横から失礼します

時間だけはある退職者が、ボケ対策にブログをやっています。

戦国大名と「茶の湯」

戦国大名と「茶の湯」について考えた話です。

 

 

戦国大名と「茶の湯

 様々なタイプのいる戦国大名ですが、多くの大名が「茶の湯」を趣味というか、嗜んでいた事が知られています。

織田信長もその一人で、「名物」と呼ばれれる茶道具を収集していた事が知られています。

それもかなり沼ハマだったようで、あの本能寺の変の前日にも茶会を開いています。

茶会とは言っても現在の物から想像されるようなものでは無く、信長の集めた「名物」の自慢大会のようなものだった様です。

天下人の豊臣秀吉も「茶の湯」好きで知られています。

中でも、北野天満宮で開れた大茶会が有名で、参加者一千人以上という空前の規模だったようです。

これ程でなくても、多くの戦国大名に「茶の湯」に絡む話が伝わています。

なぜ「茶の湯」が好まれたのか

 なぜこれほどに彼らに「茶の湯」が好まれたのでしょう。

先ず、お茶は最初に日本にもたらされた頃には薬として飲まれていました。

戦国時代には広く飲まれるようになったとはいえ、まだまだ高価な薬といった側面も有ったと考えられます。

次に、これが一般によく言われる理由ですが、戦いに明け暮れた戦国大名が、刀を持つことが許されない茶室は、唯一命の心配をせず、心安らげる場所であったからというものです。

歴史的には、現代の「茶道」に通じる「わび茶」は、室町将軍足利義政の茶の師匠である村田珠光が始めたという事になっているようです。

足利義政の治世に、「応仁の乱」が始まっていますから、その後の時代である戦国時代には、「わび茶」がすでに有った事になります。

という事で、上記のように精神的な癒しを目的にしたという理由も有ったかもしれません。

しかし多くの大名はそうでは無かったのではないでしょうか。

茶道具を手に入れれば

 村田珠光が「わび茶」を始める前から、中国の茶道具「唐物」を蒐集し、これを使用して茶会を催すことが大名の間で行われていたようです。

「名物」を集めまくった信長もこの系統と考えていいでしょう。

どうしてそこまで「唐物」「名物」などの茶道具の収拾にのめり込んだのでしょう。

まあ、趣味、道楽としてはまったと言えばそれまでなんですが、もう少し違う要因も有ったように思うのです。

それは、この茶道具を集めて行う「茶の湯」というのは、今風に言えば、分かり易くマウントを取れるものだという事です。

これが、朝廷を中心とする勢力に比べると、成り上がりものに過ぎない戦国大名にとっては都合の良いものだったのではないでしょうか。

とにかく有名どころの茶道具を手に入れれば凄いという評価がされる訳で、優劣が分かり易いのです。

所謂「有職故実」とは関係のない評価軸を持つことが出来たわけです。

その頂点の出来事とも言えるのが、宮中で後にも先にもただ一度行われた、秀吉が正親町天皇にお茶を差し上げる禁裏茶会だったのではないでしょうか。

農民の出の秀吉が、天皇に対してマウントを取ったともいえるわけですから。


 あの有名な「黄金の茶室」も、究極のマウント装置と考えれば良いのかもしれません。


ではでは

「太陽活動と歴史」関連まとめを作りました

 「太陽活動と歴史」については、最初は戦国時代の始まりを説明するために考えたものでした。

その後、結構様々な歴史上の出来事を説明出来るのではないかという事で、思いの他それなりなボリュームになったのでまとめてみました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

 

「太陽活動と歴史」関連まとめ

太陽活動と歴史の関係について考えた記事のまとめです

 

 

太陽活動と気候

「太陽活動と歴史」という事ですが、そのベースには、太陽活動の変化により地球の気候が変動するという考え方が有ります。

その気候変動に対する人間の反応が、歴史に反映しているのではないかという訳です。

ただ、太陽活動と気候の関係については、完全に証明されているわけでは無いのですが、一応荒唐無稽ではないというレベルの仮説についても記事を書いています。

 

 太陽活動と気候

 

 

過去の太陽活動については、次の図を基にしています。

 

引用元:太陽予想? | でんきやかん - 楽天ブログ


ストーンヘンジ極大期~エジプト極小期

 ツタンカーメンの父と太陽活動

 

エジプト極小期~ホーマー極小期

 枢軸時代の同時性の謎

 釈迦、孔子、ソクラテスを生んだもの

 

ホーマー極小期~ギリシャ極小期

 稲作の波及と気候変動

 

ローマ極大期~中世極小期

 ローマ極大期以降の太陽活動と歴史

 邪馬台国東遷と太陽活動

 謎の4世紀と太陽活動

 古墳時代と太陽活動

 継体天皇と太陽活動

 仏教伝来と太陽活動

 遣隋使とはなんだったのか

 

中世極小期~中世極大期

 頻繁な遷都の意味するもの

 頻繁な遷都の意味するもの2

 陰陽師とはなんだったのか

 武士と太陽活動

 武士と太陽活動2

 

中世極大期~シュペラー極小期

 戦国時代は面白いが奇妙だ(前編)

 戦国時代は面白いが奇妙だ(後編)

 続・戦国時代は面白いが奇妙だ(前編)

 続・戦国時代は面白いが奇妙だ(後編)

 

シュペラー極小期~マウンダー極小期

 江戸時代と太陽活動

 

 

 

太陽活動と気候

太陽活動と気候の関係について調べた話です。

 

 

太陽活動の変化と気候変動

 ここしばらく太陽活動と歴史上の出来事について考えてきました。

基本的な考え方は、太陽活動の変化による気候変動が、我々人類の歴史に影響を与えて来たのではないかというものです。

その為必然的に気候変動に関しても、色々と調べる事になりました。

昨今の風潮から、当然のように気候温暖化絡みの情報が多くなります。

その中に、太陽活動との関係についての話にも、いくつか行きあたりました。

現状、温暖化に関するメインストリームは二酸化炭素原因説ですが、太陽活動の影響はどうなんだという観点から考えて見ましたというものです。

太陽活動の変化とエネルギー

 極々簡単にまとめると、太陽活動の変化による太陽から受けるエネルギーの変化量は1%に満たない量で有り、温暖化に対する影響は無いという事になるようです。

温暖化に関する話なので、温暖化に対する影響はないという事になっていますが、裏返せば、太陽活動が低下しても、エネルギー的には寒冷化しないという事になります。

これはチョットショックでした。

私的には、単純に太陽活動が低下するから、日光が少なくなって気候が変動するんだろう位に考えていました。

いろいろな情報を見ても、太陽活動と気候の間には関係が有るように見えるのです。

もっとも、古代まで遡って実際に観測できるはずは無いので、様々な間接的なデータからの推測でしかないのですけどね。

太陽活動の変化と紫外線量

という訳で、この辺りをもう少し突っ込んで調べてみました。

2つほど、太陽活動が気候に影響するのではないかという仮説を見付けました。

一つ目は、紫外線量の変化です。

エネルギー的には上に書いたようにそれほど変化が無いという事ですが、紫外線量に8%程度の変動幅が有る事が分かって来たようです。

これ程変化すると、紫外線による大気層へのエネルギー量が変化し、結果的に気候変動を生じる可能性があるかもしれないという訳です。

太陽活動の変化と雲の量

 二つ目は、雲の量の変化です。

昔、科学館だったか、何かの博覧会だったのか記憶があいまいなのですが、「霧箱」というものを見た事が有ります。

水蒸気の中を宇宙から飛んできた宇宙線が通過すると、その付近の水分子がイオン化します。

そのイオンを中心として水が集まり、見た目には宇宙船が通過した後に水滴の線が見えるというものです。

 

引用元:霧箱 - Wikipedia

これが上空で起きると、雲の発生する基となるという訳です。

一方、ヴァンアレン帯というものがります。

電子や陽子などが地球の磁場に捉えられて地球の周りを覆っているというものです。

これと衝突することにより、多くの宇宙線が防がれていると考えられています。
その時に生じるものの一つが、オーロラです。

ヴァンアレン帯の電子や陽子の供給源の一つが、太陽からの太陽風と考えられています

当然太陽活動が低下すると、これらの供給量も減る事になります。

そうすると、ヴァンアレン帯の影響力が低下し、通り抜ける宇宙線が多くなります。

その結果、雲の量が多くなり、雲により日光が反射される量が増え、気温が低下するという訳です。

以上の2つの説は、仮説の段階のようですが、太陽活動の変化が地球の気候に影響を与えるという考え方は、荒唐無稽ではなさそうです。


 やはり太陽の影響は大きく、「太陽神」というのもそれほど間違っていないのかもしれません。


ではでは

ツタンカーメンの父と太陽活動

ツタンカーメンの父と太陽活動について考えた話です。

 

 

ツタンカーメン関連の番組

 ここしばらくの間に、立て続けにツタンカーメン関連の番組を見ました。

余りにも有名な人物だけに、ハワード・カーターによる王墓の発見物語、墓あばきによる「王家の呪い」の謎、死亡原因の謎解き、ect.と、話題には事欠きません。

そんな中で、今回はツタンカーメンの父親の話を2つ立て続けに見る事になりました。

こういう、重なる時にはびっくりするほど重なるというのはままあって、そのたびに面白いと思うんですが、何かがある訳でなく、まあ偶然なんでしょうけど。

ツタンカーメンの父

 それはともかく、本記事の主役ツタンカーメンの父親ですが、アメンホテプ4世という名のファラオです。

エジプト史好きにとっては、その子のツタンカーメンに負けず劣らず知られている人物といってもいいでしょう。

彼は、基本的に多神教で有るエジプトの歴史の中で、一神教への改宗を強行した異端のファラオとして有名です。

アテン神と呼ばれる太陽神を唯一絶対の神とするというものだったようです。

その為、自らの名前を「アテン神に有益なる者」という意味の「アク・エン・アテン」と改名してしまう程でした。

改革の理由としては、それまでの首都テーベの町の守護神であるアメン神を祭る神官勢力が王を抑えるほどの強い勢力になったことを嫌い、宗教的権力を王権と一本化することを狙ったと考えられているようです。

その為、アメン神を祭るテーベの神殿を破壊し、その神官の職を廃止、アマルナに遷都するなどの強硬策を取ります。

太陽活動との関係

 といった内容の番組を見ていて、チョット説明としては苦しいんじゃないかと思ったのです。

「アメン神を祭る神官勢力が王を抑えるほどの強い勢力になったことを嫌い」という理由で行ったのが、「アメン神を祭るテーベの神殿を破壊し、その神官の職を廃止、アマルナに遷都」というのは、話として矛盾してますよね。

そこまで出来るのならば、それ以前に神官勢力が王を押さえる程強い勢力になる前になんとでも出来そうなものではないですか。

と考えたところで、これも太陽活動との関係で説明出来ないかと思ったのです。

先ずは太陽活動との時期的な関係を見てみましょう。

 

引用元:太陽予想? | でんきやかん - 楽天ブログ

アメンホテプ4世の在位は、紀元前1353年頃 - 紀元前1336年頃と考えられています。

図で見ると、1500年頃からエジプト極小期への急激な変化の期間に含まれそうです。

やはり関係が有りそうです。

仏教伝来との類似

 宗教と太陽活動については、仏教伝来との関係について記事を書きました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

太陽活動の低下による気候変動に、従来の宗教が対応出来なかったことが、仏教を受け入れる背景となったのではないかと考えました。

同じ事がアメンホテプ4世の宗教改革にも言えるのではないかと思うのです。

エジプト極小期への急激な変化による気候変動に、アメン神への信仰では対応出来なかったと考えられます。

それより前に、アメン神の神官勢力が王を押さえる力を持っていたのでしょうが、この事によりその影響力は低下していたと考えられます。

だからこそ、強硬な改革をすることが出来たのではないでしょうか。

ただ惜しむらくは、少しばかり亡くなるのが早すぎたという事でしょうか。

亡くなったのは30代半ばと考えられているようです。
その後を継ぐことになったツタンカーメンは、わずか9歳でした。

もう少し生きて改革を進めていれば、極小期を超えることが出来、その後の回復期を背景にエジプトの宗教史とツタンカーメンの人生は変わっていたかもしれません。


 にしても、いきなり宗教改革を断行したのですから、傑物で有ったのは間違いないでしょう。


ではでは

江戸時代と太陽活動

江戸時代と太陽活動について考えた話です。

 

 

前回の話とその次

 前回の話は、鎌倉時代室町時代の太陽活動との関係を考えた話でした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

同じ関東出でありながら、武骨な鎌倉時代とどちらかと言えば公家的な室町時代の武士のあり方が、太陽活動の影響を受けたものでは無いかという話でした。

室町の次は、前回の話にも書いたように戦国時代になる訳ですが、これについては以前に記事を書いています。

 

yokositu.hatenablog.com

 

 引用元:シュペーラー極小期 - Wikipedia

 

シュペーラー極小期へ向けての太陽活動の低下の局面で戦国時代が始まり、その後の回復期に信長、秀吉、家康等の一般に戦国時代と聞いて思い浮かぶ時期を経て、1600年関ヶ原の戦いでピークを迎えたという話でした。

江戸時代と太陽活動

 さて時代は徳川家による江戸幕府の時代へと入っていくことになります。

上の太陽活動の図を見ると1700年付近にマウンダー極小期(Maunder minimum)と呼ばれ活動が低下した時期が有る事が分かります。
より詳細には、1660~1715年の75年間程極小期が続いたようです。

この時期は、やはり気温が低かったようです。
例えば、現在では考えられませんが、淀川が大阪近辺で完全に氷結したこともあったようです。

この期間に社会的に不安定になり、結果明治維新につながりました。

という事であれば言う事は無いのですが、勿論そんな話はありません。

明治元年は1868年ですから、さすがにこの極小期の影響だとは考えられません。

という事で、どうも江戸時代においては、それ以前までの歴史に見られるほど太陽活動の影響がないように思われます。

技術と社会の発達

 これまで本ブログでは、太陽活動の低下による気候変動により、社会的に不安定になり、その結果歴史的な転換点となったと考えてきました。

社会的な不安定を招いた要因として、主に農業を始めとする経済活動に対する影響を想定してきました。

どうも江戸時代においては、こういった考え方が成り立たなくなっていたようなのです。

農業の不振と言えば飢饉という事になりますが、江戸時代を通じて最大の飢饉と考えられている「天明の大飢饉」は、1782年(天明2年)から1788年(天明8年)に発生しています。

上の図で見ると、太陽活動の回復期に当たっていることが分かります。
太陽活動が低下したために飢饉が発生したという訳ではないのです。

因みに「天明の大飢饉」については、浅間山アイスランドラキ火山等の噴火などがその要因として考えられているようです。

この事は、太陽活動の低下のような徐々に起こる変化には対応出来た事を示しているとも考えられます。

また「天明の大飢饉」においては、上杉鷹山米沢藩松平定信白河藩では餓死者が出なかったように、このころには飢饉も政策により避け得るものになっていたのです。

つまり江戸時代には、太陽活動の低下による気候変動による影響を、それまでの時代に見られた程には受けない程度にまで、技術的、社会的に高い水準に到達していたということだと考えられるのです。


 因みに、江戸時代の発展は、大量の武士が非生産的な軍事活動から行政的活動に転じた事が要因のひとつとして考えられているようです。
やはり平和な方が良いということですよね。


ではでは

武士と太陽活動2

武士と太陽活動について考えた話2です

 

 

前回の話

 前回は、武士の出現と伸長にも太陽活動影響が有ったのではないかという話でした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

引用元:シュペーラー極小期 - Wikipedia

Oort Minimumに向かう太陽活動の低下による気候変化により社会が不安定になり、それに対応するために必要とされた武力の担い手として「武士」が生まれてきたと考えました。

その後の活動の回復期の中で、「武士」が勢力を伸ばすことになります。

源平の権力争いに勝った源氏が極大期の付近で鎌倉幕府を開くことになった訳です。

鎌倉時代と太陽活動

 次の極小期のWolf minimumは、1340年付近と考えられているようです。

昔「一味散々北条氏」と覚えたように、鎌倉幕府は1333年に滅亡しました。

鎌倉幕府は、極大期のなかで始まり、次の極小期に滅亡した事になります。

つまり、鎌倉幕府は、その存在期間の間、太陽活動は低下する一方だったのです。

これまでの本ブログの考え方からすると、この間の気候は不安定だったと考えられます。
そして、その影響で社会も不安定だったという事になりまs。

それを裏付けるように、この間に上皇天皇隠岐に流されるという事件が発生しています。

更に、これは社会が不安定だったからという訳ではありませんが、2度に渡る「元寇」もありました。
これによって、社会が混乱したことは確かでしょう。

鎌倉時代の武士

 良く「鎌倉時代」を表すのに、「関東武士の荒々しく粗野な」と言った形容をされることがあります。

しかし、確かに最初の頃にはそういった面もあったかもしれませんが、それよりも上で見たように、その時代を通じて気候が不順で社会が不安定だったことによるのではないかと思うのです。

結果的に、鎌倉時代を通じて武力に対する需要が大きく、戦闘的な気質を保ったままだったという事では無いでしょうか。

1333年に滅亡した鎌倉幕府の後を継いだのは、勿論「室町幕府」です。

上の図をもう一度見ていただくと分かるように、太陽活動は1400年の少し前まで一旦回復をします。

1400年前後は、金閣寺一休さんで有名な足利義満が将軍だった時期で、室町幕府の最盛期と言っていいでしょう。

足利氏も関東武士ですが、義満が太政大臣という公家の頂点ににまで上り詰めた事を見ても分かるように、無骨で粗野という感じはしません。

やはり鎌倉時代の武士の有り様は、その時代の雰囲気を反映したものだったのでしょう。


 その後の次の1500年付近の極小期へ向かう中での気候変動による社会不安の中で、応仁の乱を経て戦国時代へ突入することになります。


ではでは

武士と太陽活動

武士と太陽活動について考えた話です

 

 

平安時代は太陽活動の回復期

 以前の記事で、平安京が千年以上都として続いた背景にも、太陽活動の影響が有るのではないかと考えました。

 

yokositu.hatenablog.com

引用元:太陽予想? | でんきやかん - 楽天ブログ

例の図に有る、中世極小期から中世極大期への回復期と重なった事によるのではないかという話でした。

回復により社会が安定したのが背景要因だと考えたわけです。

桓武天皇が、律令体制下の軍事組織である「軍団」を廃止してしまったのも、その傍証と言えると思います。
特にそのころには、社会が安定していたという事でしょう。

「武士」の登場と太陽活動

 その千年以上に渡る期間の中での最大のトピックは、なんと言っても「武士」の登場でしょう。

その出自に関しては、地方の領主層が武装化したものとか、清和源氏桓武平氏のような貴族層、下級官人層に求めるものとか、様々な見解が存在しています。

いずれにしても、歴史的には、桓武天皇が、律令制に基づいて置かれていた「軍団」を廃止したことにより生じた、武力の空白を埋める形で、検非違使のような令外官として表れてきたのが最初の例と言っていいかと思います。

武力が必要とされ、それに対応する形で生まれて来たのが「武士」だという事が出来そうです。

「軍団」を必要としない状態から、武力が必要とされる状態になったのですから、社会が不安定化したという事でしょう。

となれば、その社会の不安定化は、太陽活動の低下による気候変動によるのではないかという訳です。

中世極大期前の太陽活動

 という事で、上に挙げた図を見て見ると、中世極小期から中世極大期への途中がショルダーを形成しているように見えますが、いまひとつはっきりしません。

そこで、以前戦国時代の記事を書いた時に参照した、同時代のより詳細な図で見てみたいと思います。

引用元:シュペーラー極小期 - Wikipedia

 

1200年頃の中世極大期(Medieval Maximum)への途中の1100年の少し前に低下している部分(Oort Minimum)が有るのが分かります。

1000年前後が、藤原道長に代表される藤原政権の絶頂期であり、1100年の少し前には源氏が活躍する「前九年・後三年の役」があった事を考えると、この太陽活動の低下が武士の台頭の背景となったと考えられるのではないでしょうか。

この太陽活動の低下による気候変動で社会が不安定化し、それに対応するために「武士」による武力が必要されたという事です。

その後の回復期に、源氏と平氏の間で権力闘争があり、鎌倉に武士による政権が樹立されることになる訳です。


 気が付いたら、今年の大河ドラマを最後の2行で纏めていました。


ではでは

中国史書にみる「倭」3

国史書に書かれている「倭」について考えた話3です。

 

 

今回は『新唐書

 2では『旧唐書』に書かれた「倭」について考えて見ました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

今回は、「唐」のもう一つの正史である『新唐書』での「倭」の扱われ方を見てみたいと思います。

引き続き、2と同じ中国の歴史年表(部分)を見ながら進めます。

引用元:中国の歴史 - Wikipedia

 

新唐書』での「倭」

 『旧唐書』では、「倭国」と「日本国」の二つ別々の項目が建てられていたのですが、『新唐書』では「日本国」だけになりました。

「日本は、古(いにしえ)の倭奴なり」と最初に書かれており、「倭」が「日本」になったと認識していたという事になります。

その「古の倭奴」から「日本」へと至る歴史も書いてあるのですが、それが興味深いのです。

天御中主から彥瀲までの32世に渡って筑紫城に居し、彥瀲の子の神武が天皇を号として立ち、大和州を治めたと始まり、その後に皇極天皇までの天皇名が列挙されます。

その後は、光孝天皇までの各代の天皇について詳述されます。

皇極以降の各天皇については、遣唐使によってもたらされた情報に基づいていると考えられます。

では、それ以前の特に筑紫城云々はどう考えれば良いでしょう。
それに、神武東征はやはり有ったのでしょうか。

新唐書』は「宋」で作られた

 筑紫城は、九州の何処かと考えて間違いないでしょうから、天御中主から皇極天皇までは、『日本書紀』の神代と神武東征及びその後の各天皇の話に沿っているように見えます。

「日本は、古(いにしえ)の倭奴なり」と最初に書いている割には、邪馬台国を含めた中国との交流は一切触れずに、ほぼ『日本書紀』の記述に沿った内容になっている訳です。

この辺りは、2でも触れたように、五代十国時代に編纂された『旧唐書』が評判があまり良くなかったこともあって、「宋」の時代になって改めて『新唐書』が作られたという事と関係が有るようです。

「宋」の正史である『宋史』には奝然という日本僧が宋の太宗に献上した『王年代紀』というものが収録されており、その内容から『新唐書』も『王年代紀』を参照したと考えられている様です。

「宋」の時代には「日本国」しかないことは明らかですし、「唐」以前の記録を見ても「倭国」と「日本国」が並立したというような記録は無かったはずですので、『旧唐書』の記述は疑われていたのだと考えられます。

そこに、「宋」の時代になって『王年代紀』というものがもたらされたという事になります。

『王年代紀』で辻褄が合う

 『王年代紀』の内容を見てみると、筑紫城というところに居たものが、大和州に移ったと書いてあったと思われます。

筑紫城に居たのが「古の倭」であり、大和州に移った後で「日本国」と名乗ることにしたと考え、「唐」がその事を知らずに「倭国」と「日本国」が並立していたように勘違いしたのだと考えれば辻褄は合いそうです。

「宋」時代の『新唐書』の編纂者がそう考えて、『王年代紀』を参考にして書いたのが皇極天皇までの部分だったのだと思われます。

『日本書記』に沿っていると行っても、筑紫城に32世が居た云々というのは、かなり話が違いますが、これは奝然が、『日本書記』ベースの『王年代紀』を中国皇帝に献上するのに、中国大陸を作りもしない天地開闢以降の話をそのまま載せるわけにもいかないので、換骨奪胎したと考えるのが自然でしょうか。

ひょっとしたら、一部には筑紫城に32世云々という話が伝承していたという事なのかもしれません。


いずれにしても、やはり辺境の野蛮人の事は積極的に調べる気は無かったようです。


ではでは

中国史書にみる「倭」2

国史書に書かれている「倭」について考えた話2です。

 

 

今回は「唐」

 1では、「隋」の正史『隋書』にある「倭」についての記述と、当ブログの考えの整合性を考えて見ました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

「隋」が北方民族系の王朝で有った事から、それ以前の南北朝時代に南部の漢民族系の王朝に朝貢していた「倭の五王」に関する情報が少なく、600年以降に使者を送って来たのを、それ以前の「倭」と同一視したのではないかと考えたのでした。

今回は、「隋」に続いて建国された「唐」の正史における「倭」について考えて見ます。

今回も、中国歴史の年表(部分)を見ながら話を進めたいと思います。

 

引用元:中国の歴史 - Wikipedia

 

「唐」の正史は2種類

 その「唐」の正史ですが、『旧唐書』と『新唐書』の2種類があります。
どちらかが本物というでは事は無く、どちらも正史という扱いのようです。

旧唐書』は、「唐」滅亡後の「五代十国」の混乱の中で作られたもので、情報に偏りなどが見られ、評判があまり良くなかったようです。

その為「宋」の時代に改めて編纂されたのが、『新唐書』という事のようです。

そうは言っても、『旧唐書』の方が時代が近いだけに、資料的に見るべきところも有るようで、いずれも正史という事になっているようです。

旧唐書』に2つの国

 先ずは、『旧唐書』から見てみます。

旧唐書』における「倭」に関する記述のハイライトは、「倭国」と「日本国」の二つの項目が建てられている点でしょう。

しかも、「倭国」の項には、「倭国は古の倭奴国なり」とあり、古来朝貢をしていた国と書かれています。

さらに、「日本国」の項には「日本国は倭国の別種なり」という記述が有るのです。
続けて、「その国日辺に有るを以て、故に日本を以て名とす」と書かれており、日に近い所にあるから日本という事は、「倭国」より東に有ったと考えていいでしょう。

これは、「倭国」を「邪馬台国」の東遷時に九州に残った勢力、「日本国」を東遷したヤマト政権と考えれば、本ブログの主張にドンピシャではないですか。

「日本国」の朝貢は703年

 残念ながら、現実はそんなに甘くないようです。

「日本国」が初めて使者を送って来たのは、長安3年と書かれています、これは西暦だと703年になります。
これは、日本側から見ると第8回の遣唐使の年にあたり、飛鳥時代文武天皇の御代という事になります。

さすがに、この時代まで九州勢力即ち「倭国」が続いていたとは考え難いので、別の理由がありそうです。

この時の遣唐使に関しては、『続日本紀』に記事が有るようで、唐側からどこからの使者か尋ねられたのに対して、「日本国使」と返答をしたようです。

どうもこれが対外的に「日本」という国名を使った最初の記録らしいです。

「唐」は信用しなかった

 それを聞いた「唐」の側は、当然これまでにも何度も使者を送って来ていた「倭」が送って来たと考えていたと思われますので驚いたのでしょう、「倭」との関係を聞いたようです。

それに対して、「日本は元々小国だったが、倭国の地を併合したのです。」というような趣旨の返事をしたようですが、「唐」の側はこれを疑ったと記載されています。

その後使者を送ったりして、その真偽を調べたような事実もなく、これについてはそれ以上の話はないようです。

703年当時の「唐」は、一時的に上の年表に有る「周(武周)」呼ばれる時期でした。
これは、あの中国史上唯一の女帝である「則天武后」が帝位についていた時期で、「倭」のような周辺国の事まで気にかけている余裕はなかったのかもしれません。

旧唐書』の編者が、この辺りの資料をそのまま纏めたために、「倭国」、「日本国」の項目が並立することになったのだと思われます。

使者が認識していたという事は

 それにしても、日本からの使者が「日本は元々小国だったが、倭国の地を併合したのです。」と答えたという事は、そういった認識が有ったという事です。

これを、本ブログの主張に合わせて考えると、東遷した当初は小さな勢力であったヤマト政権が次第に勢力範囲を広げ、九州に残った勢力を併合した事が念頭にあったからだと考えると、辻褄が合いそうです。

加えて、ひょっとしたらヤマト政権が、九州に残った勢力を「倭国」と呼んでいたということなのかもしれません。


 それにしても中国は、周辺の野蛮人の国に興味無さすぎですよね。


ではでは

中国史書にみる「倭」1

国史書に書かれている倭について考えた話1です。

 

 

倭の五王」と遣隋使は同じ国から

 このブログでは、「倭の五王」は、「邪馬台国」が東遷する際に九州に残った勢力が使者を送った記録だと考えています。

その後継体天皇の時に、「磐井の乱」という形でヤマト政権に併合されたと考えます。

そのヤマト政権が、「倭の五王」から100年以上の後に遣隋使を送ることになります。

その送り先である「隋」の正史である『隋書』には、「漢」へ朝貢した奴国から「倭の五王」までをまとめる形で記載した後に、600年に使者がやって来たと記述がされます。

つまり、「漢」の時代から同じ「倭」が朝貢を行って来たと考えているわけです。

もっとも、正史である『隋書』は他の正史と同様に、「隋」の次の王朝で有る「唐」によって編纂されたものです。

従って、600年の使者以降の「隋」の時代の記述は、「隋」時代の記録を基に作成された物を基にしたと考えられますが、それ以前の記述は編纂時にまとめられた可能性が高いと言えます。

それでも、一続きで記述されているという事は、「隋」の時代にはそれまでの倭と同じ国から来たという認識が有ったと言っていいでしょう。

一見、本ブログの主張と相いれないように見えますが、どうでしょうか。

倭の五王」の向かった先

先ず「倭の五王」から考えて見ます。

ここからは、中国歴代王朝の年表(部分)を参照しながら話をすすめます。

 

引用元:中国の歴史年表 - Wikipedia

倭の五王」とは、五世紀を通じて「讃・珍・済・興・武」という倭の5人の王が中国の王朝に朝貢したという話です。

その記事が記載されているのは、正史の一つ『宋書』になります。

ここに出て来る国「宋」は年表中の「宋(劉宋)」と書かれている王朝となります。

同じ図の上部2段目に有る、「呉・漢(蜀)・魏」が所謂『三国志』の三国になります。

その三国のうちの「魏」に、倭の「邪馬台国」が朝貢したという事が書かれているのが『魏志倭人伝』という事になります。

その『魏志倭人伝』を著したのが、三国の後を継いだ「晋(西晋)」の陳寿です。

その後、「晋(西晋)」が倒れ、時代は「五胡十六国」と呼ばれる動乱時代に突入します。

その動乱から逃れてきた亡命者と共に、動乱が海を渡ってくることを恐れて、「邪馬台国」が、九州宇佐の地から畿内に東遷し、後のヤマト政権となったというのが、本ブログでの東遷説の概要になります。

東遷時に、全てが畿内に移った訳では無く、九州に残った勢力もあり、その勢力が中国に朝貢したのが「倭の五王」ではないかと考えたわけです。

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「晋(西晋)」が倒れた後、その一部は中国南部に「晋(東晋)」を建て、北部には北方民族が進入をします。

その後しばらく間中国では、北部の北方民族系の国と南部の漢民族系の国による南北朝時代が続くことになります。

その漢民族系の国である「宋」に「倭の五王」は朝貢しているわけですが、九州に残った勢力にも、倒れることになった「晋(西晋)」からの亡命者が関係していると考えられるわけですから、朝貢するとすれば当然の成り行きだったと言えるかもしれません。

遣隋使の向かった先

ヤマト政権が使者を送った「隋」は、図に有るように「晋(西晋)」以来久方ぶりに中国を統一した王朝でした。

その建国者である楊氏は、南北朝時代北魏の軍人の出で、鮮卑族だったという説が有力のようです。

つまり、「隋」は北方民族系の王朝だった訳です。

従って、南朝漢民族系の王朝で有る「宋」に朝貢した「倭の五王」に関する情報は、「隋」にはあまり無かった可能性が高いと考えられます。

宋書』に記事が有るので、漢民族系の国に「倭」という国が朝貢していた程度のことは分かっていたはずです。

どうやらその「倭」が使者を送ってきたようなのでどういう国なのか尋ねたら、とんでもない事を言うので改めさせた、というのが600年の記事なのではないでしょうか。

「隋」はあくまでも、それ以前の正史に見られる「倭」から使者が来たと思っていたのだと考えれば、本ブログの主張と矛盾しないことになります。


 ヤマト政権も「邪馬台国」が東遷したものだと考えれば、「倭」で間違っているわけではないのですけどね。


ではでは

陰陽師とはなんだったのか

陰陽師について考えた話です

 

 

太陽活動と平安京

 今回は、あの有名な安倍晴明を代表とする陰陽師たちが、なぜ平安時代に活躍したのか考えて見たいと思います。

先ずは活躍した時代の背景説明から。

前回までの話は、太陽活動の低下による気候変動の影響に対応するために、中国からの情報を基に遷都を繰り返した結果、平安京に落ち着いたというものでした。

その最後の平城京からの遷都は、特に国家運営の方法としての仏教に見切りをつけるものだったのでは無いかと考えました。

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かといって、平安京により完璧な律令国家と都を作り上げたことによって、その後千年以上も平安京が都で有り続けた訳でも在りませんでした。

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結論から言うと、たまたま平安京への遷都と相前後して、中世極小期と呼ばれている太陽活動の低下の時期が終わり、上昇へと転じた事により、気候回復し結果として社会が安定しからだと考えられるという訳です。

必要な事は学んだ

 当時の人々からすれば、太陽活動云々は分かるはずも有りませんから、平安京律令制によって国家運営の礎が出来たと考えても不思議はありません。

中国から必要な事は、全て学んだと考えたのかもしれません。

その事を示すように、中国から情報を得るために行われていた、遣唐使は839年の19回目を持って廃止となります。

20回目は、唐の滅亡により行われることは有りませんでしたし、その後建国された宋などへも送られることはなかったのです。

加えて、社会が安定していった事を示すかのように、792年に桓武天皇により一部を除き軍団が廃止され、軍事力を放棄してしまうところまで行ってしまいます。

仏教に代わって陰陽師

 こういった状況の中で、存在感を増して来たのが陰陽師なのです。

平城京からの遷都に関連して考えたように、仏教の影響力は小さくなっていたと考えられます。

なにしろ、奈良の大仏様まで作ってしまいましたから、いわば行くところまで行ってしまった訳です。

陰陽師は、その仏教に代わる形で受け皿として出て来た事になります。

ここまで来ればもうお分かりでしょう。

そう陰陽師は、太陽活動の回復の波に乗って、その影響力を拡大したのではないかと思うのです。

太陽活動の回復の波に乗った

 仏教の力に疑いを持った人々が、その代わりに国家機関の陰陽師に頼ったとして不思議は有りません。

その時に偶然太陽活動が回復し始めたのです。

そうなると、陰陽師の行為に対して、天候などの状況が悪化することが少なくなっていったと考えられます。

当然、上手くいった場合も、いかなかった場合も有ったと思いますが、それまでの状況が悪かった事を考えると、上手くいった事に注目が集まり易かったはずです。

そういう事が積み重なって、陰陽師への信頼が次第に高まり、その頂点ともいえるのが安倍晴明だったのだと思います。


 実は陰陽道では、太陽活動についても分かっていたという事ならば、それはそれでびっくりですけどね。


ではでは

頻繁な遷都の意味するもの2

古代の頻繁な遷都について考えた話2です。

 

 

前回の話は看板倒れ

 前回の記事は、「頻繁な遷都の意味するもの」という題名の割には、平安京が長く都であった背景にも太陽活動の変化が有ったのではないかという結論で、いささか看板倒れという内容になってしまいました。

 

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書いてるときはうまく纏まったと思ってたんですけどね。

後で読み返してみたら、途中が無くて、結論だけの話になっているじゃないですか。

これはきっと、ここ最近の異常な暑さのせいに違いありません。

という事で今回は、平安京に至る遷都について考えて見ます。

特に、唐から学んだ条坊制を取り入れたと考えられている、藤原京以降について見てみる事にします。

都を作っても

 以前の記事で、仏教の受容に太陽活動の低下による気候変動が影響していたのではないかと考えました。

従来の宗教的な手段では気候変動に対応出来なかったと考えられるからでした。

それも含め、実際の国家運営の方法を学ぶために送られたのが遣隋使という事でした。

 

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その結果が、国家鎮護仏教と律令体制を始めとする中国からの国家運営に関する情報で、その成果ともいえるのが、唐の首都長安のような碁盤の目状の条坊制を取り入れた都になります。

という事になるのですが、残念ながらそれでもってしても、気候変動には対応出来なかったはずです。

そのために、不安定な社会状態が続くことになり、様々な理由を付けて、次々と新たな宮都を作ることになったのではないでしょか。

藤原京

先ずは藤原京ですが、日本史上はじめての条坊制を取り入れた都という事になります。

しかしその藤原京は、わずかに16年ほどしか使われませんでした。

次の平城京は、文武天皇の生存中に造営が始まったようですし、藤原京で特に怨霊等が跋扈した訳でもなさそうです。

なぜ捨てる事になってしまったのでしょう。

引用元:藤原京 - Wikipedia

図を見ると、唐の長安などとは違い、内裏が都の中央部に有る形をしています。

これは、中国から持って帰った情報が間違っていたわけではなく、天武天皇が『周礼』にある理想的な都城造りを基に設計させたと考えられているようです。
背景には、天武天皇の唐に対する対抗意識が有ったようです。

当然のことながら、それによって気候的、社会的な状況が好転する事は無かったはずで、やはり最先端の長安に倣うべきだという事になったのではないでしょうか。

そのため、僅か16年で平城京に移る結果となったと考えられます。

平城京長岡京

 その結果として作られた平城京ですが、使われたのは70年間程でした。

その間には、東大寺の大仏建造に代表されるように、仏教を国家運営の方法として用いようと試みていたことが見て取れます。

その一方で、「彷徨五年」と呼ばれる、聖武天皇が恭仁宮と紫香楽宮、そして難波宮と転々と居所を変えたりした事があったりと、不安定な社会が続いていたことがうかがわれます。

そして、次の都として作り始めていた長岡京への遷都を中断する形で、平安京へと移る事になります。

途中で中断された長岡京ですが、これに関しては、造営長官の暗殺と、それに関係したとされ憤死した早良親王の怨霊を恐れてのものだと考えられています。

早良親王の祟りとされる事象の多くは、日照りや大雨などによる飢饉、疫病であり、気候不順と考えれば、これも背景は同じと考えることが出来そうです。

移る前に、早くもケチがついてしまったというところでしょうか。

仏教に見切り

 平安京への遷都の動機の一つとして、「奈良仏教」(南都六宗)の影響から逃れるためと言うようによく言われますが、実際にはもっと根本的なところで、仏教そのものに見切りをつけるといった考えが有ったのだと思います。

なにしろ、奈良の大仏を作り、全国に国分寺国分尼寺を作ったりしても、気候的、社会的に影響を与えることは出来なかったはずですから。

さすがに仏教を完全に禁止することは無かったのですが、国家を運営する手段としての仏教に見切りをつけたのだと考えられます。

その結果、唐の制度を取り入れた完成形の平安京になったことにより、その名の通り平安な世の中になりました、という訳では無かったというのは前回の記事で見た通りです。


 頻繁な遷都については、下々は大変だったろうと言われることが多いですが、気候不順の中での公共事業という面もあったかもしれないと、書いていて思い付きました。


ではでは

頻繁な遷都の意味するもの

古代の頻繁な遷都について考えた話です。

 

 

遷都が多かった

 前回の話は、太陽活動の低下から生じた気候的、社会的な不安定に対処する方策を学ぶために送られたのが、遣隋使だったのではなかったかというものでした。

 

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その後、遣隋使、遣唐使と継続し、中国を手本として律令国家体制を築いていくことになります。

その頃の特徴として、非常に宮都の遷都が多いという点が挙げられます。

645年に大化の改新の始まりとなった、蘇我入鹿の暗殺が行われたとされる「飛鳥板蓋宮」から始まって、794年の平安京遷都までの間に、数え方にもよりますが15回ほどの遷都が行われています。

引用元:n}En}N\ÅwK·éú{jdv

注:福原京平清盛によるものなので今回の話とは関係ありません。


平均すると10年に一回という事になります。

なぜ多かったのか

 この異常とも思える遷都については、教科書的には、律令国家への転換期で、国家が形成されていく過程のように説明されています。

それ以外にも、様々な理由が考えられています。

いわく、天皇の代替わりに合わせて、先代の死などの穢れを避けるため、怨霊などの祟りを逃れるためといった具合です。

何れも部分的にうなずける場合も有ります。

しかしながら、いずれも決定的なものとはなっていません。

なぜならば、最後に遷都された平安京が、その後1000年以上都で有り続ける事になったからです。

天皇の代替わり、先代の死、怨霊の祟りのいずれをとっても、平安京が都であった間にいくらでも例を挙げることが出来ます。

陰陽師の話を見ても分かるように、平安の人々がこれらの事に無頓着だった訳では無く、むしろ常に気にして生きていた人達だという事が分かります。

しかし、その為に平安京から別の都に移るといった事は有りませんでした。

やはり太陽活動の影響が

 どう考えれば良いでしょうか。

やはり太陽活動の変化が影響していたのではないかというのが答えになりそうです。

というわけで、いつもながらの図です。

 

引用元:太陽予想? | でんきやかん - 楽天ブログ

 

中世極小期と名付けられている変化が終わって、その次の中世極大期に向かっていく初めの頃に丁度平安京への遷都(794年)が対応しそうです。

仏教と律令制によるもではない

 勿論、極小期に合わせて遷都したという訳では無く、平安京への遷都と相前後して偶然中世極大期への変化が始まったということなのだとは思いますが。

これによって気候が、ひいては社会が安定化し、平安京が都として使われ続けたという事なのではないでしょうか。

それにいたる時代を、人間側の歴史として見ると、中国に学びながら律令制国家が成立していった時代という事になる訳です。

その結果、これ以上中国から学ぶことは無いと考えたのか、遣唐使は送られなくなります。

律令制国家が成立したから、社会的な安定な時代になったという訳では無かったのですけどね。

さらに、仏教の力によるものでも無かったのは言うまでも有りません。  

 

こう考えると、平安時代に軍事組織を廃止してしまったというのも分かるような気がします。


ではでは

 

遣隋使とはなんだったのか

遣隋使について考えた話です

 

 

ずっと送っていなかった

 遣隋使については、歴史の授業などでは、推古天皇の時代に隋の進んだ文化、制度等を学ぶために送ったといった感じで学びます。

そういう事だったとは思うのですが、なぜ突然遣隋使だったのでしょう。

その遣隋使は、『隋史』では600年に、『日本書記』では607年に初めて送られたという事になっています。

中国側が嘘を書く必然性も無い事から、600年に最初の使者が送られたと考えらています。

いずれにしても、それ以前に中国に使者を送ったのは「倭の5王」の時代になるので、
その最後の「武」が使者を送った478年から、100年以上間が空いていることになります。

さらにこのブログでは、「倭の5王」は、邪馬台国が東遷する際に九州に残った勢力が使者を送った記録だと考えていますので、畿内のヤマト王朝は、東遷以来初めて使者を送ったことになります。

謎の4世紀に東遷が起こったと考えていますので、それ以降初めてと考えると、その間約300年になります。

それ程の間使者を送る事もしなかったのに、どうして送る気になったのでしょう。

強国に朝貢したのか

 普通に考えると、久方ぶりに中国全土を統一した強大な王朝が出来たので、朝貢を行ったと言う事になるでしょうか。

ところが実際にはそうではありませんでした。

形としては朝貢を行ったという事になるのですが、これまでの倭王が行ってきた朝貢と違っているのは、「冊封」を受けなかったという点です。

この事を端的に表しているのが、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや、云々」で始まる有名な国書です。

対等な天子という立場だという事を表明しており、君臣関係を求めてはいません。

仏教伝来と対立

 前回の話で、「仏教公伝」以降の我が国での仏教の受容における太陽活動の影響について考えました。

 

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その結果として、受容賛成派の蘇我氏と反対派の物部氏の間で対立が生じる事になりました。

その対立は、次の飛鳥時代にも続いて行くことになります。

最終的に、587年の「丁未の乱」により受容賛成派の勝利で決着を見る事になります。

聖徳太子が送った

 その時に受容賛成派の蘇我氏側で活躍したのが、あの聖徳太子です。

戦いの際に、戦勝を四天王像に祈り、戦後に四天王字を建立したという逸話や、後年「三経義疏」と呼ばれる、お経の注釈書を書いたことからも分かるように、深く仏教を学んでいたようです。

しかし、深く学べば学ぶほど、聡明で有ったと伝わる太子には、一方で疑問も生じたはずです。

何しろ、仏教に国を救うような力は有るはずもないのですから。

そして、前回の記事で見たように、太陽活動は低下していく途中で有り、天候への影響は続いていたはずです。

勿論、それに対しても仏教は無力です。

そこに、中国から統一王朝「隋」の話が伝わってきます。

仏教政策を採っている事などが分かって、その詳細が知りたいと考えたのだと思います。

仏教で実際にどのように国家を運営しているのか、その方法を知るべく送られたのが遣隋使だったのです。


600年の時に隋側から散々な言われようだったのは、300年ぶりで朝貢の仕方がよく分からなかったから、というのは考えすぎですかね。


ではでは