横から失礼します

時間だけはある退職者が、ボケ対策にブログをやっています。

『続日本後紀』

続日本後紀』について考えた話です

 

 

続日本後紀

 六国史の4番目にあたる『続日本後紀』ですが、これまでの国史と異なり、仁明天皇の一代記となっています。

ひとつ前の正史である『日本後紀』の記事でも紹介した、仁明天皇関連の系図を見ていただきます。

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引用元:淳和天皇 - Wikipedia

 

54代仁明天皇の皇太子には、53代淳和天皇の息子恒貞親王が立てられました。

藤原良房が、この図にみられるような、平城天皇から続く兄弟血縁間での、皇位の持ち回りとも言える状況を打破して、仁明天皇の第一皇子の道康親王皇位につける一助として編纂したのが、『日本後紀』だったのではないかというのが、『日本後紀』に関する記事の趣旨でした。

道康親王は、良房の甥でもあります。 

 

yokositu.hatenablog.com

 

淳和上皇が840年に亡くなり、その後、嵯峨上皇も重い病に伏すことになります。

その時点で、仁明天皇と良房は、条件が整いつつあると考えたのだと思います。

そこに、彼らにとって予想外の事態が持ち上がったのです。

それは、承和の変です。

承和の変

 淳和上皇とその息子である恒貞親王も、勿論仁明天皇と良房の考えについては、十分すぎる程に分かっていたと思います。

その証拠に、何度も皇太子辞退を申し出て、嵯峨上皇に翻意させられていたようです。

そうこうしているうちに、父淳和上皇が亡くなり、嵯峨上皇も病に伏せってしまいます。

この状況に、恒貞親王の周辺が危機感を抱いたのは当然の成り行きとも言えます。

問題は、その上で彼らが取った方策でした。

恒貞親王を、東国に移そうとしたのです。
これは、皇太子を奉じた反乱と取られても仕方がないでしょう。

企ては、仁明天皇、良房側に知られるところとなり、嵯峨上皇崩御後に、関係者は逮捕、処分が行われました。

恒貞親王は、罪は無かったものとされましたが、皇太子を廃されました。

事件後、道康親王が皇太子となりました。

そこまでは考えていなかった

 以上が、承和の変のあらましですが、一般にこの事件は、藤原氏による他氏排斥の始まりであり、その後の藤原家の繁栄の基礎となったと考えられています。

確かに、結果を見ればその通りなのですが、実は仁明天皇も良房も、そこまでは考えていなかったのでは無いかと思うのです。

上にも書いたように、淳和上皇恒貞親王は、もともと皇太子を辞したいと思っていたわけです。

それを押しとどめていた嵯峨上皇が重い病に伏した状況では、ことさら策を弄せずとも、いずれ事態は、自分たちに都合の良い方に動くと考えていたのではないでしょうか。

策を弄した訳ではない

 そこに降って湧いたような、承和の変です。

後顧の憂いは絶たねばなりませんので、関係者は処分せざるを得ません。

しかしながら、これを外部から見れば、仁明天皇と良房側が、策を弄して邪魔者を排したように見えます。

上記したように、現代でも他氏排斥を狙ったと考える人も、少なからずいるぐらいですからね。

そのため、その疑いを払拭し、それを持って文徳天皇の正当性を示すことを目的に、仁明天皇一代の正史という形で編纂することになったのではないでしょうか。

因みに編纂には、良房自らが当たっています。


 これにてめでたしめでたし、とはいかなかったのですが、そのあたりは、次の正史の記事で。


ではでは

せっかくテレビが有るのだから

テレビの利用方法を考えてみた話です

 

 

最近のテレビ

 最近は、テレビを持っていないという人が、特に若い人を中心に増えてきているようですが、まだまだ多くの家庭に有る事は間違いないでしょう。

特に高齢者の家には有るはずです。

ただ有るだけではなく、地デジと液晶の時代になって以降は、最低でもハイビジョンの解像度は有る訳ですし、大きさも32インチが普通で、50インチ前後が当然のようになって来ています。

ブラウン管の時代からは、隔世の感が有ります。

これを、情報機器の表示用として使わない手はないと思うのです。

インターネット接続

 当然そういった事は誰でも考えるわけで、アップルのApple TV、アマゾンのFire TV Stick、GoogleのChromecast等の、テレビに繋いで使うタイプのものや、アンドロイドテレビのように内蔵したタイプの物などの、インターネットに繋ぐための機器が発売されています。

しかし、いずれも基本的に、YouTubeを始めとする配信動画や音楽を楽しむのがメインの機能で、テレビのチャンネルが増えたのと、さして変わりがない使い方が前面に押し出されています。

とはいえ、それぞれにブラウザの機能もあるようなので、あとは、Webカメラとマイクの機能を装備したらどうかと思うのです。

そうすることで、TVの画面上で、LINE、Twitterに加えて、Zoom等の機能も使えるようになります。

インターフェースを単純にすれば

 その上で、これらの機能を、リモコンからすべて使えるようなインターフェースにするのです。
具体的には、数字、方向、決定のキーだけで使えるようにすることを目指します。
日本語の入力も、ソフトウエアキーボードを上手く作れば、それなりになんとかなるはずです。

スマートフォンを使いこなすのが困難な高齢者でも、テレビのリモコンなら使えるはずです。
それすらも理解できないというのは、また別の話です。

そうなれば、Zoom、LINE、Twitterなどで、離れた場所に住む子供や孫などと気軽にやり取りが出来るようになります。

これらの機能を使った見守りのサービスなども可能でしょう。

オンラインショッピングも、ショップ側のアイデア次第で、いくらでも便利なものに出来そうです。

また、行政的にも、日常的に情報を流して、使ってもらうようにしておき、今回のワクチン接種の予約なども、その情報の中の一つとしてアクセス出来るように設計すれば、利用してもらえるものになりそうです。

上手くいけば、昨今のワクチン予約での、電話回線のパンクや、スマホで予約するのを代行するための窓口といった笑えない状況を、回避出来るかもしれません。

それはPCであってPCでない

ここまで読んで、現状販売されているPCでも出来るんじゃないかと思った人もいるかと思いますが、まったくその通りです。

プログラムさえ作れば、既存のPC、Webカメラ、マイクを使っても同じことが出来ます。

それを、パッケージとして誰でも簡単にテレビに繋げばいいだけにするというのが、この話のミソなのです。

スマートフォンやコンピュータというなにか小難しいものを使うという事は覆い隠して、テレビの機能の延長で、リモコンを操作すれば出来ると思わせることが大切です。

市場は有る

高齢者が使う事になれば、市場としては結構有望だと思うのですが。

先ずは、孫と簡単に顔を合わせることが出来るというところから訴求してはどうでしょう。

より若い層に関しても、そのまま使っても良いわけですし、別のインターフェイスに切り替えられるようにしても良いわけですから、テレワークも有る事ですし、当然動画も見れますし、結構いけるのではないかと思うのですが。

勿論、生徒、学生が、オンラインで学習するのにも使えるはずです。

大袈裟に言えば、テレビの数だけ売れる、かもしれません。

 中身はPCな訳ですから、その関連のメーカーの皆様どんなものでしょうか。
また、TVメーカーとしても悪い話では無いと思うのですが。


ではでは

パジャマスーツ流行らないかな

パジャマスーツから考えた話です

 

 

パジャマスーツ

 パジャマスーツというものを、ご存知でしょうか。

もう一年以上続く新型コロナ禍ですが、それに伴って日常が様々な変化をしてきているわけですが、そんな中の一つに、リモートワークというものが有ります。

会社まで行って、タイムカードを打つことで会社勤めが始まった世代から見ると、ずいぶんと変わったものです。

そんな状況に対応して、紳士服でお馴染みのAOKIが、昨年の11月に発表したのが『パジャマスーツ™』です。

何はともあれ、見てもらいましょう。

 

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引用元:世界中で話題騒然!20カ国以上で報道されたAOKIの『パジャマスーツ™』はかつてないほどの着用シーンを実現!~ビジネス・リモート・カジュアル・ホーム・アスレジャーもこれ1着で解決!~|株式会社AOKIのプレスリリース

 

パジャマのリラックス感とスーツのきちんと感を併せ持つ、という事で、日常のかなりの部分をカバーできるという触れ込みです。

ちなみに、パジャマスーツと呼んでいるのは、ジャケットとパンツのセットアップで、シャツ、ネクタイ、靴下などは別です。

生地的には、ジャージから始まり、サッカー素材のものなども有るようです。

レーニングウェア

 個人的な話をすると、基本的に芸術的とか、美的とかいったセンスには全く恵まれていないので、ファッションについてもほぼ無関心です。

それでも、仕事をしている間は、平日はスーツを着れば事足りたので、特に問題は無かったのです。

あとは、部屋着と若干の外出着が有れば何の問題も有りませんでした。

別にセンスが良いとか言われたいとも思ってないですからね。

それが、リタイアをしてみると、ほぼほぼスーツの出番は無くなってしまいました。

そうなると、毎日着るものが意外と頭痛の種なのです。

試行錯誤というほどの事も無いのですが、色々試した結果、現状ではほぼトレーニングウェア(いわゆるジャージです)で過ごすことが多いです。

まあ、細かい意味合いはちょっと違いますが、一時期言われた干物女のような生活をしているわけです。

日常的にもこれだけで

 真夏は別ですが、パジャマ替わりで問題ないですし、トレーニングウェアなので外にも出れます。

日常はこれで問題ないのですが、チョット改まった時に、何を着るかいちいち考えるのが面倒だと常々思っていたのです。

年取ってきた証拠だとか言われたりもしていますが、全くその通りかもしれません。

とにかく面倒だなと。

そこで、パジャマスーツです。

これで、そのあたりの事がかなりの割合で、解決出来そうじゃないですか。

一着もっていても良いかなと。

ただ、少しスーツに寄り過ぎているかなとも。

もう少し、カジュアル寄りのバリエーションもあると、普段使いも出来て、何着か持っていれば、ほかにいらないという感じになりそうなのですが。

 

 という訳で、こういった感じのものをもっと考えてもらえないでしょうか、デザイナーの皆さん。

 

ではでは

『日本後紀』

日本後紀』について考えた話です

目次

日本後紀

 『日本後紀』は、桓武天皇の治世の途中までを記録した形の『続日本紀』の後を受ける形で、桓武天皇の残りの治世と、平城、嵯峨、淳和の、三代の天皇の治世について纏めたものとなります。

淳和天皇の後を継いだ、仁明天皇の在位中の841年に完成しています。

これまで本ブログで考えて来た事から類推すると、仁明天皇またはその時の権力者の意向で作られたという事になります。

仁明天皇系図

 何はともあれ、仁明天皇と『日本後紀』で取り上げられた天皇の関係を見てみましょう。

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引用元:仁明天皇 - Wikipedia

一見して明らかなように、『日本後紀』に纏められた、平城、嵯峨、淳和の三代の天皇は、いずれも、その先代の桓武天応の子息で有り、兄弟の間で譲位が行われたという事になります。

皇位継承に絡んだ過去の事例から考えると、素直に嫡子へ継承するということがなく、いかにも皇位継承の争いが続いたように見えます。

安定していた治世

 現実は、嵯峨天皇が退位後も、上皇として仁明天皇の治世の途中まで存命で有り、影響力を保ったために、政治的には安定した期間だったようです。

そのような状況の中で、仁明天皇の皇太子には、淳和天皇の息子の恒貞親王が建てられました。

またしても嫡子では無かった訳です。

さて、仁明天皇の時代に権力を持っていたのは、藤原良房でした。

彼も、藤原氏の伝統を踏襲するかのように、妹の順子を仁明天皇中宮とします。

そして、その二人の間に、狙い通りに男子(後の55代文徳天皇)が生まれていました。

この後の文徳天皇への皇位継承の実現と正当化の一助とするために、編纂されたのが『日本後紀』だったのではないでしょうか。

皇位持ち回りの打破

 なんとか兄弟間での皇位の持ち回りのような状況を打破して、嫡子相続という形で、自分の甥を天皇につけることにより、権力をゆるぎないものにしようと考えたのだと思います。

それを裏付けるかのように、『日本後紀』が841年に完成した後、長きに渡って君臨した嵯峨上皇が842年に亡くなると、承和の変が起こり、恒貞親王が廃され、後の文徳天皇が皇太子となります。

良房の思惑通りに事は進んだのです。

大筋は、こういった経緯だと思われるのですが、残念ながら『日本後紀』に関しては、応仁の乱の混乱により、全40巻中の10巻しか伝わっておらず、加えて、淳和天皇の代の部分は全て欠けてしまっています。

従って、上記のような事を正当化するような内容が、淳和天皇の代の記述に有ったはずなのですが、その事を確認するための、肝心かなめの部分が欠けていて、確認の仕様が無いという事になっています。

何というか、隔靴掻痒の感は否めず、スッキリしません。

 


 何処かの旧家の蔵辺りから、ひょっこりと写本でも出て来ませんかね。

 


ではでは

英語、日本語、英語の順で

英語の学習法について考えた話です。

 

 

最近のYouTube

 現在ではYouTubeに、これまでは考えられなかった長時間の英語教材がアップされるようになって来ました。

これは、コンピューターを使った音声合成がかなり発展したことが理由の一つでしょう。
何しろ、Windows10にデフォルトで音声合成できる機能がインストールされているぐらいですからね。

例えば、「日常会話、テレビ・ラジオ番組」で話されている英単語の「92%」をカバーする英単語リストのNGLSというのが有るんですが、この動画も有ります。


www.youtube.com

その長さは、なんと3時間31分です。

これほどの長さのものは、人が録音するのは非常に大変でしょうし、無料で公開出来ないでしょう。

良さげな形式

 という訳で、色々と見て回っているのですが、その中で、これは良いんじゃないかという形式のものを見付けました。

それは、英語、日本語、英語の順で作られている形式のものです。

具体的には、こういったものです


www.youtube.com


これで、普通は別々に行わなければならない、リスニングと、音読またはシャドーイングのスピーキングの練習が一度に出来そうだと思ったのです。

最初の英語が流れる時に自然とリスニングをすることになりますし、その後の日本語で、その結果を確認できます。

更に次の英語に合わせて、音読、シャドーイングをすればいいわけです。

しかも、常に動画を見ている必要もなく、聞き取れなかったり、単語が分から無い時だけ見れば良いのです。

ながらで出来そう

 という事で、通勤時間や、家事をやる時などに、ながらでやるのにぴったりでは無いかと思ったわけです。

さすがに通勤時間に、声を出すのはまずいので(特にこのご時世ではね)、せいぜいつぶやく程度にはなるかと思いますが。

とは言っても、私自身はもう通勤することは無くなったので、専ら家事をやりながら聞く事になります。

時間的にも、毎日1時間2時間と時間単位で確保できそうです。
しかも、その他の日常を圧迫することも無くです。

便利な時代になりました。


 英語に関しては、相変わらず、屁理屈先行の実践不足な下手の横好きで、趣味の英語道まっしぐらなのですが、今回はどんなものでしょうか。


ではでは

もう一つの都合のいい話 その2

ビックバンについて考えた話 その2です。

 

 

前回のまとめ

 宇宙マイクロ放射というものがビックバンの証拠とされたのですが、同時に相対論との不整合という問題も生じたため、それを解決するためにインフレーション理論というものが考え出されます。

そのインフレーション理論が、あまりにも都合がよすぎて辻褄合わせにも思えるので、その代わりに相対論を考え成すという考え方も有るが、そうでもないよというのが、前回の記事の話でした。

 

yokositu.hatenablog.com

 

という訳で、今回は、そのそうでもないよの話です。

ビックバンの始まり

 宇宙マイクロ放射が、ビックバンそのものを示す物であればなんの問題も無いのですが、前回の記事にも書いたように、ビックバンが起きてから約38万年後の姿と考えられている訳です。

では、そもそもどうしてビックバンが起きたと考えたのでしょうか。

それは、ハッブルという人物が発見したことが基になっています。

ハッブルは、銀河が地球に対してあらゆる方向に遠ざかっていることを発見しました。

これを時間的に逆に考えると、離れていったものは集まっていくことになるので、最終的に一点から始まったと考えることが出来ます。

これとは別に、相対論の方程式からも、膨張する宇宙というものが導き出されていました。

これら二つの事を組み合わせることで、一点から始まって膨張を続ける宇宙というモデルが考えられ、その始まりにビックバンという名前が付けられたのです。

話が飛躍している?

 という訳なんですが、この話よく考えると、チョット飛躍した点があると思うのです。

銀河が地球から遠ざかっているので、昔にさかのぼると反対に集まって来るというのは良いでしょう。

でも、それが最終的に一点にまで収束するというのはどうなんでしょう。

常識的に考えて、逆方向に離れていくものを見て、過去の何処かの時点で、集まっていたと考えるのは普通だとして、それが一点になるとは考えないですよね、という事です。

まあ、理屈としては、相対論の方程式から考えれば、数学的に一点になる事も有り得るという事なんでしょうが、数学的に正しいからと言って、それが現実の世界でも起こったと考えるのはどうなんだという事です。

最初の一点は無い

 ではどう考えるのかという事ですが、先ず、現在膨張している宇宙が、遠い未来には、収縮し始めると考えます。

この辺りは、研究者の間でも議論の分かれるところですが、あり得ないことではないことのようです。

すると、一点に向かって収縮していきます。

しかし、最終的に一点になることはなく、どこかの時点で膨張に転じると考えるのです。

常識的に考えれば、こちらの方があり得るでしょう。

宇宙背景放射の示す状態に合う形で膨張に転じたと考えれば、最初の一点も、そして都合の良いインフレーション理論も必要無くなります。

さらに、最初の一点が無くなる訳ですから、その一点を記述できる理論がないといった問題も回避できることになります。

また、この問題に関しては、相対論の変更も必要ない事になります。

こういった考え方は、バウンス理論などと呼ばれているようです。

という訳で、一点から始まるという意味でのビックバンは無かったのです。


 という事は、宇宙は膨張と収縮を繰り返しながら、永遠に続くという事になりそうです。
それはそれで、新たな謎な訳ですが、こちらの方が納得感が有ると思うのですが。


ではでは

もう一つの都合のいい話 その1

ビッグバンについて考えた話 その1です。

 

 

もう一つの都合のいい話

 以前の記事で、近年の宇宙論のトピックの一つであるダークマターについて考えています。

 

yokositu.hatenablog.com

 

yokositu.hatenablog.com

 

観測結果が、現状の標準的な宇宙論と整合性が無いのを説明するために、見ることが出来ず、他の方法でも観測することが出来ず、重力のみ持っている、なんていうものを考えるのは、都合よすぎませんかねえ、という話でした。

実は、宇宙論がらみでは、もう一つ都合よすぎるんじゃないかと考えているものが有ります。

それは、インフレーション理論です。

ビックバンの証拠

一般的な宇宙論では、現在の宇宙は、約137億年前に1点から爆発的に始まったと考えられています。

いわゆる、ビックバン理論です。

この荒唐無稽とも思える理論(なにも無いただの点から、今現在の無数の星が存在する宇宙が出来たなんていうのは、控え目に言っても荒唐無稽ですよね。)の証拠と考えられているのが、宇宙マイクロ放射です。

宇宙マイクロ放射というのは、読んで字のごとく、特定の波長のマイクロ波が、宇宙あらゆる方向からやって来る事を指します。

近年になって、人工衛星により精密な測定が行われています。

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引用元:宇宙マイクロ波背景放射 - Wikipedia

 

どうしてこれがビックバンの証拠になるのかは、ここで説明できるほどにはよく分かっていないのですが、どうやら、これがビックバン後約38万年後の宇宙の姿という事のようです。

因みに、これを発見した人は、このことによりノーベル賞を受賞しています。

証拠だが問題も

 画像には色のムラが有りますが、10万分の1単位の違いを表したもので、実質的に均一と言っていいレベルになります。

この全体に均一というのが問題なのだそうです。

一点から始まったものが、約30万年後に、このような均一な形に成っているというのが、相対論的にはあり得ないことの様なのです。

これまた申し訳ないことに、内容がよく分かってないのですが、どうも、「いかなる物質も光よりも早く動くことが出来ない」という、相対論の大前提に引っ掛かるらしいのです。

という訳で、ビックバンを証明したものが、一方ではあり得ないという謎にもなったのです。

それに対する仮説が、インフレーション理論なのです。

都合の良いインフレーション理論

 その内容は、宇宙は、ビックバン開始後の10 のマイナス 44 乗秒後から、10 のマイナス 33 乗秒後までに(1兆分の1の1兆分の1の、そのまた10億分の1秒!まあ無茶苦茶短い時間ということです)、異常な膨張をしたというものです。

その膨張の大きさは直径 10のマイナス 34 乗㎝から 1 ㎝と言われているようです。
なんだ1㎝かと思われるかもしれませんが、スケール的には、砂粒が銀河ぐらいの大きさになったことに相当するようです。

光速より早く大きくなったような気がしますが、物質が大きくなったのでは無く、空間が大きくなったので、OKだそうです。(なにか騙されたような気もしますが)

空間があっという間に大きくなったので、その中は引き延ばされて、ほぼ均一になったのだという事のようです。

因みに、どのようにしてこんなことが起こったかという事については、よく分かっていないようです。
勿論、どうして程良いところで止まったかについてもです。

これは、ダークマターと同じような匂いがしないでしょうか。

あまりにも都合が良すぎるような気がしませんか。


 この話についても、相対論の方を修正すべきではないのかと、最近まで考えていましたが、違う見方も有ったという話は次回という事で。


 ではでは

『続日本紀』その3

続日本紀』について考えた話その3です

 

 

前回の記事の続き

 前回の記事その2は、桓武天皇が編纂させたと考えられる『続日本紀』が、桓武天皇の治世の途中までを含めた形となっており、加えて桓武天皇の在位中に完成したのは何故かというところで終わりました。

 

yokositu.hatenablog.com

 

という訳で、今回の記事はその理由を考えてみたいと思います。

桓武天皇は在位中だった

 と言っても、前の記事でも書いたように、『続日本紀』の完成した797年には、まだ桓武天皇は在位していました。

その状況で、臣下の誰かが、在位期間の途中までを、言わば私的な目的で纏めることは考え難いでしょう。

更にこれも前期記事で書きましたが、藤原百川、良継が亡くなった後に、天皇を差し置いて、そのようなことが出来る人物はいませんでした。

やはり、桓武天皇自らが纏めさせたと考えるのが妥当だと思われます。

そうだとすると、桓武天皇は、何の正当性を主張したかったかという事になります。

何が目的だったのか

 当然天皇の交代は無かった訳ですから、それ以外のエポックメイキングな出来事が関係していると考えるべきでしょう。

続日本紀』は、桓武天皇の治世の内の791年までを記録しています。

791年前後でエポックメイキングな事と言えば、これはもう「泣くよウグイス」で有名な、794年の平安京遷都以外にはないでしょう。

桓武天皇は、平安京への遷都の正当性を示すために、『続日本紀』を編纂させたのではないでしょうか。

平安遷都までに何があったのか

 何はともあれ、791年までの出来事を見てみます。

先ず、桓武天皇は、それまでの平城京から、山城の長岡京に遷都します。
理由としては、奈良仏教を始めとする、既存勢力から距離を置くためと考えられているようです。

遷都は784年でしたが、その翌年に、造長岡宮使の藤原種継が暗殺されるという事件が起きます。

この事件に、桓武天皇の皇太弟早良親王も関わっていたとされ、皇太子を廃されます。

その上、淡路国に流される途中で、絶食して亡くなってしまいます。

その後、皇太子に立てられた安殿親王の発病や、桓武天皇近親者の病死、疫病の流行、洪水などが相次ぎました。

こういった出来事を纏めることで、暗にそれらを人心一新するために平安京への遷都を行ったという形にしたかったのでは無いでしょうか。

相良親王の件の記述はない

 ところで、出来上がった『続日本紀』には、早良親王廃太子の件は記録されていません。

この事件については、後に作られた『日本紀略』の内容から、それに関する記述が、当初は『続日本紀』に含まれており、完成前に桓武天皇によって削除されたことが分かっています。

桓武天皇が命じて編纂させたわけですが、完成するまでの間に、上記した様々な出来事が、陰陽師により早良親王の祟りだと認定されました。

そのため、出来上がった『続日本紀』から、最終的に削除されたのだと思います。

平安京遷都の原因となった出来事に、桓武天皇に責任のあるものが有っては、いささかまずいですからね。

この事を見ても、『続日本紀』編纂の目的は、前後半部の別々の編纂などの込み入った成立過程を経たものの、最終的には桓武天皇による平安京遷都の正当化に有ったと考えられると思うのです。


 ここまでした平安京は、その後千年以上都だった訳で、やった甲斐が有ったという事が言えるのかもしれません。


 ではでは

『続日本紀』その2

続日本紀』について考えた話その2です

 

 

続日本紀』の後半部分

 前回の記事に続き、『続日本紀』の後半部分の編纂についてとなります。

 

yokositu.hatenablog.com

 

後半部は、Wikipediaによると、淳仁天皇から光仁天皇までを扱うものとして、桓武天皇の命で編纂されたようです。

ただし、調べた限りでは、桓武天皇の命というのが、何を根拠にしているのかは分かりませんでした。

それについては、一旦置いておいて、先ずは編纂の理由について見てみたいと思います。

後半の編纂理由

 光仁天皇までの記録を編纂しようとしたわけですから、その次の代の桓武天皇の正当性を主張する必要性が有ったという事になります。

桓武天皇は、先代の光仁天皇の長男ではあったが、母が皇族の出身では無かったために、皇太子になることは無いと考えられていたようです。

しかし、皇族の皇后を母に持つ皇太子の他戸親王が、その母と共に相次いで廃され、後の桓武天皇が皇太子になるという事が起きました。

尚、他戸親王とその母親は、同日に同じ幽閉先という、いかにもな状況で亡くなっていたりします。

この一連の出来事の背景には、藤原百川の影響が有ったと考えられています。

さらに、桓武天皇は百川の兄・藤原良継の娘を皇后に、百川の娘を夫人にそれぞれしています。

百川と良継なのか

 こうなると、百川か良継が、権力の継続を計って、編纂に関係したに違いないと考えたくなります。

しかしながら、現実には、両名とも桓武天皇の即位前に亡くなっており、編纂に関わることはあり得ないことになります。

百川の長男は、桓武天皇即位時にわずか7歳であり、常識的に関係したとは思われません。

更に良継には、有力な息子はいませんでした。

結局、百川、良継の二人が亡くなり、藤原家の後ろ盾を失った形の桓武天皇が、自らの立場を強化するために、編纂をさせたという事なのかもしれません。

前後半が揃ったが

 その際に、前半部分は、その1で触れた、未完になっていた藤原仲麻呂によって編纂されたものを使ったと考えられます。

これで前後半が揃って『続日本紀』が出来た、と言いたいところですが、そうは問屋が卸しません。

その1の最初にも書きましたが、『続日本紀』は、文武から桓武までの9代の天皇に関する歴史を扱ったものです。

そうなのです、桓武天皇についての記録も含まれているのです。

加えて、『続日本紀』が完成したのは、797年で、桓武天皇の在位は、781年 - 806年になります。

ということは、『続日本紀』は、桓武天皇の在位中に、その桓武天皇の治世の途中までを含める形で編纂されたという事になります。

これはどう考えれば良いでしょうか。

因みに、次の正史である『日本後紀』は、律儀にといって良いのか、桓武天皇の残りの治世の記録から始まっています。


 次回は、この桓武天皇の治世の途中までを含める形で編纂された理由について考えてみます。


 ではでは

『続日本紀』その1

続日本紀』について考えた話その1です

 

 

続日本紀

 『続日本紀』は『日本書紀』に続く『六国史』第二の正史という事になります。

文武から桓武までの9代の天皇に関する歴史を扱ったものとなります。

797年に完成しました。

編纂は、前半部と後半部に分けられると考えられているようです。

前半部は、文武天皇から、孝謙天皇の治世までを扱う形で作られたと思われています。

後半部は、淳仁天皇から光仁天皇までを扱うものとして、桓武天皇の命で編纂されたようです。

前半部は誰が

 ところで、私は、我が国の正史である「六国史」については、王朝の交代こそ無かったが、その時々において、正当性を主張したい者によって編纂されたのではないかと考えています。

 

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前半部と後半部それぞれについて、正当性を主張したい理由を持った人物について考えてみたいと思います。

先ず前半部ですが、文武天皇から孝謙天皇までという事なので、次代の淳仁天皇の時代に編纂されたという事になります。

ところで、この時代の権力は、藤原仲麻呂に有ったと考えてよさそうです。

前半部は、仲麻呂が作らせたのでしょうか。

淳仁天皇仲麻呂

 仲麻呂の権力の源泉は、何と言っても、淳仁天皇の先代孝謙天皇の母であり、先々代の聖武天皇の皇后であった、光明皇后(藤原家出身)の後ろ盾に有りました。

血縁関係としては、仲麻呂の父藤原武智麻呂光明皇后は兄妹であるので、甥と叔母という関係になります。

仲麻呂は、聖武天皇の遺言に反する形で、孝謙天皇の皇子に後の淳仁天皇を推した上に、自らの長男で故人の真従の未亡人を妻にさせる(もうチョット意味が分かりません。小説ならリアリティが無さすぎだとでも言われそうです。)といった形で、権力を固めていきました。

そして、孝謙天皇が譲位して、淳仁天皇が誕生することにより、仲麻呂の権力も頂点を迎えることになります。

なぜ完成しなかったのか

 こういった状況を正当化して、次代に継承するために、仲麻呂が主導する形で、後に『続日本紀』の前半部となるものの編纂が行われたと考えられます。

途中で、後ろ盾で有った光明皇后が亡くなった事も、影響していたかもしれません。

もちろん仲麻呂としては、前半部を作るつもりでは無かったはずです。

孝謙天皇までで、歴史書としてまとめるつもりだったはずです。

にもかかわらず前半部だけで形にならなかったのは、仲麻呂が、例の道鏡との対立から、いわゆる「藤原仲麻呂の乱」を起こした末に、権力を失ったことによって、中断せざるを得なかったためだと思われます。


 次回は、後半部分についての予定です。


 ではでは

ギザの3大ピラミッドの作り方

ギザの3大ピラミッドの作り方について考えた話です。

 

 

祝日は別編成

 NHKBSの放送は、祝日になると、編成が通中の平日とは違うものになります。

海外ニュースなどが亡くなり、再放送が多めになることが多いです。

今年のゴールデンウィークも傾向は変わらず、懐かしい番組をいくつか見る事出来ました。

3日には、ハイビジョン特集 エジプト発掘「ピラミッドはこうして造られた」が放送されました。

フランス人の建築家ジャン・ピエール・ウーダンが唱えている説に基づいて、ピラミッドを作った方法を検証してみるといった内容の番組です。

傾斜路を引っ張り上げた

 ピラミッドの大きくて大量の石を運び上げる方法としては、普通に考えれば、傾斜路を使えばいいと考えますよね。

昔のハリウッド映画によく出て来た、奴隷がムチ打たれながら、引っ張り上げているあれです。
もっとも、奴隷が使われていたというのは、現在では否定されているようですが。

しかしこの方法には、問題点が指摘されています。

人力で石を運び上げることの出来る角度で傾斜路を作っていくと、最終的に1.6kmの長さが必要になるのです。

そうすると、その傾斜路を作るための石が、ピラミッド本体と同じぐらいの量が必要になってしまうのです。

また、その石を切り出した場所が、ピラミッドから500mの位置だったことが分かっています。
それに対して、1.6kmの傾斜路を作ると、石切り場から傾斜路の端まで、差し引き約1kmを余分に石を運ばなければならないことになります。

ウーダンの説

 これらの不都合を避けることが出来る方法としてウーダンが考え出したのが、内部トンネル説なのです。

具体的には、ピラミッドの中にらせん状の空洞が有り、そこを使って石を運び上げることで、効率的に建設をしたというものです。

ウーダンの説がらみでは、以前の記事で、近年になって発見された謎の空洞の正体に関して考えてみました。

リンク:クフ王の大ピラミッドに見つかった、謎の空間の正体

これは、大ピラミッド内の大回廊と呼ばれている構造が、墓を構成する要素ではなく、建設に必要なものだったという彼の説を基にしたものでした。

内部トンネル

 最初に彼の説を知った時に、大回廊の使い方については、一理あるなと思ったのですが、内部トンネル説については、懐疑的でした。

次の画像は、三大ピラミッドで最後に作られたメンカウラー王のピラミッドのものです。

 

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引用元:メンカウラー王のピラミッド|メンフィスとその墓地遺跡 |世界遺産オンラインガイド

 

大きな傷がある事が分かると思いますが、これは破壊に失敗した痕だそうです。

これだけの傷をつけても、その中にトンネルのようなものは見つかっていないようです。

技術的に高度なものと考えられる内部トンネルが、3つ続けて作ったピラミッドの、最初のものには有って、最後のものには無いというのは、考え難いのではないかと思うのです。

傾斜路でもいけるのでは

 とはいえ、最も分かり易い傾斜路を使った方法では、上に書いたような不具合な点があるのも確かです。

ところが、今回再放送を見ていて、やはり単純に傾斜路でいけるのでは無いかという、仮説を一つ思いつきました。

先ず、傾斜路の長さと採石場の位置に関してですが、そもそもこれは、傾斜路を直線で作ると考えるから問題となる訳です。

ピラミッドと採石場を結ぶ500mの直線を底辺とした、他の2辺がそれぞれ800mの二等辺三角形を考え、その2辺に傾斜路を屈折する形で作れば良いのです。

これで、1kmもの遠回りは必要無くなります。

次に、本体と同程度の量の石が必要な点ですが、これは2つ目のカフラー王のピラミッドの建造に使ったと考えれば、解決しそうです。

それでも、カフラー王のピラミッドを作るための、傾斜路が必要になります。

勿論それは、最後のメンカウラー王のピラミッドを作るのに使い、最後に残った分は、周辺の施設を整備するのに使う事で、辻褄が合いそうです。


 ところで、今回の記事のきっかけになった番組ですが、もちろん再放送なのですが、初回の放送は、なんと2009年のようです。
10年以上も経ったとは、まったく月日の経つのは早いものです。


 ではでは

『日本書紀』が編纂された目的 その6

日本書紀』がなぜ編纂されたのか考えてみた話 その6です

 

 

今回も続きます

 前回に引き続き、タイトルに有る「編纂された目的」には直接関係は無いのですが、関連することを調べているうちに、思いついたことについてです。

さすがに、タイトルの付け方を間違えたかなと思っているのですが、
一応今回で打ち止めの予定ですので、お付き合いを。

という訳で、今回は『日本書紀』に見られる特徴の一つである、「一書」について考えてみたいと思います。

「一書曰」、「一書伝」

 『日本書紀』には、少なくない部分で、本文の後に「一書曰」または「一書伝」という書き出しで、こんな話も伝わっていますという形になっているところが見られます。

史書の中に、異説が併記されているという、あまり見られないものになっている訳です。

当然、当時の中国の歴史書にも見られません。

加えて、その理由について記した資料も無く、なぜこういった形式になっているのかについては、諸説が有るところとなっています。

『三国史』を参考に?

 例えば、古くは、鎌倉時代の『釈日本紀』に、『三国志』に対して宋(南朝)の裴松之が異説などを含めた注釈を付けたのを参考にした、との説が見られるようです。

これなどは、仮にも一国の歴史書を作るに際して、最初から注釈入りで作るというのはどうなの、という感じなんですが。
この辺りも、私が、『日本書紀』が外国向けに作られたものでは無いと考える理由の一つなんですが。

そもそも、裴松之の注釈も、最初から『三国志』に有った訳では無く、それを参考にしてというのは、いささか無理が有るのではないでしょうか。

ではどう考えるか

 ではどう考えるかという事ですが、私の仮説は、「そこまで深く考えていない、または、考える暇がなかった」、というものです。

その4の記事で、『日本書紀』に関しては、天武天皇が纏めさせた「帝紀」と「上古の諸事」に、天武、持統両天皇の分を追加して作ったと考えました。

 

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作らせたのは、藤原不比等であり、老齢の域に達した彼が、藤原家の将来を見据えての事だったとしたわけです。

そうすると、編纂を任された人々にとっては、許された作成期間が短かった事が考えられます。

従って、すでに存在する部分に関しては、纏め直すというよりは、そのまま使ったという事だったのではないでしょうか。

資料のまとめ方

 『日本書紀』の欽明天皇の記述に、『帝王本紀』を編纂するにあたり、「古くて真偽のわからないものについては一つを選んで記し、それ以外も記せ」という旨の内容が記されています。

この方針が、官僚制度の中で、その後も踏襲されていたということはあり得る話です。

つまり、天武天皇時代の『日本書紀』の基となった資料も、同様の形でまとめられていた事は十分に考えられるところです。

その結果が、「一書曰」や「一書伝」という記述だったのではないでしょうか。

そして、限られた時間制限の中で、そのままの形で纏めたために、歴史書としては異例の形式になったのです。

こう考えることで、その後の「正史」では、こういった形式が取られなくなったというのも理解出来ることになります。
編纂の時点から見て、それ程古い時期の事を扱っている訳では無いですからね。

 

という訳で、「一書」に関しては、それ程深い意味はなく、原資料を纏めた人々も、何が正解なのか分かっていなかったという事なのではないかという話でした。

 


 最初に書いたように、今のところ、他に思いついた話はないので、『日本書紀』に関してはこれにて打ち止め、の予定です。

 


ではでは

『日本書紀』が編纂された目的 その5

日本書紀』がなぜ編纂されたのか考えてみた話 その5です

 

 

一応結論は出たので

 『日本書紀』が編纂された目的という、タイトルの内容に関しては、すでにその3で考えたように、藤原不比等文武天皇の正統性を示すことで、藤原家の権力を保つために作ったという事で、一応結論が出ています(と私は思っています)。

 

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という事だとすると、これまで『日本書紀』に関して言われてきたことの中に、見直すことが出来る点がありそうなので、そのあたりを考えてみたいと思います。

天武天皇による国家事業

先ず、『日本書紀』といえば、『古事記』と共に、天武天皇が国家事業として編纂させたと言われています。

この中で『古事記』に関しては、以前の記事で、天武天皇ではなく、物部氏が自分たちを売り込むために、私的に作られたものだと考えました。

 

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加えて、『日本書紀』は上に書いたように、藤原不比等が作った訳ですから、天武天皇はいずれにも関係していない事になります。

すると、必然的に、天武天皇が、『古事記』を国内向け、日本書記を国外向けに、それぞれ作らせたという見方は、成り立たないことになります。
それどころか、国家的事業ですらなかったことになります。

この事は、天皇が命じた国家事業だとすると、それに関する記述が少なすぎるという事実とも符合します。
特に『古事記』に関しては、全くその編纂に関しての情報が無い事も、説明が付きます。

帝紀」と「上古の諸事」

 『日本書紀』に関しては、天武天皇がまとめさせた「帝紀」と「上古の諸事」に、天武、持統両天皇の分を追加して、作ったと考えました。

帝紀」と「上古の諸事」は、歴史書としてまとめられたものでは無く、天皇政権側でのみ閲覧出来る公的な記録のようなものだったのではないかと考えたのです。

日本書紀』の形に成るまでは、一般的には、その内容を知らなかった可能性が高いと考えられます。

そのことは、『日本書紀』の勉強会である「日本紀講筵」が、完成の翌年から行われたことからも伺われます。
まあ、これについては、文武天皇の正統性を、公式な歴史として知らしめるという意味があったとも考えられますが。

なぜ漢文なのか

 この事から、漢文で書かれているという特徴に関しても、一つの仮説が考えられます。

一般に、漢文を使っていることについては、『日本書紀』が国外向けに作られたためと考えられていますが、単にベースとなったものが公的な記録だったからであり、当然それは漢文で書かれていた、というだけのことでは無かったのか。

天皇に撰上するために作った訳ですから、追加した分も含めて、そのまま公的な文書として漢文で作成されたという事では無いでしょうか。

中国を始めとする国外に対して、『日本書紀』が提供されたという事実も無いようですし、そんな目的で作られた訳では無かったのです。

 


 勿論、その目的がどうあれ、『日本書紀』と『古事記』の価値が損なわれることが無いのは、言うまでも無いですけどね。

 


ではでは

 

『日本書紀』が編纂された目的 その4

日本書紀』がなぜ編纂されたのか考えてみた話 その4です

 

 

今回は編纂周辺を

 前回の記事で、藤原不比等が『日本書紀』を編纂させてまで、文武天皇の正統性を示す必要性について書きました。

 

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その中で、編纂を行わせたのは、不比等の晩年になってからだと考えました。

今回は、その編纂の周辺を、もう少し掘り下げてみたいと思います。

手本は『史記

 不比等が晩年になって、権力の存続を考えた時に、様々な方策を考慮したと思われます。

その中で、思い至ったのが、『史記』を始めとする中国の歴代の王朝の事をまとめた歴史書だったのではないでしょうか。

藤原鎌足の次男で有った不比等は、それに見合う教育を受けていたはずです。

大宝律令編纂において中心的な役割を果たしたと考えられていることからも、それなりのレベルの知識を有していたと考えるべきでしょう。

当然、中国における歴史書の、現王朝の正統性を示すためのものという有り方についても、知識が有ったはずです。

同様のものを作ればいいと思いついたのだと思います。

その上で、日本では前例がないという事になるので、参考にする対象は、最初の『史記』ということになります。

一から全て作っていない

 さて、『史記』をターゲットと考えた時に、不比等にはアイデアが有ったと思うのです。

一から全てを作らなくとも、天武天皇川島皇子以下に纏めさせた、「帝紀」と「上古の諸事」を利用すれば良いと思ったのではないでしょうか。

こうする事により、神話の5帝時代から始まる『史記』に匹敵するものが作れると考えた訳です。

当然、天武天皇より前までの部分が纏められているはずで、それに天武、持統の両天皇に関する部分を追加した上で、全体の体裁を整えたのが『日本書紀』だったのです。

舎人親王撰上の意味

 これを舎人親王元正天皇に撰上したのですが、これも正統性を確かにするために必要な事だったと考えられます。

舎人親王は、天武天皇の息子です、その息子が撰上した歴史書に、前回の記事で触れたように、皇位禅譲される人物だったと文武天皇は書かれていたことになります。

舎人親王が、兄弟の誰かではなく、天武天皇の孫の文武天皇への、その母持統天皇経由の譲位を是としたことになる訳です。

日本書紀』の編纂に、舎人親王が直接関わったのかどうかは定かではありませんが、彼が撰上することに大きな意味があったのです。


 『日本書紀』の成り立ちを、以上のように考えると、『日本書紀』に関する、謎とまでは言いませんが、気になる点が説明出来る点があると思うのですが、次回という事で。


ではでは

『日本書紀』が編纂された目的 その3

日本書紀』がなぜ編纂されたのか考えてみた話 その3です

 

 

今回は理由の回

 今回の記事は、藤原不比等を『日本書紀』の編纂の黒幕と考えた前回の記事を受けて、その理由を考える回となります。

 

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不比等が仕えた天皇

 理由を考えるにあたって、先ずは、不比等が仕えた、持統、文武、元明、元正の4代の天皇の関係を見てみたいと思います。

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引用元:元正天皇 - Wikipedia

 

天武天皇の死後、皇太子の草壁皇子が即位する前に亡くなってしまいます。

母である天武天皇后は、孫で後の文武天皇皇位に就けるために、それまでの間自ら皇位に就き、持統天皇となります。
この時に、草壁皇子の兄弟の高市皇子などが、皇位を継ぐことも考えられます。(先代の天武天皇も、先々代の天智天皇の弟ですからね。)
それを実現させないように、天武天皇の妻の持統天皇の即位という手を打った訳です。

その後、文武天皇に譲位します。
この時、文武天皇はわずか15歳であり、前例のない若さでの即位でした。

さらに文武天皇が25歳の若さで亡くなってしまうと、その子で後の聖武天皇に繋ぐために、母の元明天皇、姉の元正天皇と、まさになりふり構わずといった感じで代を重ねていきます。

不比等も関わっていた

 この流れには、不比等が大きく関わっていたと考えられます。

先ず、元々不比等草壁皇子に仕えていたと考えられており、その子である文武天皇皇位に就ける工作に、当然関わっていたと思われます(自分の将来を賭けたと言っても良いかもしれません)。

その文武天皇の夫人は、不比等の娘の藤原宮子であり、その間に出来た子が後の聖武天皇になります。

更に、聖武天皇にも、もう一人の娘光明氏を嫁がせています。

このようにして、外戚としての立場を作り上げることにより、自らの権力を作り上げていったのです。

日本書紀』の編纂

 そんな中、元正天皇の720年に、『日本書紀』が舎人親王より撰上されます。

上記記事でも書きましたが、不比等が亡くなったのが同じ720年です。
63歳でした。

日本書紀』は、彼の晩年に作られたという事になります。
勿論、いつ死ぬのかは分からない訳ですが、当時の平均から考えれば、いつ死んでもおかしくないという意味での晩年です。

晩年になって不比等が考えていたのは、上記のような無理に無理を重ねて作り上げてきたと言っても良い権力構造を、自分の死後の藤原家が維持していけるようにする事だったでしょう。

そのための方策の一つとして作らせたのが、『日本書紀』だったのではないでしょうか。

彼の権力構造の全ての始まりである、文武天皇の即位の正統性を示すために、その直前の持統天皇までの歴史を纏めさせたのだと思います。

日本書紀』での譲位の表現

 全30巻『日本書紀』の最終巻持統天皇の最後の記述は、
 天皇定策禁中禪天皇位於皇太子
となっています。

ここで注目すべきは、「禪」という文字です。
この文字は、「禅」の旧字体で、訓読みは「ゆずる」となります。
しかし「禅」なわけですから、多分に「禅譲」を意識していたと考えるべきでしょう。

ちなみに、持統天皇以前に、生前に譲位を行った天皇は35代の皇極天皇しかいません。

皇極天皇の譲位に関する『日本書紀』の記述は、皇極天皇の巻の最後に、
 庚戌譲位於輕皇子立中大兄爲皇太子
とあり、「譲」が使われています。

つまり、文武天皇は、天皇位を、単なる「譲」ではなく、「禅譲」されてしかるべき人物だという事です。

不比等は、この「禪」の一文字が欲しくて、『日本書紀』を編纂させたのだと思います。

その上で、天皇に撰上することにより、大和政権としての公式な見解としたということでは無いでしょうか。


 『日本書紀』が撰上されたのは720年5月であり、不比等が亡くなったのは720年8月です。
歴史小説ならば、『日本書紀』が出来上がるまでは、死んでも死にきれないとでも表現するところですが、果してどうだったのでしょうか。


ではでは