長の二女)に渡した、と解釈されています。

物語は、「源氏物語」と考えられています。

このくだりの少し前に、藤原公任紫式部に対して「この辺りに若紫は居られませんか」と声をかけた話が出て来ます。

それほど、人口に膾炙した物語を、道長ほどの地位と権力を持った人物が、娘のために手に入れるのは、それほど困難だったとは思われません(というか、私の考えでは、道長が広めたんですけどね)。

ましてや、紫式部の部屋から、こっそりと持ち出す必要は、全く無かったはずです。

道長は、なぜそんなことをしたのでしょうか。

第一部二系統説

 源氏物語」第一部が、現在読まれているような順序ではなく、紫上系と玉鬘系の、二系統からなっているとする説があります。

二系統は次のようになります。

紫上系17帖
桐壺、若紫、紅葉賀、花宴、葵、賢木、花散里、須磨、明石、澪標、絵合、松風、薄雲、朝顔、少女、梅枝、藤裏葉

玉鬘系16帖
帚木、空蝉、夕顔、末摘花、蓬生、関屋、玉鬘、初音、胡蝶、蛍、常夏、篝火、野分、行幸藤袴、真木

二系統の関係については、

  • 紫上系の巻だけをつなげても、光源氏が栄華を極めるところで終わる物語として読める。
  • 紫上系の登場人物は、紫上系・玉鬘系のどちらの巻にも登場するのに対して、玉鬘系の登場人物は玉鬘系の巻にしか登場しない。
  • 玉鬘系は、源氏物語全体のストーリーと絡まないという短編的・外伝的性格を持つ。

等のさまざまな理由から、まず紫上系が執筆され、玉鬘系はそのあとに、一括して挿入されたものである、とする説があります。

道長の持ち出したもの

 そうであるならば、道長が、紫式部の部屋からこっそり持ち出したものについて、一つの仮説が浮かび上がります。

先ず、紫式部は、宮中に出仕する前に、紫上系17帖を完成していたと考えます。
元々は、これが「源氏物語」だったのです。
それを、道長が読んで、外戚としての権力を知らしめることに、利用出来ると考えた訳です。

そして、出仕した後に、玉鬘系16帖を書いたのではないでしょうか。
中宮彰子に、新たな光源氏の話を求められたか、ひょっとしたら、懐妊した中宮彰子のために書いたという可能性もあるかもしれません。

いずれにしても、玉鬘系16帖の出来上がったのが、道長が忍び込んだ直前の時期だったと考えれば、色々と符合しそうです。

つまり、道長の持ち出したものは、出来上がったばかりの、玉鬘系16帖だったのです。

持ち出した話のすぐ前の部分で、出産の終わった中宮彰子が、内裏に帰る前に、物語の御冊子を作る様子が出て来ますが、この物語も出来上がったばかりの、玉鬘系16帖だと思われます。


 中宮彰子は、この時の経験があったので、後に、紫式部の娘大弐三位に、第二部、第三部を書かせることを思いついたのかもしれません。


 ではでは

 

大弐三位は誰に頼まれたのか

 「源氏物語」第二部、第三部(以下後編)を書かせたのは誰かという話です。

 

 

もう一つの可能性

 以前の記事で、「源氏物語」後編は、異母兄弟の頼通が摂政になったことに対抗して、その権威を減ずべく、藤原能信大弐三位に依頼したのではないかと考えました。

ここで訂正を一つ。
同記事の中で、「女院彰子を通じて一条院に披露すれば」、と書きましたが、大弐三位が出仕した時には、一条院はすでに亡くなっていますので、これはあり得ませんでした。

 

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その後、説を補強するための情報を求めて、あちこち調べていて、依頼者に関して、もう一つの可能性が有ることに思い至りました。

それは、大弐三位が女房として仕えた、女院彰子です

女院彰子

 女院彰子は、藤原道長の長女です。

藤原道長については、別の記事で、「源氏物語」第一部を、自らの権力を知らしめるために利用したと考えました。

 

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その道長の長女である彰子が、父親の権威を貶めるような内容の「源氏物語」後編を、書くことを依頼する可能性はあるのでしょうか。

彰子と道長の関係に、ヒントが有りました

道長と彰子

 彰子は、一条天皇の后となります、その時すでに、一条天皇には、后の定子(道長の兄藤原道隆の娘)がいました。

定子が第一皇子敦康親王(あつやす しんのう)を残して亡くなります。
そのため、彰子が敦康親王を引き取り、養育することになりました。

その後、彰子も、第二皇子敦成親王(あつひらしんのう)、第三皇子敦良親王(あつながしんのう)を生みます。

一条天皇が、三条天皇に譲位すると、敦成親王が皇太子となりました。
彰子からすれば、自分が産んだ子が、皇太子となった訳です。

彰子にとって喜ぶべきことの筈ですが、一条天皇が、第一皇子・敦康親王を推していたことを知っていた上に、同親王を我が子同然に養育したこともあり、敦成親王立太子を後押しした、父道長を怨んだとする話も残っているようです(「権記」)。

以上の事から、彰子が、意趣返しとまでは言いませんが、父道長を困らせようとして、出仕した大弐三位に頼んだ可能性は考えられると思います。

そうだとすると、大人気ないとも思えますが、実は、敦康親王を引き取ったのが彰子13歳、敦康親王2歳、敦成親王立太子は同23歳、12歳の時のことなんですよね。
判らないではないです。

女院彰子が依頼したとなれば、出来上がった「源氏物語」後編を、宮中に披露するのは、難しくなかったはずです。


  藤原能信女院彰子の二説を比べると、彰子の説に分があるような気がして来ました。


  ではでは

 

 

 

 

 

 

ヴァイオリンのコンクール

 ストラディバリウスについての話です。

 

 

ヴァイオリンのコンクール

 TVでヴァイオリンコンクールのドキュメント番組を見ました。

コンクールと言っても、よくある演奏者のものではなく、新作のヴァイオリンそのもののコンクールでした。

こんなコンクールが有るんだと思いながら見ると、イタリアのクレモナで3年に1回開かれる、A.ストラディバリの名を冠した、世界的弦楽器コンクールの話でした。

そう、あの、クラシックに興味がない人でも、名前だけは知っているであろう、ストラディバリウスの製作者の名を冠したコンクールです。

ちなみに、イタリアのクレモナに、A.ストラディバリの工房があった事にちなんでいるようです。

ストラディバリウスは名器

 チョットややこしいんですが、楽器の名前がストラディバリウスで、製作者の名前がストラディバリだそうです。

それはともかくとして、ストラディバリウスと言えば、ヴァイオリンの名器という事になっています。
トンでもない金額で取引されたとか、手に入れるために、自宅を売ってしまったとか、色々な話が聞こえてきます。
これをもって、弦楽器製造の頂点に達したと考える見方もあるようです。

そうは言われても、音楽的センスの乏しい、へそ曲がりとしては、本当かよと思ってしまうんですよね。

名器と言われている、ストラディバリウスだから、素晴らしいという理由を、色々と考えているんじゃないのと。

客観的な評価

 へそ曲がりをぎゃふんと言わせるためにも、客観的な評価を行うというのはどうでしょうか。

これまでにも、何度か、ストラディバリウスとそれ以外のヴァイオリンを、極力評者には、どれなのか判らないようにして、評価を行うといったことが行われたようです。

しかし、そういった方法では、どれなのか判らないにしても、評者は、ストラディバリウスが有ることが分かっているわけで、どうしてもバイアスを排除しきれない、と思うんですよね。

そこで、この話の始まりとなった、ヴァイオリンのコンクールを利用する方法を考えてみました。

件のコンクールは、新作のヴァイオリンを審査するものですが、そこに、ストラディバリウスを新作と言って出品するのです。

経年変化による古色はある訳ですが、「そのあたりも、完全に再現することを目指しました」、とか言って、売り文句にすれば、怪しまれずに済むんじゃないでしょうか。
まさか、ストラディバリウスが出品されるとは、考えもしないでしょうから。

で、普通にコンクールの審査を受け、結果やいかに、という訳です。

これならば、人間のやることなので、完璧とはいかないまでも、比較的客観的な評価が得られそうですよね。

ストラディバリウスをポンと買える、お金持ちの方、どなたかやってみませんか。


 音楽の授業が一番嫌いだったへそ曲がりが、いちゃもんを付けているだけですので、悪しからず。


 ではでは

 

更級日記を忘れていました

 「更級日記」と、「源氏物語」の書かれた時期についての話です。

 

 

道長の死んだ後では矛盾が

 源氏物語の謎(後編)で、「源氏物語」第二部、第三部の公になったのは、権力者藤原道長の無くなった1028年より後ではないかと書きました。

 

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が、これは、結論を焦ったチョンボでした。

というのも、それでは、菅原孝標女による「更級日記」に出て来る、「源氏物語」に関する話と矛盾してしまうからです。

更級日記源氏物語

 「更級日記」に、父・菅原孝標に従って、任地の上総より京に帰国した翌年に、源氏の五十余巻を手に入れるくだりが出て来ます。

菅原孝標が帰国したのは、1020年なので、菅原孝標女が源氏の五十余巻を手に入れたのは、1021年のことになります。

つまり、源氏物語」は、1021年の時点で全て出来上がっていたことになる訳です。

ところで、「更級日記」は、いわゆる毎日書いた日記ではなく、菅原孝標女が、後年その人生を振り返って書いたものとされており、手に入れたくだりは、40年以上昔のことなので、その正確性に疑問が無いわけではありません。

しかし、物語を読みたくてしょうがなかった少女時代に、やっと手に入れた源氏の五十余巻に関する記憶は、鮮烈だったと思われ、何年もの単位で間違っているとも思えません。

やはり、道長の亡くなる前に、「源氏物語」は存在していたようです。

大弐三位はいつ書いたのか

 そうなると、「源氏物語」第二部、第三部を、大弐三位が書いたとすると、いつ書いたのでしょう。

実は、道長は、生前の1017年に、嫡男の頼通に摂政を譲っています。

一方、大弐三位は、同じ1017年に、母紫式部の後を継ぎ一条院の女院彰子の女房として出仕しています。

この状況で、異母兄弟の頼通が摂政になったことに対抗して、その権威を減ずべく、藤原能信大弐三位に依頼した可能性が考えられます。

大弐三位は、1017年から1021年の間に書いた事になります。

摂政を退いたとは言え、まだまだ権力を掌中にしていた道長ですが、大弐三位が、書いたものを、女院彰子を通じて一条院に披露すれば、異を唱えることは出来なかったのかもしれません。

ちなみにこの時、大弐三位は18~21歳の時期でした。


 紫式部の生年に関しては諸説あるようですが、一説によると、23歳ごろから、「源氏物語」を書き始めたことになるようです。
全く、遺伝のなせる業なのか、驚くべき親子だという事になります。


  ではでは

 

源氏物語を書いたのは誰か

 源氏物語の作者に関して考えてみた話です。

 

 

与謝野晶子の二部作説

 前の記事で、紫式部は、「源氏物語」の第一部のみを書いた、と考えました。

 

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すると必然的に、残りの第二部、第三部は誰が書いたのか、という事になります。

これに関して、「源氏物語」の現代語訳を三度試みた与謝野晶子が、「若菜」以降の全巻が、別人の作であるとする、二部作を提唱しています。

前記事で、「源氏物語」が書かれた当時の政治状況と物語の内容から、第一部(前編)と第二部、第三部(後編)の作者が異なる、と考えました。

与謝野晶子は、文学者としての観点で、その内容、筆致の違い等から二部作だと考えたようです。

後編の作者

 さらに、与謝野晶子

前編の作者に拮抗して遜色のないこの後の作者は誰であろうか。一読して婦人の筆であることから、当時の女歌人のなかに物色すると、古人の言ったように、大弐三位が母の文勲を継いだのであろうと想像するほかに、その人を考え得ない。
 引用元:pearlyhailstone: 与謝野晶子「紫式部新考」

と、後編の作者の正体については、紫式部の娘大弐三位だと考えたようです。
ちなみに、「古人の言ったように」、というのは、「宇治十帖」が大弐三位の手によるものでは無いか、と言われていたことによります。

後冷泉天皇東宮時代にしばしば宇治に行啓したのに、御乳母の大弐三位がお供をして行き、宇治をよく知っていたはずだというのも、傍証になると考えたようです。

この大弐三位説は、当時の政治状況から見て、どうなんでしょうか。

当時の政治状況

 「源氏物語」第一部を公にした摂政藤原道長の後を受けて、長男の藤原頼通が摂政となり、その後関白に任ぜられます。
さらにその弟藤原教通も、摂政、関白となります。

まさに、藤原北家による摂関政治の全盛期でした。

「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 虧(かけ)たることも なしと思へば」
道長が、詠んだりしました。

それほどの権力は、「一家立三后、未曾有なり」と言われたように、娘を天皇の后とし。皇太子をもうけることにより、外祖父となることに拠っていました。

しかし、道長の子、頼通、教通ともに、娘を后としますが、皇太子をもうけることが出来ずに、次第に力を失う事になります。

対抗勢力

同時期に、頼通、教通の異母兄弟で、母の違いから不遇をかこっていた藤原能信が、尊仁親王(のちの後三条天皇)の後見人になっています。
尊仁親王は、生母が藤原家ではありません。
つまり、能信は、頼通、教通と対立関係にあった訳です。

その後、後三条天皇とその子の白河天皇による親政とその後の院政により、摂関政治は終わることとなります。

以上のような状況の中で、能信が、頼通、教通に対抗する方策の一環として、同じ藤原北家の出である大弐三位に、「源氏物語」第一部への反論としての続編を依頼したという事は、あり得る話だと思います。

大弐三位紫式部の娘という点も、続編を公にし易いと考えたかもしれません。(あの紫式部の娘が書いた続編です、といった感じで。)

また、大弐三位自身にも、与謝野晶子が書いているように、母の文勲を継ぎたい、という思いがあったのかもしれません。


ということで、政治状況から考えても、「源氏物語」の作者は、第一部紫式部、第二部、第三部大弐三位、の可能性が有るという結論になりました。

 


 しかし、紫式部藤原北家の出だという事を考えると、全ては藤原北家の中での話とも言えるわけで、恐るべし藤原北家というところでしょうか。


 ではでは

源氏物語の謎(後編)

 今回は、源氏物語に関する疑問についての話(後編)です。

 

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成立前

 紫式部は、夫の死後、「源氏物語」を書き始め、その文才を認めた藤原道長に召し出されて、一条天皇中宮の彰子に仕えている間に「源氏物語」を完成させた。

源氏物語」の成立に関しては、諸説はあるが、概ね以上のように考えられているようです。

なお、中宮彰子は藤原道長の娘です。

藤原道長は、ただ単に紫式部の文才を認めて、娘の女房に召し出した訳ではなく、彼女が書いていた「源氏物語」が利用できると考えたのではないかと思います。

第一部のテーマ

 「源氏物語」は、通常以下の3部構成と考えられています(異論も多くあります。)。
  第一部 第一帖 桐壷から、第三十三帖 藤裏葉まで
  第二部 第三十四帖 若菜から、第四十四帖 竹河まで
  第三部 第四十五帖 橋姫から、第五十四帖 夢浮橋まで(いわゆる宇治十帖)

第一部の内容は、光源氏の華麗な女性遍歴をあえて無視すれば、彼が栄華を極める物語という事が出来ると思います。

問題は、その栄華の極め方に有るのです。

光源氏は、桐壷帝(父でもある)の寵愛する女御桐壷と密通をして、不義の子をもうけてしまう。
その子は長じて、冷泉帝となります。
その冷泉帝により(彼は、光源氏が父だという事を知っています。)、光源氏は、准太上天皇位を贈られて、栄華を極めることになるのです。

后との不義の子が天皇になって、本当の父親が栄華を極める、という内容の物語を利用する事によって、藤原道長は、天皇の権威の相対化、ひいては外戚としての自らの権威、を知らしめたのだと思います。

第二部、第三部による反論

 第二部と第三部は、上記のような第一部を突き付けられた、天皇側からの反論だったと考えます。

その内容は、ポイントのみ書けば、
 第二部 光源氏の後半生を描く。妻が不義の子 薫を産んでしまう。
 第三部 不義の子 薫の話。愛する者の密通を咎め、失ってしまう。
と、第一部の光源氏の行為の裏返しを思わせるもの、となっています。

つまり、天皇の権威をないがしろにすると、因果応報により、自らのみか子孫までも幸せになる事は出来ない、という事を示している訳です。

成立後

 ということで、紫式部が書いたのは、第一部だけだったと思います。
紫式部日記」にある1008年時点では、第一部だけが完成していたという事になります。

第一部を公にすることが出来るほどの権力が有る(何しろ、天皇の后が不義の子を産んでしまう話、ですから。)、藤原道長の存命中は、その力関係から、天皇側も公然と反論出来なかったと思われます。

そのため、第二部と第三部が公になったのは、藤原道長の亡くなった1028年以降だったと考えられます。
そして、その反論が公になった後に、「浜松中納言物語」、「狭衣物語」、「夜半の寝覚」などが書かれることになります。

当然、このあたりの状況は、「源氏物語」の発表当時の宮中の女性達も理解していた、と考えられます。
同時代の女性達は、「源氏物語」が権力闘争の道具として使われている中で、同じような物語を書くことは出来なかったという事です。

 

 最初に第一部みたいのを書いちゃうという事で、紫式部がすごいことに変わりはないんですけどね。

 

 ではでは

 

 

 


 

 

 

 

 

源氏物語の謎(前編)

 今回は、源氏物語に関する疑問についての話(前編)です。

  

 

源氏物語の評価

 「源氏物語」と言えば、おそらく、誰もがなんとなく内容を知っているけど、ちゃんと読んだことのない本のランキングでは、間違いなく上位にランクされるに違いないですよね。

私も、何度かトライしては、挫折を繰り返し、あらすじだけで読んだ気になっている口です。

その「源氏物語」ですが、現代においては、「世界最古の長篇小説」(異論はあるようですが)の傑作として、翻訳が海外にも紹介され、世界的な評価を受けています。

もちろん、54帖からなる長編が、成立した平安時代から今に至るまで伝わっていることから、書かれた当初から、ある程度の評価を受けていたことは間違いないと思われます。

そのことは、作者とされる紫式部の「紫式部日記」の1008年の記述に、敦成親王後一条天皇)の誕生祝いの宴で、藤原公任紫式部に対して「この辺りに若紫は居られませんか」と声をかけた、とあることからも裏付けられる、と考えられています。

紫式部に「源氏物語」のヒロインの一人の名前で話しかける程、宮中の人間にも知られていたという訳です。

ちなみに、このことをもって、1008年には「源氏物語」が出来上がっていた、と考えられています。

またその評価が高かったことは、同じ平安時代に「源氏物語絵巻」が作られたことからも明らかでしょう。

当時の宮中

 紫式部が「源氏物語」を書いた当時、宮中には、後宮の后に仕える女房達をはじめとして、中流貴族の娘が出仕することが多かったようです。

彼女たちは、当然教養も高く、結果、当時の宮中には、当代の女流の文学的才能のかなりの部分が集まることになっていた、と考えられます。

例えば、紫式部が、藤原道長の娘の中宮彰子に仕えていた同じ時期に、和泉式部赤染衛門などが、少し前に清少納言が、後宮にはいました。

そういった状況の中で、「源氏物語」が書かれ、評判を取った訳です。

評判が高かったのに

 それに対して、宮中の少なくない数の才能ある女性が、「この手があったか」と考えたに違いないと思うのです。

漢詩でも、和歌でも、そして日記でもない表現方法に出会ったわけです。

それこそ、雨後の竹の子のように、似て非なる作品が生み出されてもおかしくは無いですよね。

それなのに史実では、そのような様子は見られないのです。
なぜ、彼女たちは、物語を書かなかったのでしょう。

源氏物語」の影響を受けたと考えられているものが、全く無い訳ではありません。
「浜松中納言物語」、「狭衣物語」、「夜半の寝覚」などが上げられますが、いずれも11世紀後半以降のものです。
源氏物語」の成立は1008年以前ですので、2世代程の隔たりが有る訳です。


 私は、同時代の女性たちは、書かなかったのではなく、書けなかったのだと考えているのですが、その話は、後編で。


 ではでは

 

クフ王の大ピラミッドに見つかった、謎の空間の正体

 クフ王の大ピラミッドに見つかった、謎の空間の正体についての話です。

 

 

謎の空間

 かなり旧聞に属しますが、2年ほど前に、クフ王の大ピラミッドに謎の空間を見つけたと、名古屋大などの研究グループが、発表しました。

宇宙から降り注ぐミュー粒子を使って、レントゲン写真を撮るように(レントゲン程鮮明ではないみたいですが)、ピラミッドを撮影したところ、大きな空間とみられるものが写っていたというものでした。

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 画像引用元:崩落防ぐ工夫?王のミイラ眠る? ピラミッド、謎の空間

 発表以来、クフ王の玄室でミイラが眠っている、を始めとして様々な説が考えられています。

私も、仮説を思いつきました。

建築家の考えた大回廊の正体

 上の画像に、王の間と、重量軽減の間というのが有るかと思いますが、ここを構成している石材は、重いもので60トンと言われています。

これ程大きな石を、どうやって運び上げたのかは、一つの謎です。
ちなみに、ピラミッドに積み上げられている石の平均的な重さは2.5トンと言われています。

フランス人の建築家、ジャン・ピエール・ウーダンは、これに大回廊が使われたと考えました。

現代のエレベーターのように、釣合いおもりを使って60トンの物を持ち上げたのではないか。
そして、そのおもりが、大回廊の中を上下していたのではないかと考えたのです。

模式図を挙げます

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画像引用元:ピラミッドの建造方法|古代文明の謎

 大回廊自体も、何のためのものか、議論のあるものですが、建築家らしい説で、なかなか説得力のある案だと思います。

謎の空間の正体

 なかなかの案ではあるのですが、問題もあります。
上の図でもわかるように、王の間、その上の重力軽減の間と、大回廊の位置関係を見ると、王の間はともかく、重力軽減の間の石材を運び上げるには、無理があるように思えます。

今回発見された謎の空間は、最初の図を見ると、赤くはっきりと書いてありますが、実際に分かっていることは、
  長さは最低でも30メートル
  水平か斜めかは不明
  位置は大回廊の上
  断面形状は分からないが、面積としては大回廊と同程度
とのこと。

これは、素直に考えると、大回廊の上にもう一つ大回廊が有ると、言っているように思えますよね。

という事で、私の仮説は、謎の空間は、もう一つの大回廊であり、重力軽減の間の石材を運び上げるために使われた、というものです。

現在発見されている大回廊の長さは、47.84メートルです。
謎の空間の長さは、30メートル以上と、少し短いように思えますが、これは、使い終わった釣り合いおもりを、そのまま最下部に残したために、短く写ったのだと考えれば、符合しそうです。


 残念ながら、謎の空間には、埋葬品も、王のミイラも無いことになります。


 ではでは

 



 

邪馬台国東遷説と日本書紀(後編)

 邪馬台国に関しては、東遷説に基づいて、魏志倭人伝から倭の五王まで解釈をしてきましたが、今回は、邪馬台国東遷説から見た、「日本書紀」の対応する部分に関する話(後編)です。

邪馬台国東遷説、ついては、下の記事を、ご覧ください。

 

yokositu.hatenablog.com

 

 

豊臣秀吉朝鮮出兵と広開土王碑における倭

 豊臣秀吉朝鮮出兵は、1592年から1598年に行われました。現代から見ると、約400年前の出来事になります。

 以前の記事で、東遷後に、亡命者の意を汲み、朝鮮半島北部の覇権回復を目的に、半島に進出した事が、広開土王碑に記録されていると考えました。

 

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それが、391年から404年のことです。
これは、「日本書紀」の完成した720年から見れば、約300年前の出来事という事になります。

つまり、当時の人々にとって、400年前後の半島進出は、現代の我々が、豊臣秀吉朝鮮出兵に関して知っているのと少なくとも同程度に、当時の国の規模を考えれば、それ以上に知られていた出来事だったはずです。

神宮皇后と三韓征伐

 という訳で、最終的には高句麗に負けた訳ですが、半島進出に関して、「日本書紀」から外す訳にはいかなかったのだと思います。

そこで、作られたのが、神功皇后三韓征伐の話だったと考えられます。

三韓征伐と言われていますが、実際に攻めたのは新羅のみです。
これは、百済とはほぼ戦っていない、広開土王碑の記述に比較的符合します。

ただ、さすがに高句麗に負けたとは書けずに、高句麗朝貢を約したと、都合のいい表現になっています。

しかし、なぜ、例えば夫の仲哀天皇の事績ではなく、神功皇后なのでしょうか。

卑弥呼神功皇后

 前編で、邪馬台国卑弥呼が出てこない経緯を、考えましたが、

 

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日本書紀」の編者にとって、魏志倭人伝もまた、無視出来ないものだったと考えられます。
それは、その内容が、魏志以降の多くの歴史書に引用されているからです。

そこで、三韓征伐を女性の神功皇后の事績とするとともに、時代を魏志倭人伝に合わせ、さらにその治世の記事中に魏志を引用することで、神功皇后卑弥呼の関係を匂わすという、アクロバティックな方法を取ったのです。

一例をWikipediaから引用します

神功皇后摂政39年(239年)
魏志云「明帝景初三年六月 倭女王 遣大夫難斗米等 詣郡 求詣天子朝獻 太守鄧夏 遣吏將送詣京都也」
(訳:魏志によると明帝の景初3年6月、倭の女王は大夫の難升米等を郡(帯方郡)に遣わし天子への朝獻を求め、太守の劉夏は吏將をつけて都に送った)

 引用元:神功皇后 - Wikipedia

 

見てお分かりのように、倭の女王となっており、邪馬台国卑弥呼も出てきません。
出てこないけれども、卑弥呼に相当する女性、神功皇后はいましたよ、と苦しい言い訳ともいえる形に成っている訳です。

いわゆる、玉虫色の決着を図った訳です。

倭の五王

 倭の五王に関しては、「日本書記」に記述はありません

これは、その遣使の内容が、中国の権威を借りることが目的であった事と、魏志倭人伝ほど歴史書に引用されていないことから、無かったことにされたのだと思います。

ただ、応神天皇以降の事績に、呉国とのやり取りが何回か出てきます。

三韓征伐より後の年代ということと、呉国が中国南部を指すと考えられることから、これが、倭の五王に対応するのかもしれません。

ただし、朝貢した事にはなっていません。

  
 神功皇后の話は、よくぞここまで無理くり考えたといった感がありますが、書紀講筵ではどのように説明されたんでしょうね。


 ではでは

 
中編はこちらになります。

 

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邪馬台国東遷説と日本書紀(中編)

 邪馬台国に関しては、東遷説に基づいて、魏志倭人伝から倭の五王まで解釈をしてきましたが、今回は、邪馬台国東遷説から見た、「日本書紀」の対応する部分に関する話(中編)です。

邪馬台国東遷説、ついては、下の記事を、ご覧ください。

 

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国造り、国譲りって、変?

 前編で、神話自体は、全くの創作という訳ではなく、元々九州にあった天孫降臨神話をベースにしたと思う、と書きました。

 

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その中で、国造り、国譲りの話はちょっと変だなと思うんですよね。

国造り、国譲りの話は、ざっくり言うと、大国主(おおくにのぬし、「日本書紀」では大己貴命(おおあなむち))が葦原中国(あしはらなかくに、地上世界)の国造りを完成させ、天照大神(あまてらすおおかみ)などがいる高天原の神が譲りうけたという話です。
国譲りは、葦原中国平定とも言われます。

その後、譲りうけた葦原中国に、天孫降臨することになります。

天孫降臨なのに、降臨する前に、その地を平定するなんておかしいと思いません?
降臨する前に、降臨して平定しているわけですよね。

国造り、国譲りって、何?

 大国主は国造りを行い、出雲まで至った後、残りの国造りを協力しようと申し出た神がいた、それが大三輪(おおみわ)の神です。

大三輪の神が鎮座したのは、三諸山(三輪山でした。
三輪山と言えば、その北西麓に有るのが纏向遺跡です。

これは、出雲地方の王朝が、宗教を含め、大和地方にも勢力を伸ばしたことを示していると思います。
そして、その中心が纏向遺跡の地だった。

纏向遺跡の地に関しては、以前の記事で、東遷した邪馬台国に征服されたと考えました。

 

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つまり、国造り、国譲りは、纏向遺跡の地の征服に関連した事を示しているのだと考えられます。

国造り、国譲りって、禅譲

 とするならば、なぜ神武東征の事績として書かれていないのでしょうか。

出雲は、纏向側が助けを求めたでしようから、当然参戦したはずです。

日本書紀」にも、平定のために派遣した神が、一人目は3年、二人目は8年たっても戻らなかったとの話があるので、長期の争いがあったと考えられます。

この争いで、出雲を完全に征服したのでないことは、大国主が今でも出雲大社に祀られていることから明らかで、何らかの形で停戦協定が結ばれたと考えられます。

また、「出雲風土記」に国譲りの話がないことから考えても、国譲りの実態は、東遷した邪馬台国による纏向遺跡の地の征服だったと考えられます。

纏向遺跡の地の征服と、出雲との停戦協定を、出雲王朝から大和王朝への禅譲だとするために、国造り、国譲りの話を、天孫降臨の前に入れ込んだのだと思います。

それにより、禅譲により国を譲られた後に、子孫の神武天皇が現在の王朝の始祖になったという筋立てにすることが出来、革命による禅譲を世界観とする中国に、正当性を示すことが出来ると考えたのでしょう。


 もっとも、正史の本家である中国には、「ああ禅譲ですね、なるほどね」と、違った意味で了解されたと思うんですけどね。


 ではでは