「宇宙論」関連の記事のまとめです。
「宇宙論」関連記事
ダークマターの存在への疑念から、相対論そのものを修正するべきでないかと考えた話になります。
防災、減災を目指した家について考えてみた話です。
防災という事になると、国レベルでは「国土強靭化」という事で、その名が示すように、どうしても大掛かりな方向に行きがちですが、常識的に考えて、全国津々浦々まで防災設備を完備することは不可能でしょう。
大規模な対策が必要でないとは言いませんが、強靭化すべきは「国土」ではなく、「国民」では無いでしょうか。
個々の人々の基本的な生活基盤が守られれば、社会としての復興も早いはずです。
という訳で、これまでいくつかの記事で考えた内容を基に、防災、減災を考慮した家を考えてみようという趣向です。
先ず家本体は、下記記事で考えたピロティタイプにします。
これにより、地震、洪水等の災害が派生した後も、出来る限りそれまでの生活を継続できることを目指します。
最低限として、もう一度家を再建しなければならないという状況を避けることを目指します。
ピロティの家は、一階部分が水没しても、生活出来なくなることを避けることが出来るというのが基本的なアイデアだった訳です。
静岡の「一条工務店」というところが、完全防水にすることで水害に対応する住宅を開発したようです。
開発された住宅は、最終的には水位が高くなると、船のように水に浮くようになっています。
さらに、流れていかないように、四隅のポールにバネを使って繋がっており、水が引いた時には、元の位置に戻るという事のようです。
よく考えたなという気はするのですが、泥や流木が下に入り込んだ時は、チョット困った事になると思うのですが、どうなんでしょう。
調べた限りでは、良く分かりませんでした。
それはそれとして、この技術を利用して、ピロティの2階より上の部分を防水仕様にすれば、より防災性能を高く出来そうです。
火事にならないように、また他所で発生した火事の延焼を防ぐ事も期待して、すべての部屋に、熱または衝撃により作動するタイプの消火器を設置します。
これは、災害発生時だけでなく、日常の失火防止にも役立つはずです。
災害の発生時のライフライン途絶を前提に、準備をしておくことにします。
水については、一部は、ペットボトルでローリングストックも行いますが、備蓄用のタンクも設置します。
火力については、カセットコンロを利用します。
出来るだけ日常的に使うようにし、ボンベをローリングストックで備蓄します。
電気は、ソーラーパネルを利用することになるでしょう。
出来れば、バッテリーを使った蓄電システムも欲しいところです。
家そのものではありませんが、当然食料の備蓄も必要になります。
食料に関しては、ローリングストックによって準備しておきます。
以上の内容で、必要な設備を標準として規格化し、大量生産をして安価に供給する、というのはダメですかねえ。
個性が欲しいという声には、オプションで対応すればいいと思うのですが。
ではでは
「戦国時代」関連の記事のまとめです。
戦国時代関連の記事は、以下の4つに分類されます。
結局の所、どうしても三英傑の存在感が,中でも織田信長が特に、大きいことになっています。
以下、それぞれに関連する記事をまとめます。
あれほど、全国で同時にと言ってもいいほど、戦乱が広がった原因について考えた記事です。
背景には気候変動が関係していたのではないかというのが、骨子となります。
織田信長は、実は全国を統一しようとは考えていなかったのではないかという仮説と、その事を背景とした信長の終活と本能寺の変に関する記事になります。
本能寺の変関連では、明智光秀の行動についても考えています。
中国大返しは実際どうだったのかと、全国統一と朝鮮出兵における信長の意志の存在についての記事になります。
家康が、天下統一ではなく、豊臣家との天下二分を、ぎりぎりまで考えていたのではないかという仮説に基づいた記事になります。
「邪馬台国」関連の記事のまとめです。
私の邪馬台国論は、以下の三つの論点からなっています。
以下、それぞれの論点に関連する記事をまとめます。
なぜ、「魏志倭人伝」の作者陳寿が、その内容を操作しなければならなかったのか、またその操作内容はどういったものなのかといった内容になります。
情報操作が有る事を前提にした「魏志倭人伝」の旅程の見直し、邪馬台国建国当時の政治情勢、宇佐神宮関連の話などから、邪馬台国と卑弥呼の墓の位置について考えた内容になります。
副産物として、前方後円墳の始まりについても考えています。
邪馬台国が4世紀に東遷した理由と、東遷を前提として、日本書紀を始めとした古代日本における幾つかの事柄について考えてみた内容となります。
餅を非常食としてはどうかという話です。
餅というと、私がまだご幼少のみぎりには、年末になると、近所のそこかしこで餅つきが行われたものでした。
我が家でも、父方の実家で餅つきが行われ、つきたてをたらふく食べた後に、正月用の餅を貰ってくるというのが、毎年の行事でした。
祖父母が亡くなったあたりから餅つきは行われなくなり、近所でも同じように、餅つきは無くなっていきました。
その代わりに、和菓子屋などに頼むようになり、年末になると、板状になった餅が配達され、それを切って、正月用にするようになりました。
その後、スーパーに餅が並ぶようになり、この習慣も次第に無くなりました。
何れにしても、餅は、年末に入手して、年が明けてから食べ始めて、1月中くらいに食べきるという感じのものでした。
現在では、餅は一年を通じて店頭に並ぶようになっていますが、私にとって餅は、今でも正月に食べるものという感覚が強い物です。
というか、昔は、早く食べないとカビてしまう危険が多分に有り、その印象が強く残っているせいで、とにかく早く食べきらないとと思ってしまうのです。
まあ、多少カビても食べてはいたんですけどね。(本当は、熱ではカビ毒は無くならないので、止めた方が無難らしいです。)
という事で、今年も、昨年末にスーパーで買って、正月から食べていたんですが、焼こうと袋から取り出し、個装を破ろうとして、そこに賞味期限が印刷されていることに気付きました。
2022.08とあって、へえ8月まで大丈夫なんだ、昔はよくカビたのに、どうなっているんだろう、と思ったのです。
で、なにか違和感を感じて、もう一度よく見ると、2022じゃないですか。
今年の夏どころか、来年の夏まで大丈夫という事ですよね。
何がどうなっているのか分かりませんが、便利になったものです。
来年の夏まで大丈夫という事は、その前の来年の正月までは全然大丈夫という事になります。
という訳で、この思いのほか長期間持つ切り餅を、非常食にしたらいいんじゃないかと思ったのです。
これから、来年の正月用の分を買っておけば良いわけです。
そして、今年の年末に、これまで通りに正月用の分、ただし再来年分を買います。
来年の正月には、今買った分を食べる事にします。
後は、毎年年末に餅を買い、正月には前の前の年の年末に買ったものを食べることにすれば、切り餅が常備されている事になります。
要は、年単位のローリングストックを行う事にするのです。
毎年正月には食べる訳ですから、忘れて期限切れになり、無駄にすることはあり得ません。
正月に餅を食べ忘れることは無いでしょう。
毎年食べているので、どのくらいあれば、どれぐらい食べられるかという計算も出来るはずです。
ちなみに、カロリー的には、切り餅2個でお茶碗一杯のごはん相当だそうです。
毎年のように、余った餅の消化法を考えるので、食べ方も色々とレパートリーが有るはずです。
値段も、最近はかなりリーズナブルになっています。
ただし、ライフラインが全て止まった時の事を考えて、カセットコンロと焼き網は用意しておきましょう。
火さえあれば、人間何とかなります。
という訳で、鏡開きも早々に、来年の正月分の切り餅を買ってきました。
というような内容で書こうと考えながら、昨日床に就いたのですが、今日起きたら、福島沖で大きな地震(東日本大震災の余震!?)が起きていたという事で、さすがにチョット、あまりのタイミングにドキッとしました。
被害に遭われました方には、お見舞い申し上げます。
ではでは
義経の伝説にも色々とありますが、最も興味深いのは、やはり生存説とそれに続く北行伝説でしょうか。
表向きは、頼朝の圧力を受けた泰衡が、衣川館の義経を襲い、自害に追い込んだという事になっています。
その実、義経は北に逃げ延び、蝦夷地、さらには大陸にまで逃げ延びたというものです。
実は、チンギスハンこそ義経だという説も有るのは、ご存知の通りです。
このような生存説が出来たのには、鎌倉時代に成立した歴史書「吾妻鏡」の記述も一役買っています。
「吾妻鏡」によれば、義経が自害した後、首実検のために、義経の首が鎌倉に運ばれました。
しかし自害した日が4月30日で首実検が6月13日であり、その間40日も経っています。
塩漬けにされていたとはいえ、5月から6月にかけての40日も経てば、首が腐ってしまうことが考えられ、義経と確認できない可能性が有ったと考えられます。
また衣川から鎌倉までは距離にして四百数十キロであり、40日掛かる所ではありません。
このように、義経の死を疑わせるような記述になっているのです。
更に、北の各地にも、義経が逃げて来たという伝説が残っており、北行伝説の根拠となっています。
ただ、幕府側が首実検により義経の死を認めたにもかかわらず、蝦夷の地まで逃げる必要が有ったのかというのは、疑問として残ります。
これらは普通、英雄不死伝説の一種だと考えられています。
しかし、それだけでは片付けられない点もあるのです。
例えば、北行に関して、各地に義経が逃げてきたという伝説が残る地を地図上で見ると、一本の道になっているのです。
引用元:(みちのものがたり)義経・北行伝説のみち 岩手、青森、北海道 「ヒーロー死なず」の真偽は:朝日新聞デジタル
英雄不死伝説の一種という事であるならば、もっと東北全域に伝説の地が有ってもおかしくないはずなのです。
これは、伝説の残った地の人々が、義経がやって来たと後の時代に残すような出来事が有ったと考えるのが自然ではないでしょうか。
以上のような点を説明出来る仮説を考えてみました。
伝説によると、生き延びた義経一行は、各地を経て宮古にたどり着き、「黒(九郎)館」とよばれる居館を構えたと伝わっています。
そして、この地に3年3ケ月滞在したとされます。
その間に当然、首実検の話も伝わったはずです。
もう追手が掛かることはないわけです。
そこで、密かに再起を図ったのが、3年3カ月ともされる長期間の滞在だったのではないでしょうか。
その後、再び北を目指す事になるのですが、その理由は何でしょうか。
死んだと思われているわけですから、北に向けて逃げる必要はなかったはずです。
宮古には、北へ向かった義経の徳をしのび、その甲冑が埋められた上に祠がたてられた、源義経が祭神となっている、判官稲荷神社があります。
ここが義経の墓なのではないかと思います。
再起を図ったものの、志半ばで主人を無くした家来一行には、頼朝の力の及ばない蝦夷地を目指すのが、残された最後の手段だったのでしょう。
そして、北を目指す訳ですが、その過程で、義経の名を使って逃避行をしたという事なのではないでしょうか。
宮古から北には、義経のいない義経一行が通って行ったことになります。
現在と違って、義経の顔が知られていたわけでは無いので、各地の人々は義経が来たことを信じたのだと思います。
結果として、北へと通じる一本の逃避行の道が残されたという訳です。
さすがに、チンギスハンは無いと思いますが、大陸に渡った家来はいたかもしれないと思っているのですが。
ではでは
「邪馬台国サミット2021」で出た話の覚え書きです。
NHKBSで元旦に放送された「邪馬台国サミット2021」については、そのの内容を基に、二つの記事を書きました。
特に前者では、三国志を研究している専門家(早稲田大学教授 渡邊 義浩)による、魏志倭人伝に情報操作が有るのでは無いかという話から、作者陳寿による改竄について考えました。
その専門家もよる情報操作に関する話の中に、覚えておいた方がよさそうな話がいくつかあたので、私の覚え書きも兼ねて、書いておきたいと思います。
その中で、陳寿による情報操作がされているのではないかとして、挙げられたのは、次のような点でした。
1.旅程
2.会稽東冶の東
3.鯨面文身
4.大人皆四五婦 下戸或二三婦
1.旅程というのは、このブログでも何度も話題にしてきた話で、大陸の東南方から大国が朝貢に来たように見せかけるために、魏の使者の報告書の旅程を改ざんしたのではないかというものです。
これに関しては、上記の「やはり魏志倭人伝は改竄されたのか」で検討しました。
2.会稽東冶の東というのは、邪馬台国の位置について記された文言になります。
会稽東冶というのは、当時の統治名であり、会稽郡東冶県を意味していると考えられています。
その具体的な位置は、次の図のようになります。
引用元:漢書地理志呉地
右下の島のような部分は台湾ですので、東冶の東というのは、九州よりかなり南方を指していることが分かります。
番組では、魏志倭人伝より古い中国の記録に、倭国は会稽の東に有るとの記述が存在することが指摘されました。
上の図を見てもらえば分かる様に、会稽郡の中心会稽は、東冶よりもかなり北に有り、この東だとすると、種子島の辺りになる事になります。
この事から、陳寿が、邪馬台国の位置が南に在る様に見せるために、このような表現をしたのでは無いかというのが、番組内での主張でした。
3.鯨面文身とは、顔と体に刺青をしているという意味です。
これについては、『礼記』(前漢)に「東に行くと顔に、南に行くと体に刺青が有る」という記述があり、台湾の東方とした邪馬台国には、顔と体に刺青をした人間が住んでいるはずという当時の常識に合わせたのではないかという主張でした。
4.大人皆四五婦 下戸或二三婦というのは、身分の高い人(大人)は4,5人の妻を持ち、普通の人(下戸)でも2,3人の妻を持っているという意味になります。
女性の比率が、異常に多い事になります。
これについては、『周礼』(儒教経典)に中国で1対1の男女の比率が、遠くなるにつれ(野蛮になるにつれ)女性の比率が多くなると書かれていることを挙げ、これに合わせるように話が作られたという主張でした。
簡単には確認が出来ない
以上が番組内で主張された、陳寿による情報操作のあらましです。
私的には、これまで陳寿が改竄したのは、専ら旅程だと考えて来ましたが、その他の部分にも、辻褄を合わせるために手を加えていたというのは、納得のいく話です。
しかも、全てが邪馬台国を南方にある様に見せるためだという事で、意を強くしました。
しかしながら、これはさすがに、簡単に確認が出来る話でもないので(『礼記』、『周礼』を読むというのはねぇ)、最初に書いたように覚えとして残しておくことにします。
それにしても、「情報操作」というのは、さすがに上手い言い方だと思うので、これからは「改竄」の代わりに使おうかなと思っています。
ではでは
アニメの主題歌とOPについて考えてみた話です。
昨年2020年の第62回レコード大賞はLisaの「炎」でした。
なんと、アニメの主題歌(正確には劇場版ですが)が大賞を取りました。
アニメの主題歌がレコード大賞を取るというのは、史上初めての快挙だと思ったのですが、よく考えると、ちびまる子ちゃんの「おどるポンポコリン」が有りました。
ところで、私がSF読みだという事は、過去の記事でも何回か書きましたが、それもあって、いい歳になった今でも、アニメ、特に宇宙物とロボット物が好きで、毎シーズン面白そうなのは見る事にしています。
最近で面白かったのは、2019年に放送された「彼方のアストラ」でしょうか。
あらすじを引用します。
西暦2063年、「大自然の中、生徒だけで5日間を過ごす」という惑星キャンプの目的地である惑星マクパで、ケアード高校の生徒たちが遭難する。謎のワープにより宇宙空間に投げ出された生徒たちは、運良く宇宙船を発見して航行エネルギーは確保できたものの、食料などが3日分しかなく帰還不能…という絶望的状況に置かれる。
それはそれとして、上で思わずも、「アニメの主題歌」と書きましたが、アニメの主題歌については以前から思うところが有るのでそれについて書きたいと思います。
とにもかくにも、先ずは大賞曲「炎」歌詞の冒頭を見てもらいましょう。
さようなら ありがとう 声の限り
悲しみよりもっと大事なこと
去りゆく背中に伝えたくて
温もりと痛みに間に合うように
このまま続くと思っていた
僕らの明日を描いていた
呼び合っていた 光がまだ
胸の奥に熱いのに
鬼滅の刃を観た後でこの詞を読むと、各々の人が、色々な場面を思い浮かべるでしょう。
逆に言うと、具体性に乏しいと言えば言えるのも確かです。
次に、今現在もリメイク版が作られ、老若男女に幅広く知られていると思われる、宇宙戦艦ヤマトの1974年テレビ版の主題歌、その名も「宇宙戦艦ヤマト」の冒頭が次になります。
さらば地球よ 旅立つ船は
宇宙戦艦ヤマト
宇宙の彼方 イスカンダルへ
運命背負い 今とび立つ
必ずここへ帰って来ると
手をふる人に 笑顔で答え
銀河をはなれ イスカンダルへ
はるばるのぞむ 宇宙戦艦ヤマト
これだけで、どんなアニメなのか、分かりますよね。
主題の歌というからにはこうでなきゃと思う訳ですよ。
極端なことを言えば、「炎」の歌詞は、宇宙戦艦ヤマトの主題歌でも行けそうですよね。
最近は、こういった主題歌が多いように思います。
いつ頃からかはよく分かりませんが、最近では、主題歌と言わずにオープニングテーマ(OP)と呼ぶことが多いように思います。
これは、最近では、OPが単なるアニメの主題歌ではなく、経済的な面からか、それ自体が単独の楽曲としての面も要求されているためでは無いかなと思っています。
楽曲として売るためには、あまりにもアニメの内容に即した具体的な歌詞だと、幅広く訴求しにくいというのは分からないでもないです。
それでも、最近の歌がしばしば初見(初聞?)でよく聞き取れない事が有る年寄りとしては、オープニングテーマではなく主題歌をと思ってしまうのです。
鬼滅の刃のセカンドシーズンでは、思い切り主題歌した、子供も歌いやすいOPというのも面白いと思うんですが。
ではでは
前方後円墳のあの形状が、どのように始まったのか考えた話です
前方後円墳の形に関しては、以前の記事でも一度考えたのですが、その時には、あのデザインそのもののインパクトが大きかったのではないかという結論でした。
まあ、はっきり言えばよく分からないという事です。
改めて、あまりにも有名なその形状を確認しておきましょう。
ここでは、外堤、周濠、陪塚、造り出しなどは無い古墳も多い事から、それらを除いた、前方部と後円部からなる部分に注目したいと思います。
この独特の形状が、どのようにして出来上がったのかを、もう一度考えたいと思います。
前方部、後円部という名称からも分かる様に、一般的に台形の部分が前で、円形の部分が後ろだと考えられています。
この組み合わせに関しては、一般に次のように説明されます。
現在の研究では、平面では円形をしている後円部が埋葬のための墳丘で主丘であり、平面が撥形・長方形・方形・台形などの突出部をひっくるめて前方部と呼ぶ。前方部は、弥生墳丘墓の突出部が変化したもので、もともと死者を祀る祭壇として発生・発達とする説や葬列が後円部に至る墓道であったとする説があり、次第に独特の形態を成したと考えられている。
引用元:前方後円墳 - Wikipedia
という事です。
それにしても、上の説明においても、様々な理由が上げられていますが、いずれもその用途に関する考察が主であり、どうして円形と方形の組み合わせになったのかと言う説明には成っていないように思えます。
さて前の記事で、卑弥呼の墓と邪馬台国について、卑弥呼の墓=宇佐神宮の北西側の低地に広がる邪馬台国=宇佐市南宇佐という位置関係に有ったのではないかと考えました。
前期古墳時代までは、低地を見下ろすような地形に立地が多く、首長クラスでは、治めていた場所を見渡すような場所に作られていると考えられており、卑弥呼の墓の場合も同様に考えられるのではないか、というのを根拠としました。
という事は、裏を返せば邪馬台国の人々は、日々折に触れて卑弥呼の墓を見上げていた事になります。
卑弥呼の墓が宇佐神宮だと考えた時に、赤色立体図を用いました。
その時に使用した図が次のものでした。
出典:「地理院タイル」(https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html)
緑色の円は、卑弥呼の墓の円墳に当たる部分を示すために、私が追記したものです。
この赤色立体図を始めてみた時には、正直これは円墳ではなく、前方後円墳では無いかと思いました。
その後、記事の中でも書いたように、地形を検討することに拠り、標高30m付近を造成することに拠り円墳を形成し得ると考えました。
その事は、邪馬台国の人たちは当然知っていたはずですが、日々卑弥呼の墓を見上げていたその脳裏には、円墳とその前方の一段低い部分の情景が有ったのでは無いでしょうか。
さて、邪馬台国は、その後東遷をして畿内に大和政権を作ったと考えている訳ですが、その地で首長クラスの墓を作るとなった時に、どう考えたでしょうか。
始祖とも言える卑弥呼の墓の前例に倣ったと考えるのが自然でしょう。
その時に、卑弥呼の墓は円墳だった訳ですが、彼らの脳裏には、上で考えたように、邪馬台国の地で見た卑弥呼の墓の情景が有ったはずです。
そこで作られたのが、円墳とその前方に有る部分をそのまま模倣した墓だったのではないでしょうか。
それが、結果として前方部と後円部からなる「前方後円墳」を作ることになったのです。
という訳で、「前方後円墳」は卑弥呼の墓へのオマージュから出来たという事になります。
その最初期の例の一つが箸墓古墳なのでは無いでしょうか。
ではでは
邪馬台国に位置に関しては、以前の記事で、大分県宇佐市辺りに有ると考えました。
ただ、上記の記事では、分かり易いランドマークとして宇佐神宮を使って、邪馬台国までの行程を考察したのですが、具体的にどこが邪馬台国なのかまでは特定出来ていませんでした。
それにしても、宇佐市辺りと言っても、いささか広いわけでして、近くには耶馬渓というそれらしい名前の所も有ったりしますしね、もう少し絞れないかなと思っていました。
前回の記事で、宇佐神宮辺りの赤色地形図を使って、卑弥呼の墓の位置について考えました。
その結果は、やはり宇佐神宮が卑弥呼の墓だという結論になりました。
その後で、宇佐神宮が卑弥呼の墓で有るとすると、宇佐神宮周辺の地形を考えることで、邪馬台国の位置を絞れることに気が付きました。
前回の記事で書いたように、卑弥呼の墓は、標高約30メートルの地点に作られたと考えられます。
宇佐神宮付近の地形図を見てみましょう(青色、緑色の線は私が追加)。
出典:「地理院タイル」(https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html)
宇佐神宮=卑弥呼の墓(緑色の線)の北西側には、南宇佐と表記されている青色の線で囲った地域が広がっているのが分かると思います。
一般的に前期古墳時代までは、墓の立地は低地を見下ろすような地形が多く、首長クラスでは、治めていた場所を見渡すような場所に作られていると考えられています。
卑弥呼の墓の場合も同様に考えられるとすれば、南宇佐と記されている辺りが邪馬台国だったという事になります。
発見された時に「すわ、邪馬台国か!」と言われた吉野ケ里遺跡は、これもまた有名な「環濠」に囲まれていますが、二重になっている外側の濠は総延長約2.5キロで、その内側の面積は約40ヘクタールだそうです。
で、南宇佐の外周と面積を、「地理院地図」の計測ツールで(相変わらず色々と凄い地図サイトです)調べてみると、周囲約3キロ、面積約50ヘクタールとなりました。
吉野ケ里遺跡と比較しても遜色は無く、一つの国として考えても問題の無いレベルの広さだという事になります。
最も、南宇佐の辺りだけに住んでいたとも考え難いので、あくまでも、そのあたりが中心だったのかなというのは有りますが。
という事で、「邪馬台国は、宇佐市南宇佐の辺りが中心だった」が今のところの結論になります。
ではでは
卑弥呼の墓の場所については、以前の記事で、大分県宇佐市の宇佐神宮では無いかと書きました。
その時には、宇佐神宮の有る亀山の山頂部の径百余歩に相当する部分を造成して墓としたと考えれば、「魏志倭人伝」の記述とも矛盾しないと書くに留まっていました。
そこで今回は、宇佐神宮が地形的に見て、卑弥呼の墓として本当に矛盾しないのかを、もう少し詳しく考えてみたいと思います。
少し前から、色々なTV番組で、「赤色立体地図」というものを目にするようになりました。
航空レーザー測量で測定したデーターを基に、地形を立体的に表示するというものです。
レーザー測量の特性から、樹木に覆われたような土地でも、土地の部分だけ立体図が出来ます。
そのため、多くは樹木に覆われている事が多い古墳の形状を、見たりすることが出来たりします。
論より証拠に、その実力を見てもらいましょう。
引用元:地図 [赤色立体地図] | 受賞対象一覧 | Good Design Award
どうですか、古墳の元々の形状がよく判りますよね。
これを使って、宇佐神宮を見てみようという訳です。
赤色立体地図に関しては、国土地理院のサイトで見ることが出来るようになっています。
しかもなんと、日本全国がです。
先ず、航空写真で宇佐神宮の付近を見てみましょう。
出典:「地理院タイル」(https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html)
ほぼ真ん中に有る森の中の白っぽく見えるのが宇佐神宮ですが、よく分かりません。
同じ部分を地図で見てみましょう。
出典:「地理院タイル」(https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html)
宇佐神宮のあたりに、何本か等高線が有るので盛り上がっているようです。
さて最後に、赤色立体図です。
出典:「地理院タイル」(https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html)
宇佐神宮が高いところに有るのがはっきりとわかると思います。
しかもかなりの範囲が、比較的フラットになっているようです。
この部分が墓の跡だと考えられるかどうか見てみましょう。
「魏志倭人伝」では、卑弥呼の墓は「卑弥呼以て死す。大いに冢を作る。径百余歩」となっています。
「径百余歩」については、「その径は百余歩の大きさである」という意味だと考えられています。
径というのは、直径の事だと考えられるので、卑弥呼の墓については、「円墳」だろうというのが常識的な考え方だと思われます。
次に「百余歩」についてですが、「魏志倭人伝」の記述なので、魏について調べてみると、
魏の時代には、一歩は1.447mだったようです。
余歩なので、100歩+αという事で、約150mという事になります。
上で見た赤色立体図に、大体150mの円を緑色で書き込んで見ました。
なかなかいい感じでは無いでしょうか。
チョット左(西)の部分が張り出しているように見えますが、これはどう考えれば良いでしょうか。
国土地理院のシステムでは、任意の部分の断面図も見ることが出来ます(素晴らしい!)。
そこで、緑色の円の中心を通る東西の線で切った断面図が、次の図です。
出典:「地理院タイル」(https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html)
図の左が西で、右が東です。
西側の左端から標高30メートルまで上がっている部分が、上から見た左(西)側の張り出ているように見える部分です。
標高30メートルの部分の横幅は、概ね150m近くの値となっています。
つまり、標高30メートルの部分から上を造成して円墳を作成したと考えれば、ぴったりと当てはまりそうです。
という事で、贔屓目で見れば、これはもう「卑弥呼の墓」という事で間違いなさそうです。
ではでは
日本人の宗教観と日本列島の豊かな自然の関係について考えた話です
外国人から見た日本人の特徴として、無宗教に見えるという点が取り上げられることがあります。
洗礼を受けたわけでもないのに教会で結婚式を挙げ、葬式はお寺で行い、大みそかにはお寺で除夜の鐘を突き、正月になると一転して神社に初詣に行く。
宗教を全く無視しているようで、訳が分からないという訳です。
私自身は、理系人間で、理屈が先に来がちなので、特に信心しているものは有りません。
宗教は何かと質問された時には、「不可知論者」だと答えることにしています。
まあ、神様も、仏様も、いずれも存在するとも言えないし、存在しないとも言えないという立場という事です。
それはともかく、日本人がお寺や神社に、宗旨に関係なく行ったりするのは、無宗教というよりも、生活の中で宗教を意識することが少ないと言った方が良いのでは無いかと思います。
日本人がなぜそうなのかについては、神仏習合の過去があったからだとか、江戸時代の檀家制度が一因だとか色々その理由について言われます。
その理由についても、前回の記事で日本人を日本人たらしめた理由として挙げた、日本の自然の豊かな生産力だったという事が言えるのでは無いかと思うのです。
その記事中でも書きましたが、日本列島においては、自然は敵対して征服していくものでは無く、共生し恵みを与えてくれるものでした。
その結果、全てのものには、八百万とも言われる神々が宿ると考えるようになりました。
信じるか信じないかといったものでは無く、ごく自然な身近なものだったのです。
それは文字通り、自然発生的なもので、共通の教義のようなものは無かったと考えられます。
そういった意味では、宗教だという意識も少なかったと思います。
そこに、仏教、キリスト教のような、教義のしっかりとした宗教が入って来ても、八百万の神と同じように捉えることに拠り、特に問題は生じなかったのだと思います。
とは言っても、仏教伝来時の争いや、キリスト教の弾圧、廃仏毀釈などが有ったじゃないかと言われそうです。
そういった争いは確かにありましたが、よく考えると、これらはいずれも権力側が宗教を利用しようとした結果だと考える事が出来そうです。
仏教伝来時の争いは、蘇我氏が、仏教を利用して旧来勢力に対抗しようしたものと考えられます。
キリスト教の弾圧は、戦国時代から江戸時代へと全国統一政権を作る中で、唯一絶対の神を主とする教義は不都合だったという事や、背後にスペインなどの影がちらついていたことも原因と言えるでしょう。
廃仏毀釈は、明治政府による神道の国家神道化による結果だと言えます。
つまりいずれも、権力側の都合の結果とも言えるわけで、社会レベルで特定の宗教を排斥するようなことが有った訳では無いのです。
という事で、各宗教側がどう考えるかというのは別にして、日本人にとって、神社仏閣教会の何れに行くことも、特に宗教という意識も、違和感も無いのだと考えられます。
様々な神社にお参りするように、寺院や、教会に行くと捉えれば、誰がどこへお参りしようが、人ぞれぞれで問題は無いわけです。
加えて、現代の日本人が、宗教についての体系的な知識という点で、あまり強くないという事も相まって、外国から見ると、極めて無宗教的に見えるという事なのだと思います。
と、書きながら、不可知論者の私としては、存在されているものなら、そのお姿なりをお見せいただけないものかと思っているのです。
ではでは
現在の日本人を形成したものについて考えた話です
よくTVの番組で、日本製品を、海外の人に見せたり使わせたりして、その驚く反応を見るといったものがあります。
よく見るのが、温水自動洗浄便座でしょうか。
あれなどは、日本人の私でも、初めて見た時には、トイレにここまでするかと思ったものですが。
最近では、ガチャや食品サンプルなども、その作りこみと種類の多さで驚かれ、且つ人気になっているようです。
また、面白いところでは、お菓子類の種類の多さも驚かれているようです。
こういった現象は、今に始まった事では無いようです。
エドワード・モースという、アメリカの動物学者で、明治時代にお雇い教授として東京大学で教鞭を取った人物がいました。
歴史や考古学の好きな人には、大森貝塚を発見した人物という方が分かり易いでしょうか。
その、モースが、日本の民具に興味を持ち、収集していたという番組を見ました。
民具に関しては、単なる生活道具にも関わらず、細部に渡る作りこみがあることや、様々な種類、意匠が有る事に興味を持ったようです。
また、動物学者という職業柄か、動植物を意匠に取り入れているのも興味深かったようです。
明治時代から、日本人の作るものには、日用品でも、海外の人を驚かすような特徴が有ったのです。
と言っても、これらをもって、日本人が優れているとかそういった事を、言いたいわけでは有りません。
単に、日本人が、そういったものを良しとしてきた人々だと言っているだけです。
どうして日本人はそうなのでしょうか。
そもそも、アフリカを発した人類の中でユーラシア大陸の東端に達した人々の一部が、様々な方角や、時期に日本列島にやって来て、今の日本人がいるわけです。
日本人を形作った様々な人々が、全て現在の日本人のような性質を持った人間だったとは思われません。
その後の時間の中で、現在のような日本人が形作られてきたはずです。
元は同じ出自なのに、違いが生じたのだとすれば、住み着いた日本という場所に要因が有るということになりそうです。
動植物の意匠が多いというのは、豊かな自然から来ているのではないかと思います。
以前の記事で、農耕が本格的に行われる以前の縄文時代から定住が行われていたのは、日本列島の自然の生産能力が高かったことに拠ると考えました。
日本列島においては、自然は敵対して征服していくものでは無く、共生し恵みを与えてくれるものだったのです。
だからこそ、全てのものには神が宿るのです。
その豊かな自然に加えて、農耕が導入された結果、投入された人員以上の人間を養える食料の生産がされるようになりました。
その結果、生命維持に特に必要ではない事を行うことに拠って、生活をする人々が増えていくことになりました。
多くの人間が、同じような事を行う事になります。
彼らの行う事の内容が評価され、その評価によって食料その他を手に入れる事になります。
当然、生活が懸かっているので、同種の事柄の間での競争は激しくなります。
さらに、日本が島国であったことが、条件を厳しくします。
大陸とは違って、簡単に出ていくことは出来ない訳ですから。
このような条件の下で、全てのものに対する作りこみや、種類の多さ、こった意匠などの、日本のお家芸ともいえる文化が生まれて来たのだと思います。
常に、過剰なまでの品質の、同じようでチョット違うものが評価されることに拠り、種類が多くなるのです。
自然の生産力の豊かな島国という条件が、日本人を日本人たらしめているという事でしょうか。
ではでは