横から失礼します

時間だけはある退職者が、ボケ対策にブログをやっています。

自動運転とドライバー

自動運転とドライバーについて考えた話です。

 

 

前回の話

 前回の記事は、どんな自動運転車が欲しいのかという話でした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

様々な機能てんこ盛りのハイスペックな車ではなく、全自動で走る事に絞り込んだシンプルでリーズナブルな価格の物が欲しいというものでした。

 

引用元:自動運転の「Waymo」が初の大型外部投資を受け入れ - EVsmartブログ

こんな感じので、近所のスーパーに行って帰ってくることが出来て、雨風が防げればいいのです。

ナイト2000

 自動運転と言えば、昔(今調べたら1980年代始めの番組で、40年程前でした)「ナイトライダー」というアメリアのテレビドラマが有りました。

ナイト2000という自動運転の車に乗って、様々な事件を解決していくというものでした。

 

引用元:ナイト2000 - Wikipedia

もっとも、ナイト2000(21世紀にはこんな車が有るだろうという事で2000だったのでしょうね)は、自動運転なのは間違い無いのですが、番組内では人工知能を搭載しているという設定でした。

単に自動で走るだけでなく、人間のように考える事が出来る車だったのです。

そのためにナイト2000はドライバー無しで走るのは勿論、会話することも出来ました。

信用できない

 さすがにナイト2000程では無いでしょうが、自動運転車が実用化された時には、それなりに喋るようになるのでしょう。

ナイトライダー」を見ていた時にもそうだったのですが、この車が喋るというのはまだしも、誰も居なくても走るというのが気持ち悪いんですよね。

自動運転でも、当然ドライバーが居なくても勝手に走ります。

理屈の上では、自分がドライバーなのですが、全自動になれば基本的に何もしないという事になります。

ハンドルに向かっていなくても良いわけです。

これは、私が車は誰かが運転している物としてこれまで生きて来たからなのか、何か信用できない。

ドライバーが居た方が

 やはりドライバーが居た方が安心出来そうな気がするんですよね

とはいえ、その為に座席をひとつ占めるのはバカらしいので、マスコット的なものを乗せるというのはどうかなと思うのです。

少し前に「けものフレンズ」というアニメが話題になりました。

その中に、「ラッキービースト」というキャラクターが出て来ます。
 

引用元:けものフレンズプロジェクト

非常に高性能なガイドロボットという設定になっています。

接続することで、車の運転も出来てしまいます。

 

引用元:けものフレンズプロジェクト

これだと運転席が必要ですが、ダッシュボードの上でも良いはずです。

現実の自動運転車でも、こんな感じのものを入出力インターフェースとするのも有りじゃないかと。

これなら喋ってもいいような気がします。

外から見ても何かが運転しているように見えるので、いいのではないでしょうか。

こんなの作ってもらえませんかね。


スマートスピーカーなんかも、こんな形にしてくれませんかね。


ではでは

こんな自動運転車が欲しい

自動運転車について考えた話です。

 

 

ホンダとソニーのEV

 少し前に、ホンダとソニーが提携して開発している電気自動車(EV)のプロタイプが発表されたというニュースを見ました。

 

引用元:ソニー・ホンダモビリティ、2025年発売予定の新型EVプロトタイプ世界初公開 新ブランド「アフィーラ」発表 - Car Watch

ホンダは、2040年にエンジン車の販売を完全にやめるという事なので、気合が入っています。

ソニーとの提携なので、完全自動運転かと一瞬期待しましたが、まだレベル3のようです。

何とか、私が運転できなくなる前に完全自動運転の車を売り出してもらいたいものです。

かっこいいが

 ホンダとソニーという事でなかなかかっこいい仕上がりになっています。

発売は2025年だそうですが、それなりの値段になるのでしょうね。

ホンダとソニーという大企業が手掛けるわけですから、それなりに高付加価値の商品でないと、会社が回っていかないですからね。

「走りを楽しむ」とか、「動く書斎」とか、「極上のエンターテイメント空間」とかいう事になるのでしょうか。

多機能、高性能、高品質という日本企業の得意とするところです。

もっとシンプルなものを

 それはそれで凄いと思うのですが、年寄りとして欲しいと思うものは、チョット違うのです。

ハイスペックな機能はいらなくて、もっとシンプルに、自動で近所のスーパーまで行って戻ってくることが出来るようなものでいいのです。

引用元:自動運転の「Waymo」が初の大型外部投資を受け入れ - EVsmartブログ

これは、Googleの関連会社が開発しているEVのプロトタイプですが、こんな感じのもので十分なのです。

機能を出来るだけ絞って、安くする。

雨風が防げて、坐ってるだけでいいといった感じのものでいいのです。

走りを追求する必要は無いですし、書斎やエンターテイメントもスマホがあるので。

デザインとしては、以前の記事でも書いたことが有りますが、スバル360のデザインもいいと思うのですが。

 

yokositu.hatenablog.com

 

これなら、子供や孫も乗せられますからね。

ハイスペックは

 では今回発表されたようなレベルの車はいらないかというと、勿論そんなことは無いでしょう。

ハイスペックな車は、そういったものが買える層の人々に買っていただいて、自動運転の普及に一役かっていただきたいと思います。

また、さすがにGoogleのプロトタイプのような車で、高速道を走るような遠出はしたくないので、ハイスペックタイプをレンタルする事にすればよさそうです。

全ての人が、ハイスペックな車を持つ必要はないのです。


スマホのように、基本的な機能がオープンになると面白いのですが。


ではでは

 

 

ローマ帝国とキリスト教

ローマ帝国キリスト教について考えた話です。

 

 

ローマ帝国の番組

 TVでローマ帝国に関する番組を見ました。

映画などのイメージから、厚切りの肉を豪快に食べている印象のローマの剣闘士が、実は大麦や豆といった炭水化物を多く含む食事が中心で、筋骨隆々というよりも肉付きの良い体型だったらしいという話が興味深かったです。

その中で、ローマ帝国が衰退した理由についても触れられていました。

色々と挙げられている中にキリスト教の国教化というのもあったんですね。

それが、私のローマ帝国キリスト教の関係について考えている事と違和感が有ったので、今日はそのあたりを考えて見たいと思います。

ローマ帝国の盛衰

 ローマ帝国については、以前の記事でその盛衰と太陽活動の関係を考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

引用元:太陽予想? | でんきやかん - 楽天ブログ

ローマ極大期と呼ばれる太陽活動の極大期へ向かう中で共和制の大国への道を歩み、それ以降の活動低下の中で、帝国化を経て衰退していったという話でした。

一般的には、ゲルマン等の周辺民族の移動の影響が大きいと考えられています。

私的には、その民族移動の背景には、太陽活動の低下による気候変動が有ると考えているわけです。

太陽活動と新宗教導入

 そもそも古代ローマにおける宗教は多神教でした。

それがローマ極大期からの太陽活動活動の低下の中で、一神教であるキリスト教を国教にしました。

これによく似た話に心当たりがあります。

我が国への仏教伝来です。

 

yokositu.hatenablog.com

 

八百万の神を信じ、天皇天孫降臨した神の子孫で有る国で、仏教が一時実質国教になったのです。

何しろ、奈良の大仏まで作っちゃいましたからね。

これについても太陽活動の影響を考えました。

太陽活動の低下による気候変動に対して、既存の宗教では対応できなかったので、それに代わるものとして仏教が採用されたのではないかと考えました。

これと同じ事がローマ帝国でも起こったのでは無いかと思うのです。

ローマ極大期以降の活動低下による気候変動を背景とする、ゲルマン民族の移動等の社会不安に、既存の宗教が対応出来なかった。

それに代わるものとして採用されたのが、新興勢力のキリスト教だったのではないか。

そもそも元来キリスト教は、最後の審判に代表されるように、どちらかといえば現世利益的では無いですから、天候不順に対応出来なくても良かったとも言えそうです。

という訳で、キリスト教の国教化については、衰退の原因ではなく衰退の結果だったのです。


 ところで、肉付きのいい剣闘士なんていうのは、「北斗の拳」の影響でどうしても雑魚キャラとしか思えないですけどね。

 

ではでは

阪神・淡路大震災

阪神・淡路大震災の話です。

 

 

1月17日

 1月17日は、阪神・淡路大震災から28年目の日でした。

個人的には、幸いにも直接的な被害を受けたという訳ではありませんが、その日の事はよく覚えています。

出勤前に朝のニュースで第一報を観ました。

家族によると、発生した時間(5時46分)には少し揺れたらしいのですが、私はまったく気付きませんでした。

ニュースを見ても、まだ詳しい状況は分からず、あまり聞いたことのない大きさの地震だな位の感じでした。

出勤して職場につくと雰囲気が変でした。

特撮のよう

 テレビの前に集まっているので見に行くと、丁度ヘリコプターからの空撮の映像が流れていました。

引いたショットでは、街のあちこちから煙が上がっていました。

そのうちに寄ったショットになると、高架の道路が横倒しになっていたり。

勿論驚いたのは確かなんですけども、あまりにも凄くてかえってリアリティーがなく、不謹慎だとは思うのですが、つい特撮みたいだなと思ってしまいました。

小松左京原作で映画化された「日本沈没」の映像そのままだったのです。

本当にこんなことが起こるんだと思いました。

もっとも東日本大震災で、人間の想像力なんてどれほどの物か思い知らされることになりましたが。

特に記憶に残る事

 その後もその状況が何日にも渡って報道されることになります。

その中で特に驚いたのが、火災による被害とビルの倒壊でした。

火災については、この地震以前にも家屋の密集した地域の危険性というのは指摘されていました。

それでも、実際にその状況を見ると改めて恐ろしいと思いました。

もう一つは、三宮だったと思いますが、ビルが丸ごと横倒しになった場面でした。

 

引用元:阪神・中越・東日本、全震災を取材したカメラマン 写真で振り返る平成日本を襲った3つのカタストロフィ(4/10) | JBpress (ジェイビープレス)

これ物凄いですよね。

というかこれこそリアリティーが無さすぎじゃないですか。

特撮作品でこんな場面が出てきたら、ビルの模型を壊すのに失敗したんだろうと思ってしまいそうな画像です。

そもそも、ビルの一階部分がそれより上の階の荷重に耐えかねて、つぶれてしみましたと言うのならまだ分かります。

実際この地震でも、そういった壊れ方をしたビルも有ったようですし。

それが画像のようにバタンと横倒しになるというのは、信じられませんでした。

しかも、画像で見る限り結構新しそうなビルのように見えます。

この辺りについては、その後も色々考えさせられる事も有るのですがそれは回を改めて。


 こういった事を忘れないのが、生きている者の務めのような気がします。


ではでは

大八車で驚いた話

大八車で驚いた話です。

 

 

時代劇と大八車

 時代劇については、若い頃はそうでも無かったというかほとんど興味は無かったのですが、年を取るにつれて観るようになりました。

といっても、精神的に成長しきれていないせいか、観るのはもっぱら予定調和ものなんですけどね。

遠山の金さんとか、水戸黄門とかそういったやつです。

という訳でも無いのですが、今回はその時代劇に普通に出て来る大八車について驚いた話です。

どうして大八?

 その大八車ですが、時代劇で出て来た時に、どうして「大八」という名前なんだろうと思った訳です。

5歳の女の子に叱られたくないので、さっそく調べました。

そうしたら、驚くべきことが分かった、という事は有りませんでした。

「大八」の由来には諸説あるようで、ウィキペディアから引用すると、

1.一台で八人分の仕事(運搬)ができるところから(代八車)。
2.車台の大きさが8尺(約2.4m)のものを大八と呼んだ。
3.現在の滋賀県大津の八町で使われていたことから、「大津八町の車」が略され「大八車」になった。
4.芝高輪牛町の大工八五郎が発明した。
5.宮城県の針生大八郎が発明した。

引用元:大八車 - Wikipedia

という事のようです。

驚いたのは

 「大八」という名前についてはという事ですが、驚いたのは当然そこではなく別にあります。

複数の記事で記述が有ったのですが、どうやら大八車は、江戸時代にしばしば幕府から禁止令が出ていたようなのです。

しかも、街道では使用することが出来なかったようなのです。

街道で使用できないという事は、旅の一座が荷物を積んで歩いていく、あのよく見るシーンは有り得ないことになります。

その一行に主人公が匿われたりすることも出来なくなりそうです。

どうして禁止なのか

 まあ、旅の一座の事は置いておくとしても、なぜ大八車が禁止なのでしょうか。

明らかに、物を運ぶというこ事については効率が良くなることは有っても悪くなることはなさそうで、使わない手は無いと思うのですが。

調べてみると、江戸時代の支配体制の根本にかかわる事だと捉えられたからだという事のようです。

江戸時代は、武士が支配階級の時代です。

その武士がどうして支配階級なのかというと、極端に言えば戦国時代に活躍したからです。

その時の功績を基に、子孫代々続いているわけです。

簡単に言えば、江戸時代は既得権益の社会だという事です。

この事は社会全体に渡って重要視されることになります。

既得権益を否定する事は、武士階級の支配を否定することにつながるからです。

そこで、「大八車」の禁止です。

輸送に便利な「大八車」を許せば、それまで輸送を担っていた人足や馬子などの既得権益が脅かされることになります。

ひいては江戸幕府の存立基盤を侵しかねないという事のようです。

大八車から江戸時代の特徴が垣間見えた話でした。


 それにしても、旅の一座が街道を行くというイメージは何処から来たんでしょうかね。


ではでは

ミニテルと昔読んだSF

ミニテルと昔読んだSFの内容から考えた話です。

 

 

ミニテル

 TVを見ていたら、「ミニテル」の話が出て来ました。

ミニテル」は、1980年代を中心にフランスで使われていたビデオテックス用端末の名前です。

 

引用元:ミニテル - Wikipedia

ビデオテックスというのは、簡単に言うと(実は、それ以上は良く知らない)上のような端末を、電話回線経由で情報センターに繋いで、様々なサービスを受けると言うものです。

元々は、電話帳を廃止して、その替わりをさせようとしたもののようです。

その後様々な情報を取り扱うようになり、フランスではかなり普及したようです。

日本でも、NTTが「CAPTAIN」という同じようなものを運営していました。

最終的には、いずれもインターネットに取って代わられてしまいます。

昔読んだSF

 「ミニテル」自体は使った事も無いので、そんなものもあったなぐらいのものですが、同時に昔読んだSFの作品を思い出しました。

ただ残念ながら、持っている本をひっくり返したりネットで調べたりしたのですが、題名も作者も見つけられませんでした。

内容的には、「ミニテル」のような端末が大量に使われている世界で、有る時端末が今でいうAIのような振る舞いを始めるという話でした。

AIのようにふるまい始めた理由が、大量の端末がつながったために人間の脳細胞のように働いたという事だったと思うのですが。

もっとも、最後がどいう終わり方だったのかも覚えていないので、よくある勝手な思い込みかもしれませんが。

現代ならば

 この作品を読んだ時には、まだPCなどというものも身近に無く、まあ夢物語だよねというのが正直な感想だった事も思い出しました。

ところが現代は、その夢物語だと思っていたものが、インターネットという形で実現しているでは無いですか。

インターネットにつながった大量のPCとスマホが存在しているわけです。

残念ながら今のところ、PCやスマホが勝手にAIになって返事をするようにはなっていませんが。

人為的に出来ないか

 ところで、地球外生命体を探したり、暗号通貨を手に入れたりするために、多数のPCを使って少しずつ計算をするためのシステムが存在しています。

PCを使っていても、常に100%活用しているわけでは無いので、その空いている時間を少しずつ使わせてもらって、全体で膨大な計算をこなそうというものです。

この考え方を活用して、PCやスマホを脳細胞に見立てて計算を割り振れば、全体を巨大なAIシステムに出来そうです。

まあ、割り振るべき計算がどのようなものかが分かっていないんですけどね。


 ターミネーターを作りたいような作りたくないような。


ではでは

文明と文化

文明と文化について考えた話です。

 

 

前回の記事

 前回の記事は、京都に多くの伝統的な分野で、その質、量ともに圧倒的な集積が有る事についての話でした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

その理由として、集積されたものの多くは人間の生命を維持するためには、特に必要の無いものであり、それを求める支配者層の人々がいたからだと考えました。

長きに渡って都だったので、そういった人々がいたという訳です。

ところで、多くの伝統的な分野での圧倒的な集積というのは、文化的なものが膨大にあると言い換える事が出来るでしょう。

今回の話は、以上の事を受けて、文明と文化について考えてみた話になります。

司馬遼太郎による定義

 文明と文化という事ですが、この二つの言葉に関しては、以前から分かっているようで良く分からないと思っていたのです。

たとえば、司馬遼太郎が次のように定義しています。

文明は「たれもが参加できる普遍的なもの・合理的なもの・機能的なもの」をさすのに対し、文化はむしろ不合理なものであり、特定の集団(たとえば民族)においてのみ通用する特殊なもので、他に及ぼしがたい。つまりは普遍的でない。
引用元:司馬遼太郎が語る「文明」と「文化」(アメリカ素描) - INVISIBLE D. ーQUIET & COLORFUL PLACE-

上手くまとまっているように見えますが、どうなんでしょう。

例えば、前回の記事で取り上げた、京都の和菓子、祇園等の花柳街、西陣等の服飾は、日本の京都という特定の集団における特殊なものとは言えるかもしれませんが、他に及ぼしがたい、普遍的ではないとは言えないでしょう。

これらのものは、明らかに日本人のみならず外国の人にも評価されていますからね。

文化とは

 ところが、前回の記事で考えた京都の話が、最初に書いたように文化についての話だと言う事になれば、それをそのまま文化の定義に出来るのではないかと思ったのです。

という事で、文化の定義は「特定の集団により生み出された、人間の生命を維持するためには、特に必要の無いもの」という事になります。

前回の記事でも書きましたが、生命を維持するのに必要が無いというだけで、そのものに価値が無いといった事を言っているわけでは無いので、念のため。

文明とは

 文化が以上のようなものだとすると、文明はそれに対するものとして、以下のように定義されることになります。

文明とは「人間の生命を維持するために必要なもの」。

文化、文明何れの定義にも出て来た「もの」ですが、単なる物体という事では無く(それだと、そこら辺の食べ物や水が文明という事になってしまいますから。)、「農耕」といった人間が作り出した「システム」のような物を想定しています。


 文明によって生きていくことが保障された上で、文化が生み出されたという事で、話としては納まりが良いと思うのですが。


ではでは

京都関連の番組を見て

京都関連の番組を見て考えた話です。

 

 

年末年始に

 この年末年始にも、TVで京都関連の番組をいくつか見ました。

基本的に京都を取り上げた番組は季節に関係なく有るのですが、特に年末年始は伝統的な行事を取り上げ易いのか、毎年色々と見掛けるように思います。

もっとも今年は、大河ドラマの影響で家康絡みの歴史物が多かったせいで、例年ほどでは無かった感じですが。

それでも、家康絡みでも二条城の番組になると、やはり京都ということなのがさすがというところでしょうか。

今日は、そんな番組をボーッと見ていて思いついた話になります。

圧倒的な集積

 京都関係の番組が多いのは、上に書いた理由以外にも番組が作り易いという点も見逃せないと思います。

何しろ、多くの伝統的な分野で、その質、量ともに圧倒的な集積が京都には有る訳で。

多くの寺社仏閣を始めとして、和菓子、祇園等の花柳街、西陣等の服飾、等々枚挙にいとまがありません。

これらを組み合わせる事により、いくらでも番組のシナリオを作ることが出来る訳ですから。

しかも、映像的な見栄えもバッチリですしね。

集積の理由

 その圧倒的な集積はなぜなのかと問えば、千年以上に渡って都で有ったからだという答えが帰ってくるでしょう。

その事に異議を差し挟む気は全くありません。

ボーッと番組を見ながらそんなことを考えていたのですが、その時にこれでは何も説明になっていないなと思ったのです。

そもそも都だとどうして集積が起こるのでしょうか。

天皇のお膝元だからというのはどうでしょう。

これも良く考えると、都だからというのを言い換えたにすぎません。

共通点は

 こういった時の常套手段は、このブログでも何回か出て来た、事象の共通点を探すという方法です。

その共通点を説明出来る法則を考えるわけです。

では、寺社仏閣、和菓子、祇園等の花柳街、西陣等の服飾の共通点はなんでしょう。

色々考えられる中で、誤解を恐れずに言えば、いずれも絶対に必要というものでは無いという事ではないでしょうか。

別にそれぞれの物に価値がないとか言っているわけでは無いので、誤解の無い様に。

極端な言い方をすれば、いずれも人間の生命を維持するためには、特に必要の無いものだという意味です。

求める人達が

 では、特に必要でないものがなぜ有るのか。

それは、そういったものを求めた人達がいたからという事になります。

当然それは、生きていくために必要では無いので、生きてくためでは無かったはずです。

そう、今日、明日をどう生きのびるかといった事を考えなくても良い支配者層の人達がいたからではないでしょうか。

都だから、そういった人々がいつもいますからね。

彼らの要望に応えるために、千年以上にも渡って様々なものが生み出された結果が、現在の圧倒的な集積になったという訳です。

再び誤解を恐れずに言うと、彼らの暇つぶしに付き合った結果という事が言えるかもしれません。


 コタツの心地よい暖かさにボーッとしていたら思いついた話でした。


ではでは

肉離れだと思っていたら

肉離れになったと思っていたら意外な真相だったという話です。

 

 

事の始まり

 しばらく前に、昼ご飯を食べた後に立ち上がろうとしたら、右わき腹の辺りにピリッと痛みが走ったのです。

その瞬間、やっぱりやったかなと思ったんですよね。

というのもその日の朝に、階段を下りていて最後の3段を踏み外しちゃったんですよ。

その時は、何とか右足でグッと踏ん張って、事無きを得たんです。

で、ホットしていたんですけど、やっぱりその時にわき腹の肉離れをやっちゃったかなと。

肉離れは経験あり

 わき腹の肉離れは、以前一度やったことが有り、それとおないような痛みだったので、そうに違いないと思ったのです。

取敢えず、液体タイプの消炎鎮痛剤を塗って様子を見る事にしました。

翌日の朝起きると、痛みがひどくなっていました。

と言っても、ここまでは想定内でした。

以前の肉離れの時にも、最初は次第に痛みがひどくなった記憶が有ったので、やっぱりかという感じでした

湿布を投入しても

 どうも液体タイプを塗るだけでは今一つなので、湿布タイプの物を買ってきて使う事にしました。

ところが3日ほどたっても、一向に良くなる兆しが無いのです。

それに加えて、湿布が合わなかったのか、かぶれたようになってくるしで、チョット困ったなという状態になってしまいました。

この辺りで少しおかしいなと思い始めました。

ついに真相が

 という事を知り合いに話したら、チョット見せて見ろというんで、「肉離れだから見ても分からないよ」と言いながら見せたところ。

「これは、帯状疱疹かもしれないよ」と。

彼は、帯状疱疹になった事が有ったらしく、その時の経験からピンと来たそうです。

私が、湿布によるかぶれだと思っていたのは、帯状疱疹に特有の斑点だったんですね。

彼に言われるままに医者に行って診てもらったら、やはり帯状疱疹でした。

専用の抗ウイルス薬を処方してもらって良くなりました。

皮膚科は思いつかない

 ところで、帯状疱疹の時は皮膚科なんですね。

分からなければ、皮膚科はなかなか思いつかないですよね。

皮膚というより、体の中の痛みがすごかったですから。 

特に今回は運の悪い事に、肉離れを疑うべき理由と、湿布のかぶれかもしれないという疑いが重なっていたので、彼に言われなければ、おそらく整形外科に行っていたでしょう。

それでも、観る人が見れば最終的には診断されていたのかもしれませんが。

終わりよければすべてよしでしょうか。


 今年最後の記事が病気の話というのもあれなんですが、私的にはこれで悪運を使い切って、来年は良い年になればなどと都合よく考えています。


それでは皆様、良いお年を。

DNAがプログラムならばCPUはどこに3

DNAがプログラムならばCPUは何処にあるのか考えた話3です。

 

 

前回の記事

 前回の記事は、通常のCPUの動作と比較することで、DNAをプログラムとするとCPUがどこにあるのかを考えた話でした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

その結論は、DNAの情報からタンパク質を生みだす部分がCPUに相当するものであり、我々人間だと兆の単位で数えられる、驚異的ともいえるマルチCPUシステムだというものでした。

この結論で、タイトルの「CPUは何処にあるのか」については、一定の結論が出た形になりました。

今回は、もしそうならば新たな謎が出て来るという話になります。

コンピューター

 前回の話では、CPUの行うフェッチ 、デコード 、実行 の三ステップとDNAからタンパク質とを作り出す過程が似ている事から、この工程がCPUに相当すると考えました。

そしてそのCPUの3ステップで行われる内容の本質は「算術演算」、「論理演算」の計算だという事でした。

しかしさすがにこれだけでは、ひたすら計算をするだけの機械になってしまいます。

実際にはその周辺に様々な機構を追加してコンピューターとして作られている訳です。

計算以外の機能

 一般的に、CPUがプログラムを実行するときには、その先頭から順番にフェッチ 、デコード 、実行 の三ステップを繰り返していきます。

そのプログラムがゲームだとすると、結果として最初にステージとマリオが表示されたりするわけです。

このままでは、なにも始まりません。

ここで、ユーザーがスティックやボタンを操作することで、マリオが走ったり跳んだりします。

そして、溝を飛び越えられないと、落ちて死んでしまうことになったりします。

これらの動作は、ユーザーのスティックやボタンの操作によって、CPUが実行するプログラムの位置が変化することで実現されています。

マリオが走ったり、跳んだりするプログラムや、溝を飛び越えたか調べるプログラムが書かれているわけです。

生物で考えると

 生物で考えると、これらの様々な部分的なプログラムに相当するのが遺伝子という事になります。

という事なのですが、そうなるとユーザーによるスティックやボタンの操作に相当するものは何なのでしょう。

それが新たな謎なのです。

それぞれの遺伝子からタンパク質が造られるというのは分かるのですが、どの遺伝子から作り出すのかを、どうやってコントロールしているのかが分からないのです。

これまでの記事で、DNAで遺伝子が存在する全体の2%の部分に対して、ガラクタと考えられてきた残り98%の部分にプログラム本体が有るのではないかと考えてきました。

スティックやボタンの操作に相当するものと、それらからのフィードバックがどうやって98%の部分に伝えられるのか。

そして98%の部分がどうやってタンパク質の作成をコントロールしているのか。

98%の部分となんらかの相互作用をしているものに答えが有るような気がするのですが。(最先端の研究を追っているわけでは無いので、実は発見されているのかもしれませんが。)


 今回は、とにかく分からないという話でした。


ではでは

DNAがプログラムならばCPUはどこに2

DNAがプログラムならばCPUは何処にあるのか考えた話2です。

 

 

前回の記事

 前回の記事では、DNAをプログラムとするとCPUがどこにあるのかを考える前提として、通常のCPUの動作をごく簡単に見てみました。

yokositu.hatenablog.com

CPUが行っているのは、本質的には「算術演算」、「論理演算」といった演算処理だという事でした。

そのために、一般的に、フェッチ (fetch)、デコード (decode)、実行 (execute) という三つのステップで行うという話でした。

今回は、以上の事を踏まえて、DNAのプログラムを実行するCPUがどこにあるのかを考えて見ます。

生物ではどうなっているのか

 CPUが行っている三つのステップに相当すると考えられるものが、生物にも存在するでしょうか。

先ず、フェッチに相当するのは、DNAの内容をmRNA(新型コロナ用のワクチンで有名になりました。)に写し取るステップという事になりそうです。

次に、そのmRNAの内容を読み取りながら、その内容に従ってタンパク質が作られます。
これが、デコードと実行のステップに相当すると考えていいでしょう。

タンパク質を作り出す部分が、生物におけるCPUだという事が言えるかもしれません。

演算結果の出力

 ここまでの話で、生物を動かしている中心部分は、DNAのプログラムとそれに従ってタンパク質を生み出すCPUと考える事が出来そうです。

そして、作り出された多種多様なたんぱく質が、様々な働きをした結果として我々の体が作られ、維持されているという事になります。

これは、コンピューターにおける、演算結果が画面やスピーカー、プリンタといったものに出力される事に相当すると言えるでしょう。

マルチCPU

 さて以上のように、DNAの内容をmRNAに写し取って、そのmRNAの内容からタンパク質を作り出すというのがCPUと同等の働きという事ですが、これらもまたそのためのタンパク質が行っています。

タンパク質ですから、理屈の上ではDNAの情報を基にいくらでも作り出すことが出来ます。

つまり生物の体の中では、大量のこれらのタンパク質即ち大量のCPUが働いているという事になります。

生物は、驚異的な数のマルチCPUシステムだという事が言えそうです。

例えば人間の体は約60兆の細胞で出来ているそうです。

その細胞それぞれに、1セットのDNAと上記のCPUの機能を果たす複数のタンパク質が存在するのです。

つまり、我々の体は、兆の単位の数のCPUが稼働するマルチCPUシステムだという事です。


 こんなデバッグ地獄必至のシステムのプログラム作成は絶対やりたくないです。


ではでは

DNAがプログラムならばCPUはどこに1

DNAがプログラムならばCPUは何処にあるのか考えた話1です。

 

 

前回までの記事

 前回まで3回に渡ってDNAの内容をプログラムと考えると、色々と腑に落ちるという話をしてきました。

yokositu.hatenablog.com

 

yokositu.hatenablog.com

 

yokositu.hatenablog.com

 

そうなると次は、DNAがプログラムだとすると、そのプログラムはどう実行されているのかという話になります。

今回は、そのあたりを考える前提として、コンピューターでプログラムがどう実行されているかを見てみる話になります。

プログラムの実行

 コンピューターでは、プログラムはメモリーと呼ばれる部分に格納されています。

ここしばらくの記事では、このメモリの代わりをDNAがしているのではないかと考えた訳です。

メモリにプログラムが有るだけでは何も起こりません。

そのプログラムの内容を実際に実行する部分が必要になります。

コンピューターではCPUがそれになります(勿論、実際にはほかにも色々と必要なのですが、話を分かり易くするために単純化しています)。

CPUが無ければ何も始まらないという事になります。

ちなみに「インテルIntel)入ってる」の「入ってる」というのは、インテル製のCPUが使われているという意味だったりします。

CPUの行う事

 そのCPUですが、日本語では「中央演算処理装置」と言います。

「中央」というのは、物理的に真ん中に有るという訳では無く、機能的な中心といった意味になります。

「演算処理」とは極々単純化すると、「算術演算」(「足し算、引き算、掛け算、割り算」の事。「足し算と割り算」しか出来ないものも有ります。)と「論理演算」(一言では説明出来ないので、申し訳ないですがネットで調べて下さい。)を行うという事です。

これらを、プログラムに従って実行していく「装置」という事になります。

実のところコンピューターのやっている事の本質はこれだけです。

その結果が画面やスピーカー、プリンタといったものに出力されたものを見たり聞いたりして、我々人間が、動画、音楽、書類、ゲームといったものとして認識しているだけで、コンピューター自らが何を作るかといった事を考えて処理をしているわけでは無いのです。

そういった出力された時にどうなるのかを考えて人間が作るのが、プログラムという訳です。

CPUはどう行っているのか

 CPUは、上のような処理を、一般的に、フェッチ (fetch)、デコード (decode)、実行 (execute) という三つのステップで行います。

フェッチは、メモリからプログラムを最小単位(命令といいます)ごとに取り出す動作です。

デコードは、取り出した命令を解析し、どういった処理を行うかを決定します。

実行は、デコードで決定された内容に従って実際に処理を行います。


 以上の内容を前提として、次回で生物の場合を考えて見ます。


ではでは

もう一つの人とチンパンジーの違い

前回に続き、人とチンパンジーの違いについて考えた話です。

 

 

前回の話

 前回は、人とチンパンジーの違いからDNAについて考えた話でした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

ここで取り上げた人とチンパンジーの違いは、両者の遺伝子の異なっている数よりも、脳の異なっている箇所の数の方が多いという点でした。

これをプログラムとして考えると、遺伝子をサブルーチンまたは関数だとすると、それを呼び出しているプログラム側が違っていると考えられるという話でした。

ところで、その話の基となった番組では、人とチンパンジーの違いについてもう一つの話が有ったのですが、それもまたDNAの内容をプログラムと考えたくなるものだったので、今回はその話です。

もう一つの人とチンパンジーの違い

 さて、そのもう一つの違いですが、それはDNAの内の遺伝子以外のこれまでガラクタと呼ばれた部分についてになります。

チンパンジーのDNAには、機能的に見て意味の無い繰り返しが続いている部分が有るようなのです。

特に、端の部分に有るという事でした。

ところが、この部分が人では無くなっているのです。

その違いが、人とチンパンジーの違いを生み出しているのかもしれないという話でした。

機械語というプログラム

 ここで、DNAの内容に似ていると考えている、コンピューターのプログラムについて少し書きたいと思います。

現在ではコンピューターのプログラムと言えば、「C言語」とか「Python」とかいういわゆる高級なプログラミング言語を使って作るのが当たり前になっています。

もっとも、そのプログラミング言語で記述したプログラムは、そのままコンピューターで実行出来るわけでは無く、実行可能な形にする必要が有ります。

それが、「機械語」とか「マシン語」と呼ばれている形式になります。(厳密な事を言うと、コンパイラインタープリタで少し違うとか有るのですが、今回はあまり細かい事は関係なので気にしないことにします。)

さらに昨今では、コンピューターのメモリ量、性能や、プログラミング用のソフトがほとんど無料で提供されているといった事も有って、プログラミング言語を使う事が当たり前になっているわけです。

手書きで作っていた

 しかしその昔には、これらの物が普通では無い時代が有りました。

その頃には、「機械語」によるプログラムを直接、紙に手書きで作っていたのです。

そんな開発環境で、プログラムの途中を変更することは一大事でした。

何しろ変更した部分以降を全てずらさなければいけないのですから。

その為、その作業を少しでも軽減するためのテクニックが有りました。

それは、あらかじめプログラムの中に変更用のプログラムを入れるための空き部分を作っておくというものでした。

変更の規模は前もって分かりませんので、多くの場合それはプログラムの最後に作られました。

具体的には、コンピューターが実行しても何も起こらない「機械語」を繰り返しておきます。(多くの場合00を並べておきます)

変更が必要になった時に、この部分にプログラムを追加し、変更部分から呼び出すようにする訳です。

ここまで書けば

 ここまで書けば、もう言わんとすることはお判りでしょう。

この「機械語」のプログラムの追加方法は、上で書いた人とチンパンジーのDNAの違いの話と同じに見えると思うのですが。

DNAに有った使われていない部分に、人になるための変更が追加されたという事のように見えます。

しかも、最初から用意されていたかのように、端の部分を使ってです。


 「機械語」では、計画的に変更用の部分を用意していた訳ですが、DNAはたまたまそう進化したんですかね。

謎ですが興味深い。


ではでは

 

 

 

人とチンパンジーの違い

人とチンパンジーの違いについて考えた話です。

 

 

もう一つの話

 前回は、TV番組の名内容から、遺伝子の数とそれから作られるタンパク質の種類の数があわないことと、プログラムにおけるサブルーチンや関数の使われ方との類似から、やはりDNAの内容をプログラムとして捉える事が出来るのではないかと考えた話でした。

 

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同じプログラムの中で、人とチンパンジーの違いについての話が有ったのですが、それについてもプログラムとして考えると理解できそうな内容去ったという事で、今回はその話です。

人とチンパンジー

 番組では、人とチンパンジーの脳に関係する遺伝子についての話が出て来ました。

それによると、脳に関係するエクソンそのものはどちらの種にも有るようなんです。

それでも両者の脳の機能は異なっています。

その両者の違いを生み出しているのは、エクソンの使い方の違いに有る様だという内容でした。

具体的には、両者の間で約700ぐらいの違いが有るようです。

使い方が違うという事は

 これを、前回の記事と合わせて考えるとどうなるでしょう。

エクソンを、プログラムにおけるサブルーチンや関数のようなものとして考える訳です。

そして、人とチンパンジーは、脳に関して同じエクソン即ちサブルーチンや関数を持っているという事でした。

そのエクソンの使われ方が違う箇所が700箇所ぐらいあるのです。

これは、言い換えると、そのエクソン即ちサブルーチンや関数を呼び出すプログラム側が違うということになります。

人とチンパンジーの違いは

 人とチンパンジーの遺伝子はほとんど同じだという話をよく聞きます。

99%近くが同じだとか言われています。

はじめてこれを聞いた時には、たった1%の違いで、人とチンパンジーほどの差が生まれるのかと驚いた記憶が有ります。

しかし、上のような点から考えると、両者の差は1%の差だけで生じたのではないと考えられそうです。

遺伝子即ちエクソンの差が1%しかなくても、それを利用するプログラムの側が変化していて、その違いこそが人とチンパンジーの差を生み出していると考えると、納得がいきそうです。

実は、全体としてはこれまで考えられてきたよりも多くの違いが有るのかもしれません。


 ますます、DNAの中身はプログラムと考えたくなる話です。


ではでは

やはりDNAはシステムROMか

DNAについて考えた話です。

 

 

過去にも書いた事が

 TVを点けたら遺伝子の話をやっていたので見ていたら、過去に記事を書いたことを思い出しました。

 

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題名そのままの内容で、一般的にDNAは設計図と例えられる事が多いですが、コンピューターを動かしているプログラムの入っているシステムROMのようなものではないかという話でした。

で、その番組の内容が、まさに記事の内容の続きのようなものだったので、今日はその話です。

遺伝子はサブルーチン?

 遺伝子はDNA全体の2%のエクソンと呼ばれる部分に存在し、残りの98%はイントロンと呼ばれ「何の働きもしないゴミ」と考えられて来ました。

上記の記事では、エクソンに遺伝情報全てが有る訳では無く、プログラムで言うならば、サブルーチンや関数といったものに相当し、ゴミ扱いされてきたイントロンがプログラム本体なのではないかと考えました。

イントロンがプログラム本体じゃないかという点に関しては、残念ながらまだそういった発見はされていない様です。

一方のエクソンに関しては、番組を見る限りでは、ますますサブルーチや関数に相当するという事を思わせる事実が分かって来たように思われるのです。

最初はどうやって

 エクソンには遺伝情報が有るということでなのですが、具体的にはどういったタンパク質を作るのかという情報になります。

エクソン部分からその情報を読み取って、それに従ってタンパク質が作り出されていきます。

話は逸れますが、実はそのタンパク質を作り出すのも別のタンパク質だったりします。

当然、そのタンパク質を作り出すタンパク質の設計図も別の遺伝子に有るという事になります。

こう考えると、最初にどうやってこのシステムが出来たのか訳が分からないのですが、この辺りは、残念ながらこれといった答えは今のところ持ち合わせていません。

タンパク質が多すぎる

 だからという訳でもありませんが、今回着目するのは、エクソンからつくられるたタンパク質が多すぎるという話です。

2%のエクソンは、数にすると約2万程だそうです、その一方で我々の体を構成しているタンパク質は約10万種類程有るようなのです。

先ほど書いたように、エクソンにはタンパク質の設計図が有る訳ですから、2万の設計図に対して10万種類のタンパク質は多すぎるのです。

この問題は以前から指摘されていましたが、研究によってその謎が解かれました。

それは、複数のエクソンの情報からタンパク質が造られるというものでした。

2万のエクソンから、いくつかのエクソンが選ばれ、その組み合わせが10万種類だったのです。

プログラムと同じ

 これプログラムと同じだと思うんですけど。

プログラムで、サブルーチンや関数を使う理由の一つは、プログラムの色々な部分で同じ内容の事を行う必要が出来た時に、その度に同じ内容を書くのは非効率なので、まとめるためです(まあ、人によっては他にも色々使い方はあると思いますが)。

そういった視点で、エクソンとタンパク質の関係を観ると、よく似ていると思いませんか。

まるで、タンパク質の共通部分をまとめる形で遺伝子が作られていて、それを組み合わせて様々なタンパク質が造られているように思えます。

でも、実際には単純なタンパク質から複雑なものへ進化しているはずなので、そのあたりは謎ですね。


 最後に書いた点は謎ですが、生物とコンピューターが結果的に共通点をもっているように見えるのが面白い所です。


ではでは